見出し画像

哲学の勉強を始めよう

(自分なりに)「哲学すること」との出会いは大学生のときに海外を旅したときだと思う。wi-fiもつながらない環境下で、バスで24~36時間をくだらない移動をしていると考えざるを得なかった。(写真はペルーのチチカカ湖)

常識を覆す「違い」は問いを投げかける。

アジアや南米の発展途上国を旅すれば、「なぜこんなに発展が遅れているのだろう」「なぜこの国の人たちはいつも笑っているのだろう」「物乞いの子たちにお金を渡すことは良いことなのだろうか」と考え、煌びやかで資本主義の成功の象徴とも言えるビル群の裏に多くのホームレスがいるラスベガスやニューヨークのような都市を旅すれば「この世界は正しいのだろうか」と考え、翻って「日本は綺麗で整備されていて治安が良いのに、なぜ生きづらい人が多いのだろうか」なんてことを延々に考えていた。

国家間や人種間といった大きな違いを皮切りに、小さな違いも考えるようになる。「なぜ同じ環境で育ったのに妹と弟とは違うのだろう」「なぜ友人と自分の志望企業はこんなに違うのだろう」。

さらに単位は小さくなって自分の違和感に目を向ける。「なぜこの国にいるときは少し怖さを感じるのだろう」「なぜいま居心地の良さを感じるのだろう」

社会人になってからも、教育・組織開発・経営といかにも答えのない問題に向き合ってきたからやはり考えることは多い。

教育現場では「なぜ日本の学校教育はツーブロックの髪型さえ許さないのだろう」「なぜ日本の先生たちは同じことで苦しんでいるのだろう」「なぜ日本の教育はこんなにも”個の尊重”を謳っているのだろう」

時に自分が定めたコンセプトさえ、思考がぐるぐる回り続ける。「主体的とはなんだろう」「意思とは何か」「自律とは何か」「なりたい自分ってなんだろう」。「拡大することに意味はあるのだろうか」

組織開発の現場に行けば「リーダーの在り方で組織がこんなにも変わるのはなぜだろう」企業に勤めれば「明文化しているカルチャーと人事部の言動にはなぜこんなに差分が生まれるのか」「本音と建前にみんなはどう感じているのだろうか」コーチングに関われば「やりたいことが見つからないと悩む人がたくさんいるけれど、やりたいことって必要なのだろうか」と考える。

だれかが「社会のため」「地球のため」「子どもたちのため」と言い切れば言い切るほど、「それって本当だろうか?」と考えさせられる。

昨年度修了した大学院では、経営哲学の授業が最も印象に残った。アンドレ・コント=スポンヴィルの「資本主義に徳はあるのか」を筆頭に資本主義の構造を読み解くパートが特に面白く、社会の構造や人間の本質に強い関心を抱くようになった。あわせて履修した社会哲学の授業では「快楽説」「欲求実現説」「客観的リスト説」など哲学者たちが幸福について重ねてきた議論を学んだ。

自分が社会の中で感じる多くの違和感や考えさせられることは、歴史や構造が生んでいるものでもあり、実はすでにたくさんの議論が重ねられているのだと知った。

人間、歴史、哲学に興味を持つようになり、最近では友人とエーリッヒ・フロムの「愛するということ」の輪読をしている。愛の構造に対する理解を深めると、愛に対する重みや自分の考えを深めることができると実感している。

「自分の頭で考えること」はとても楽しい。その考えを深めるのには知識が必要だ。何千年も重ねられてきた叡智をインプットして、社会や人間を理解し、自分なりの考えを整理していきたい。#いま始めたいこと

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?