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いま「自分の手で書く」理由

自分のために、だれかのために、社会のために、自分の手で書く。

最近、「書く」ということについて考えています。日常的にchat GPTを使うようになり、そのあまりに高いレベルのアウトプットをみると、「自分で書く」意味について考えてしまう。

例えば、「あなたは塾の先生です。受験を終えた高校3年生に塾から送り出す際の熱いメッセージを500文字で書いてください。なお、私の好きなGReeeeNの歌詞を引用してください。」と指示して書いてもらった文章。

ちょっと歌詞が間違ってるし、少し冗長なところもあるけれど、それらの改善も時間の問題でしょう。

このようにある程度抽象的で聞き心地の良い文章はchatGPTが質高く書いてしまう。個人の経験などの書き手と結びつく具体が伴わない文章は、chatGPTが書いたものなのか人間が書いたものなのか、読み手が区別をつけるのは難しい。chatGPTに書いてもらったものを叩きに、一部の誤りを修正したり、自分にしか書けない具体的な経験や言葉を付加することで質の高いアウトプットを、今まででは考えられないほどの生産性で生み出すことができるようになったとも言えます。

では、いま、一から自分の手で書く意味はなんだろう。と考えてみました。

自分のために書く

まず、書くことは「知らなかった自分を知ること」を手助けしてくれる。

私は毎朝15分程度、ジャーナリングをしています。ジャーナリングとは、テーマを決めて、ただただ書き続ける作業。書く瞑想と言われたりします。
例えば「いま不安に思っていること」とか「いま自分が大切にしたいこと」など、自分についてクリアにしたいことをテーマに、10分間頭で考えずに、ただただ手を信じて書き出します。その後5分かけて、書き出された文章を眺めてみます。すると、「自分の中にそんな感情・考えがあったのか!」と気づくことがあります。自分は頭で思っているほど自分のことをわかっていないもの。また、無意識のうちに、自分の感情や考えを閉じ込めていたりもするものです。自分の内側にある何かを書くことによって表に出すことができます。

次に、書くことは学びや考えを深める手助けをしてくれる。

夜は15分程度で日記を書いています。朝とは違ってカチッとフォーマットを決めて、具体的な経験→そのときの感情→そこから見える自分の価値観→次のアクションと整理します。文字として書き出すことで、その意味を真剣に考える。書いてみてしっくりこなければ、また考える。目に見えない学びや考えを見える化し、そのまま自分の内側に蓄積していくような感覚です。自分で書くからこそ、矛盾した部分を認識したり、端折った細部を知っていたり、自分の経験との結びつきを強く感じたり、文章に自分だけの意味が宿ります。アイディアはchatGPTがたくさんくれるけど、文章の背景や意味合いは自分で書き出すからこそ見えてくる。世の中にたくさんの参考書があるのに、わざわざ自分で勉強ノートを作ることがこれにあたると思います。

最後に、ただただ楽しいから書く。表現したいから書く。

上で、塾生へのメッセージはchatGPTが書いてくれた。それをそのまま送っても塾生はわからないかもしれない。でも、やっぱり自分で書きたい。同じ文字だったとしても、自分の手で書きたい。プロの写真家が撮ったどんなに美しいヴェネチアの写真があったとしても、自分の足を運んで自分のiphoneでシャッターを押したい。それが人間の生きる楽しさでは!とも思います。

誰かのために書く

まず、「自分のために書く」に書いたことを誰かのために使うことで、相手の自己理解を助けたり、相手の考えを深めたりすることができる。

相手に何か文章を書く時(じっくり話すときもですが)、私は次の2つのステップを踏むことを心がけています。

まず、相手に対して自分はどのような感情を抱いているのだろうか、向き合ってみます。相手に思いを馳せ、心に意識を向けてみる。上のジャーナリングで書いたように、相手に対する想いを自分の内側から解放するように引き出し、言葉にしてみます。

