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恥を捨て、30年後に向けて今日も私はペンを持つ。

私には夢がある。

老後、京都の嵐山で自然を感じながら、ただただ景色に集中して絵を描くことである。

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国内外旅をして美しい景色を見る度に、自分の手で描くことができたら良いのになぁと思う。

小さい頃、絵をまったく描かない子どもだった。毎日、外で遊んでいた。そんな自分がなぜ絵を描きたいのか。よくわからない。

美術の成績は、ペーパーテストで100点をとったことがある。それでも成績は3だった。音楽も同じ。芸術分野は壊滅的だった。苦手だったから敢えて避けていた。

もしかしたら当時は、頑張っても上手くできないことが恥ずかしくて斜に構えてたのかもしれない。

「嵐山で自然を感じながら、ただただ景色に集中して絵を描きたいなぁ」と家族や周りの人に語って早10年は経っている。

「夢を見るのではなく、いまやれ!行動あるのみだ」は、現代の自己啓発書の常套句だ。(個人的には夢を見て、行動せずに、ただ日々を味わい、そのまま時間が過ぎることもまた人生として悪くないと思っている)

そんなわけで、先日絵画教室に行ってみた。

リンゴのデッサン。

photo ACより

これはフリー素材で、デッサンと言えば普通こんな感じになるらしい。

そして自分の作品。

絶望的である。小学生低学年でもこれより上手に描く子はいるだろう。

先生からアドバイスをもらった上でこれである。

しかし、私にはまだ30年ある。いや、40年あるかもしれない。

伸び代しかない。この10年、社会人として学んだことはピンチは常にチャンスであるということだ。マイナスはすべて成長の伸び代、やりがいの塊だ。

帰り際、先生に聞いてみた。

「私の夢は30年後に京都の街で、椅子に座って素敵な絵を描くことなんですが、この出来だと間に合わないですかね…?」

先生の後ろで描いていた私よりもやや年上だと見受けられる男性は笑っていた。その笑いに込められた意味までは読み取れなかった。

ちなみにこの男性、私が体験をしているときに、「◯◯さんは素人から始めたのにだいぶ上達していますね」と先生から声をかけられていた。たしかに上手だ。希望のロールモデルである。(素人とはいえ、スタート地点は私より上だろう。)

しかし、先生の表情の雲行きは怪しい。質問の意味が理解できなかったのかもしれない。

(こいつ、どのレベルを想定してるんだ…?)

先生「さ、30年あれば大丈夫ですよ…」

安心した。もちろんその「大丈夫」という言葉には、「あなたなら必ずできるようになりますよ」という意味はないことはわかっている。それでも「大丈夫」と言って欲しかったのだ。なぜなら、私には夢があるのだから。

私「よかったです。安心しました。ちなみに、基礎が大事だと思うんですよね(偉そう)。油絵とかに進む前にデッサンはどれくらい続けたら良いですかね?相当スタート地点が低いので、かなり練習が必要だと思うのですが」

先生「うーん、そうですね、1年くらい続ければ、かなり上達すると思いますよ」

い、いちねん…そりゃそうだ。むしろ、忖度してくれているくらいだろう。

早速、鉛筆と練り消しを買った。

本当にやるの?そんな暇あるの?他にやるべきことがあるんじゃない?苦手なこと敢えて今からやる必要ある?

そんな自分の声も聞こえてこなくはない。
「好きなこと・得意なことを伸ばそう!」の時代の中で、苦手なこと・不得意なことをやることは「非効率」とか「無駄」に感じてしまいやすい。
ましてや経済生産性は皆無である。

しかし、なぜ生きるのか?

Just For Fun

楽しかったのだ。体験は2時間だった。
2時間も集中してりんごを観察する時間がなぜかとても心地よかった。とても疲れるのだけど、残るのは心地よい疲れである。

目まぐるしく過ぎていく日々の中に、頭と心と体の束の間の休息として「絵を描くこと」を溶け込ませたい。そう思った。

そして、なによりも私には夢があるのだ。上手いとか下手とか関係ない。ただ、やりたいのだ。
30年後に向けて、人生を動かさないわけにはいかないのである。

リンゴアレルギーなのでばななで練習することにした。

30年後、京都にいる自分の姿をイメージして、今日も私はペンを持つ。

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