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求められた自由

先日、アムステルダムの街中で友達と、パリの出版社を襲ったテロのニュースを見た。その夜、パリでは人々による大規模なデモが起こったが、アムステルダムも例外ではなく『ik ben Charlie』を掲げた大勢の人々であふれた。

ふと、日本で同じような事件が起きたとき、日本であんなに人は集まらないと思うし、それは彼らと僕たちがどのように自由を手にしてきたかの違いでもある。彼らには、必死に自由を求めてきたという歴史がある。だから、自由には貪欲であるのも容易に理解ができる。

今回、彼らは表現の自由を求めているのだけれど、ちょっと待った。宗教の自由は無視していいの?と思うし、今回の一連の事件の問題はもっと違うところにあると思う。今の世界に足りてないのは、他人のことを理解しようと努めることではないか。ただ暴力に走ってしまったことが、この点を人々の思考から奪ってしまった。他人を馬鹿にする風刺画。一方からは、ばかにされるべき対象であっても、他方からすれば信仰する対象でもあるわけであり、その点において、なんでも好き勝手に主観的に批判してはならないのではないか。人それぞれに、表現したり、信じたりする対象はあるはずであり、それらが異なることもあるであろう。

と、ここで日本の話をしたい。日本で同じことが起きても、今回のようにすぐに自らの意思を示す人は少ない(ほぼいない)と思う。もし、いたとしても「何言ってんだ」「私は知らない」と大半が無関心、もしかしたら叩くに適した対象にすらなるかもしれない。日本には主張を守る環境がない。

クッションのないところに誰も飛び込まない。日本では波風を立たせないほうが大切なんだろうな。そのお控えめな点が日本の美徳でもあるのが皮肉。でも、表現の自由を「自分の聞きたい表現だけを聞いて、聞きたくないことは聞かない」ことを表現の自由だとおもっている人がいる。

それは違って、「自分が聞きたいことも、自分の聞きたくないことも聞く」のが表現の自由なんだと思う。

午後の授業が休校になった。

笑えない風刺画なんかよりも、笑える映画を見よう。

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