見出し画像

2――『懐かしき産声』

〈4246文字〉

 朝八時――。
 事務職員ほか、作業員も事務棟のタイムレコーダーで出勤時間を打刻し、各仕事場のロッカールームに向かわねばならなかった。受付を通り抜ける際、挨拶と声かけはこの会社の社是でもあり、そこにいる誰かしらと必ず挨拶を交わすのが習わしとなっていた。
「おーす」
 「おはよー」
「うーす」
 「あら、寝ぼすけさん、今日はお早いこと」
  「図面のやり直しがあったの、忘れててさ」
   「あら頑張って。ほら、ミカンあげる。朝の果物は金よ」
「おいっす、おはよ」
 「うん? ああ、おはようさん」
  「アッ、係長でしたか。どうも、おはようございます」
「お、髪型変えた? おはよう」
 「おはよう。ちょっとよ、耳を出しただけ」
 その列に混じって、八木山も出社した。おずおずとだが、近くにいた女性社員に挨拶を投げかけた。
「おはよう」
 「おは、ア――、おはようございます……」
 背中を向けた女性事務員がそれまでと同様、元気を振りまくように、相手知らずの挨拶に応じようとしたが、振り返ると、開いた口をにわかに閉じて、両靴を揃えるように立ち、視線を落とすようにして、挨拶した。彼が昇進してからというもの、もともと●●●●よそよそしかった女性社員の挨拶に、なお一層の慇懃さが加わったようである。
 この『もともと』の理由を単刀直入に言えば、八木山は以前より女性社員から変人――ある種の変態――扱いされていたことに因る。すべては噂が噂を呼んだためであるが、彼がこれまで女性と付き合うどころか、接触すら持ち得なかったことによるもので、彼の女性に対する過剰なまでの気遅れから、かえって女性に警戒心を抱かせるようになってしまったのだ。一部では、『奇癖の持ち主』だとか、口さがない連中からは『性的異常者』とまで、憶測のみで流布されていた。
 蛇足ながら、彼はよく、従業員同士が付き合って、ベンチで手作りの弁当を一緒に食べているところなど、恋人同士が仲睦まじくしている場面に出くわすと、立ち止まり、目を細めて、幸せそうに(うらやましいというのではなく、自分もいつか誰かとあんな関係になれたらと、あくまで遠目に)眺めたものだが、それを偶然、はたから見ていた別の女子社員がいて、彼女が言うには、その光景は薄気味悪くて仕方がなかったそうだ、まるで親密な二人の恋模様をあざけっているようで。先入観とは恐ろしいものだが、彼がこう思っていたように見えたと、彼女は(途中自身の思いも代弁させつつ)言うのであった――『クソッ、あんな野郎のどこがいいんだか。女も女だ。年下の男をひっかけ、悦になりやがって。それに、あの厚化粧ったらないぜ。そんなに漆喰塗りがうまいのなら、左官屋にでもなりやがれっていうんだ。フン、どうせすぐに物足りなさを覚えるくせによ。ヘヘ、おれのところにくりゃ、イヤっていうくらい満足させてやるのにな』。そう、一つ付け加えておくなら、彼はその性格からか、三十二になる今も童顔そのもので、決して醜男というのではなかった。
 作業棟(工場)に移動し、着替えを済ませる。いつも通り一番早い出勤だった。決して他の部署と比べ、従業員にやる気がないというのではなく、彼が担当する板金加工に関しては、作業音がけたたましいため、どれだけ早く来ようと、既定の始業時間より早く仕事を始めるわけにはいかないのだった。むろん納期が迫っていれば別であり、その場合、周辺に住宅地がないことから、時間的制限はなくなる。あるとすれば、作業員の体力の限界のみである。
 八木山は、潤滑油が足りなくなっていないか、集塵袋が満杯になっていないか、その他確認も兼ねて、並んだ機械を見て回った。
 板金加工の流れは、おおかた次のようなものである。展開図の作成に始まり、板金の切断及び穴あけ加工、前加工(バリ取り)、曲げ加工を経て、各々を溶接し、最後にメッキや塗装などによる仕上げとなる。各作業は棟ごとに別けられ、八木山はこの中で主として、花形とも言われる『加工』にあたる箇所を担当していた。彼の会社では、様々な機器の筐体を造っていた。小さなものでは、機械仕掛けの一歯車のような精密機器から、巨大なパラボラアンテナまで作製することができた。現在彼の部署では、空調ダクトと総ステンレスのアイランドキッチンを同時に手掛けていた。八木山をはじめ、ここにいる人間は板金を折り紙同然に扱えるものたちであった。
 ちらほら作業員が増え始め、彼と挨拶を交わす。さっそく方々で雑談が始まるが、あいにく彼はその輪に入れなかった。しかし、昇進もあり、最近になってこれではいけないと、その輪の端に立ち、お追従の笑みを浮かべながら、話を聞くよう心掛けていた。話題を振られたことはまだ一度もない。
 始業のチャイムが鳴ると、彼は本日の作業の手順を説明し、仕事を割り振り、五分後にスピーカーから流れるラジオ体操で一日の作業が開始した。