その上で、つまり自分は何を伝えたいのだろうか、と考えてみる。さらには、どんなことが相手のためになるのだろう、と考え、言葉にします。

これによって、唯一無二の自分のフィルターを通した相手を表現することができるように思います。そうすると、相手は新しい自分に気づくことができる(ことがある)。人間はとても多面的で、自分だけではすべての自分を把握し切れない。だからこそ、特に最近思うことは相手のために書く(話す)ときには、みんなが気づくことには相手も自身で気づいていることが多いから、自分の感じたことを含めて細部を端折らないことが大事な気がしています。

私自身、もらった言葉によって「自分を知る」経験をたくさんさせてもらっています。新たな自分に気付けることで、世界が広がることも少なくありません。だからこそ、自分が相手を思って書くことには、相手の自己理解を助けたり、相手の考えを深めたりする力があると思えるのです。

次に、書くことで気持ちを伝えることができると私は思います。例えば、大切な人の目の前で、たった一言「愛している」と書いてその紙を渡すことを想像するとそこに何か強い意味があることが感じられるのではないでしょうか。世の中には美味しいレストランがたくさんあるけれど、味のおいしさにかかわらず誰かが自分のためにご飯を作ってくれることに価値があるように、私たちは自分のために書いてくれたことに強い意味を感じることができると思います。アウトプットではなく、そのプロセスに価値がある。

以上のようなことを改めて胸に留めて、大切な人たちのために、書くこと(話すこと)をより意識的に取り組んでいきたいと思っています。

社会のために書く

「〜の解決策を教えて」と言ったらchatGPTは教えてくれます。つまり、生成AIは高い問題解決力を持っているし、その力は恐ろしいスピードで進化しています。

いま研究者たちの中でも問題意識を持たれているところのようですが、そこに危うさがある。例えば、「地球温暖化を解決してください」と指示をした時、人間を絶滅させるという手段を取り得るかもしれないということ。サピエンス全史によれば、人類は認知革命と科学革命で大きく社会を前進させた。言葉による物語で人を動かし、つぶさな観察によって科学を進歩させてきたということ。それこそが生成AIが得意なことに思えます。

生成AIの進歩が目を見張る中、人間が磨くべきは問題設定力だと思います。人間が人間であり続けるために、倫理観と美意識を持って、適切な問題設定をし、生成AIを扱う側であり続ける必要があると思います。

生成AIの進化を待たずとも、アメリカの大統領選に代表されるように、フェイクニュースやフェイク動画が生成AIによって量産され、世論が煽動される世の中で、やはり人に求められることは適切で正しい問題設定力だと思います。

適切な問題提起が世の中を正しく美しい方向に導くはずです。今の時代に人間が書く意味の一つに倫理観を持った問題提起があるように思います。古くは聖書や論語などが、近代では法律や論文が世の中を前進させてきたように、世の中を適切な方向に導く、人間が人間のために書く文章は必要だと思うのです。

これからやりたい、書くこと

少し発散してしまいましたが、この文章を書いてみて、改めて今、少なくとも自分には「自分の手で書く」理由が結構強くあることがわかってきました。日進月歩で進化する生成AIが、これらの理由すら無意味化してしまう時代が来るかもしれないけれど、今はあえてもっと「自分の手で書く」ことにチャレンジしたい。

特に、誰かのために、大切な人たちのために、書くことは大事にして続けたいなと思いました。

書いていて、一つ新しいアイディアとして思いついたことは、両親にインタビューをして2人の自伝を書くこと。最近2人とも誕生日だったのですが、特にプレゼントを贈ることもなく、実家に顔を出して半年後にレストランに連れて行く約束しかしませんでした。両親もいい歳なので物をあげてもなーというのもあり、あまり良いアイディアがここのところ思い付かなかったのですが、息子である自分が自分のフィルターを通して、両親を言葉で表現してみること。両親からみたら経験値として不十分で未熟さが明らかですが、そこそこ経験を重ねたいまだからこそ、また自分だからこそできるプレゼントな気がしてきました。それが両親にとってどんな意味があるかはわかりませんし、自分のためな気もしますが、一から自分で書いてみたい。
「書くこと」についてつらつらと書いた結果、自分の内側からできてきた「自分の手で書いたからこそ」生まれたアイディアな気がしてワクワクしています!

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