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アヤワスカ体験後、日常に引っ張られる半年の中で残せたものは

アヤワスカ体験をしてもうすぐ半年。アヤワスカを知ったのは8年前。ダイミ教にまつわる話を聞いたときに、ダイミ=アヤワスカに類するものと知った。ダイミ教については詳しい知識はなく、その信仰の詳細などはまったくわからない。正確には興味がなく、頭に残ったアヤワスカというフレーズだけに関心があった。

私はメンタルがあまり安定していない。過去に仕事を休んだこともあるし、精神科にかかっていたこともある。精神薬の危険性に気がついたのは、その処方される薬の量だ。生気がなく傲慢な態度の精神科医による1分診療で、メンタルに問題のあった私は次々に薬を増やされ、多いときは13種類だったと記憶しているが、おそらくそんなに大量には服用していない。多くて4種類か5種類な気がするがこれも強い関心がなく、覚えていない。ただ覚えているのは精神薬のちゃんぽんで精神が崩壊したことくらいだ。

幸運にも精神薬を処方したがらない医師と巡り合い、漢方や認知行動療法に巡り合い、状況が変わった。確かに仕事に戻るときには「社会との壁」を抽象的な意味ではないレベルで本当に目に見える形で実感した。復職の前日にはまったく眠れなくなり、結局のところ、復帰した瞬間にまたおかしくなってしまうのではないかと思うほどだった。しかし十分に休養したあとなので、なんとかその壁を乗り越えられた。ただし、人の体や心は一度壊れてしまうと100%回復することはないと感じた。機能が99%、90%、80%と元々の状態よりも下がってしまう感覚だ。ただし人間は対処法を学ぶことで、少ない力でも過去より120%の力を発揮することもできると考えている。合気道のような精神かもしれない。例えるならば、風を捉えて羽を動かさずとも空を飛ぶ鳥のような。なので波を捉えるサーフィン、風を捉えるパラグライダー、重力を捉えるスキーなどのスポーツは精神を安定させることに向いているかもしれない(スキーはちょっとわからないけど)。

アヤワスカを知ってから7年が経った頃、私にチャンスが訪れた。以前から体験してみたいと思っていたが、日本にいたらそれは不可能ではないかもしれないが現実的ではない。オランダにセレモニーを行う施設があるということをYouTubeで知り、予約のメールをした。先に国際送金で800ユーロを支払い、現地でも250ユーロくらい支払ったと思う。あんまり覚えてないけど12〜15万くらいで3日間のセレモニーが受けられた。これを高いと思ううちは、アヤワスカへの関心がそのレベルであることを意味しているのかはわからない。7年前の自分にはこの額は払えなかっただろう。

セレモニーの前には毎回約1時間にわたって“マザーアヤワスカ(母なるアヤワスカ)”についての説明と注意事項を聞く。感じたこと、起こること、すべてを受け入れて、抵抗しないことがアヤワスカからのメッセージを受け取る最善の方法だということがわかった。しかし現実はそう容易くない。初日のアヤワスカセレモニーは緊張もあり、努めて冷静でいようと心がけていた。その結果、吐き出すものも吐き出せない不完全燃焼感が残った(すごい体験をしたのは確かだが)。大切なのはSurrenderである。そして湧き上がった感情は「自分の殻を破りたい」という漠然とした欲求だった。

2日目はバッドに次ぐバッド。

サイバーパンク、ビデオゲームの世界に入り込んだかと思えば、フィラデルフィアやサンフランシスコなどで問題になっているフェンタニル中毒者の気分になった。ゲームの世界は常にインダストリアルロックのノイズのようなものが脳内に流れ、視界はピンクとオレンジと白のファミコンがバグったときのような色の四角い線で埋め尽くされた。さらに脳みそに機械をつけたスキンヘッドのアンドロイド(人間)の姿もあった。フェンタニル中毒者のターンでは、まずはまったりと路上でフェンタニルを決め、あぐらをかいている。同じく路上でゾンビのように立ったまま上半身を折りたたんで下を向いている中毒者たちを見て、「自分はこうはならない」と思いながらも恍惚の世界にいる。そしていつしか自分が上半身を折りたたむ姿が想像できた。

そしてふと我に返ったとき(まだぶっ飛んでるけど)、目に映り込んだのはマットレスの上で座る自分の足だった。そしてその足に光があたり、ボロアパートの一室にいる老人になった。惨めな将来を迎えることは好ましいことではない、とそのときに強く感じたため、あれから日常に戻って数ヶ月、気が付いたら資産形成が趣味になり、給料の半分を将来への投資に回すようになった。これまではその日暮らしのような生活で最低限の貯蓄しかしてこなかったから驚きの変化だ。実は初日も2日目も上記に書いたこと以外の体験も多数しているのだが、それは死生観につながるものだったので、また詳しく書きたいと思う。

3日目は呼吸にフォーカスしながらバッドに飲み込まれないように必死だった気がする。

大切な結論は、「いかに自分にフォーカスできるか」だった。そして日常は厳しく、過酷で、無慈悲で、自分から愛を奪う感覚を得た。満員電車に揺られる1人ひとりが愛や平和を少なからず強く願えるような日常が多くの人に広がったら、この世界は変わるだろうなと感じた。では日常に飲み込まれずに自分にフォーカスするコツは何か? それは結論にある「自分にフォーカスできるか」にかかっている。コア=本質を見出すために、私やあなたが“論外”でないことを願う。

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