 終業のチャイムが鳴った。八木山はいつも一番の若手と組んで仕事をすることにしている。早速片付けに入り、そそくさと職場をあとにしようとする新人の船尾を、彼は呼び止めた。
「ちょっといいかい。さっきさ、せん断加工を全部おれに任せただろう。あれさ、これから、きみの手でやってみないか?」
「えっ、これからっすか……」
「もしかして先約でも」
「ええ、まぁ……」
「そうか。しかし、きみも早く仕事を覚えたいだろうと思ってね。今日くらい暇なときも珍しいからさ。会社内での用事かい?」
「ええ、まぁ。それに急に言われても」
「……そうか、わかった」
「すみません。では、相手を待たせちゃうんで」
 船尾が出ていくと、同僚たちが聞えよがしにあざけり出した。
「あいつさ、今夜、若手のやつらと飲み会やるんだとよ。そのうちおそらく、街に繰り出して、女を誘ってしけこもうってはらだぜ」
「ふ~ん、どおりで仕事も気がそぞろってわけだ」
「そりゃ別に、いつもこったろ」
「へっ、そりゃそうだ」
「むさくるしいおれたち相手と呑んだって、つまらんわけさ」
「おまえは酒呑むと、熱した鉄よろしく、真っ赤になって口うるさく語り出すからな。シャーリングやタレパンなんか、一般人が何の興味もない話題をな」
「アハハ、しかし、このままじゃあ、あいつもあと半年もてばいいほうだろうな」内輪で騒ぎ過ぎたと見て、そのうち一人が離れたところに立つ八木山を見て、気遣うように声をかけた。「今の時代、若いやつは腐るほどいますからね、主任」
 八木山は儚い笑みでそれに答えた。
 作業場に鍵をかけるのは彼の役目である。機材の電源を落として回っているとき、スラックスに作業用ブルゾン姿の穂波が現れた。開いたドア越しに八木山を見つけると、彼は競歩を思わせる身体を反り気味にした小走りで駆け寄ってきた。長年この仕事を勤め上げてきただけあって、老いの中にも胆力を感じる老人であった。年齢も役職も異なるこの人物とは会話を交わすことさえ珍しく、彼がこの場所にやって来ることも滅多にないことだった。
「アッ、おつかれさまです」その様子にただならぬものを感じた八木山は、相手が目の前に来ると同時に問いかけた。「どうかされました?」
 穂波は挨拶を交わすゆとりもなく、辺りに目を光らせながら口数少なく問いかけた。
「ここは今、きみだけかね?」
「ええ、鍵を閉める前の点検を――」
 最後まで聞かずに返事をさえぎると、穂波は一層身体を寄せてきた。追って、濃い白檀の香りが匂い立った。
「で、聞いたかね?」
 八木山は目をパチクリさせて聞き返した。
「いえ、何のことでしょう?」
「ふむ。知るはずがないか。さっき警察より報告があったばかりなのだからね。……実はね、八木山君……」しゃべりたげな様子から一転、穂波は口をもごつかせて言い淀んだ。「きみは彼とは同期だったわけだし、いずれ知ることになるのだから言うとね。……今朝、篠栗君が亡くなったそうだ――自殺したらしい」
 のちに振り返ってみても、八木山はそのとき、どういう対応をしたのか、まったく覚えていなかった。
 穂波の話だとこういうことであった。約一ヶ月前に自身の横領が発覚した会議のあと、篠栗は刑事罰を問わない諭旨解雇処分となり、その後、見捨てるように縁を切った不倫相手より脅迫を受け、不倫があからさまになり、裕福な嫁の実家が経営する会社に身を寄せる計画も破談となった。妻との離婚が成立すると、何十年とローンが残る新居の二階の書斎で自殺にいたったという。遺書には、誰も恨まず、短くも悔いのない人生を謳歌したことが記されてあった。のちに加わる情報として、離婚を契機に態度を豹変させた不倫相手が家を訪れ、再び彼に言い寄り、負債の一切をなげうって、一緒に新天地で暮らそうと持ちかけたが、蹴り出すように追い返したという。横領の額が大したものでないことは先に述べたとおりである。篠栗はつまずきから坂を転げ落ちるように転落し、勢い人生から飛び出してしまったのであった。
 穂波が激しく呼びかけることで、八木山は茫然自失から目覚めた。どうやら手に握らせようとしているのは、彼が落とした鍵束らしい。
「どうしたね、それほどまでに驚いて。ほれ、気をしっかり持ちなさい。そうか、きみはまだ若いんで、人の死というものに関わってこなかったんだな。さ、これを持って――。わしゃあ、きみに感謝しとるよ。あんなやからを、わが社から追い出してくれて。どうもわしは、あの小憎たらしい、あやつの笑みが最初から好きになれんかった。わしは長年、採用の面接官を務めておるが、あれほど高をくくった態度をとったのは彼が初めてじゃったな。そのときからわしは気づいておったよ、この男には裏があるってね。思い出したが、その次に現れたきみは、終始ガタガタ震えておったっけ。わしは変に好印象を抱いたものじゃったよ。同期とはいえ、きみもやつには、飲み会の席で、女子社員らを前にからかわれておったというではないか。まったくろくでもないやつじゃった」
 そのときマイクで、穂波を受付に呼ぶ旨の社内放送が流れた。
「ふむ、警察が来たらしい。とにかく、きみにこのことを伝えたくて飛んできた次第だ。それではの」
 その後も、八木山はずっとその場に立ち尽くしていた。『わしゃあ、きみに感謝しとるよ』――その言葉だけがいつまでも頭も中で響いていた。


前章(1)                           次章(3)