「鴻池朋子 ちゅうがえり」

 基本的に映画でも美術展でも予備知識を入れずに観るようにしているので、鴻池さんのことは全く知らなかった。あるいはどこかで作品をチラ見していたかもしれないけれど、記憶はしていなかった。
 なので最初はどういうアーティストさんかわからず、なんとなくぐるぐると(このぐるぐると、は後から思うと結構ポイントである)見ていた。真ん中の滑り台を滑ったあと、彼女の書いたものがいくつかあるのに目を通すうち、これはすごいと思うようになり、おそらくわざとだろうが出口に作品一覧があるのに気づき、それを片手に1番から作品を辿り直した。
 そしてようやく色々なことが腑に落ちた。あるいはその渦に綺麗に巻き込まれたと言った方がいいか。
 作品として独立しているものは、可愛らしいものもあれば少し怖さを感じさせるものもある。大きいものもあれば(滑り台や襖絵)小さいものもある(埴輪のような焼き物)。ドローイングもあればカービングもあり、刺繍、編み物、焼き物もある。
 でも違うのだ。彼女が作っているのは「場」の「渦」のようなものなのだ。だから私たちはその場の渦に呑まれるしかない。作品を鑑賞する、を超えて作品の一部になる、作品の構成要素になってしまうのだ。
 彼女はいわゆる絵やインスタレーションや映像だけでなく、言葉や音も総動員してその「場」の「渦」を作る。宣伝文句にあるように、観客はもはや人間だけではない。その場の微生物や音や、なんならウイルスさえもが当事者で参加者だ。そしてそれらは全て一過性で通り過ぎていく。
 なんということだろう!
 こんなアーティストさんがいたなんて。
 力強くもあれば繊細でもあり、現代的でもあれば原初的でもある。
 東京のど真ん中の最先端のビルの中に、渦ができる。それは田舎か都会かなんていう二項対立を遥かに超えた渦である。
 自然であり同時に人為的であり、作為的であり運命的である。
 そこに、その場に呑まれる。渦の一部になって、吐き出される(出口へと)。
 その心地よさと大きさに酔った。
 その一部になれたことに高揚した。
 そして観客の中には自分たちが不作為に作品の一部になってしまったことに気づかない人さえいるのだろう。それすらも爽快。

 ネットで少し感想を見ていたら、毛皮が怖いという意見がいくつかあった。もしかしてそっちの方が多数派なのだろうか。私はとにかくその美しさに心を奪われてしまい、なんなら一つ家へ持って帰りたくなった。熊と狼の毛皮を縫い合わせたものなど、あまりの魅力に惚れ惚れした。可愛らしい裏地、ところどころに施された刺繍、けれど木の檻に入れられて。届かない、だけど抱きしめたくなる。

 アーティゾン美術館は初訪問で、色々思うところはあったのだけど、それを軽々と吹っ飛ばす、それこそ宙返りさせてしまう展覧会だった。
 渦は外側だけじゃない。ちょっとした渦を、身体の中にも巻き起こしてみる方法を、その一端を掴ませてもらったような気さえしている。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?