見出し画像

3――『懐かしき産声』

〈8595文字〉

 篠栗には、よく人前であざけられたが、それさえ八木山には面映ゆくも喜ばしい、かけがえのない思い出だった。そうでもなければ、自分なんかが同僚たちの口の端に上ることなどないだろうと彼は思っていたから。

 彼らの会社では、八月下旬になると暑気払いとして、よく晴れた日の仕事終わり、従業員全員参加で中庭と屋根のある工場の一角を活用して、酒盛りとバーベキューをおこなうのが、恒例行事となっていた。あくまで社内でおこなわれる催し物であるため、忘年会のような無礼講とはいかず、会費を取らない代わりに一つの業務命令があった。社内での親睦を深めるため、各課の壁を取り払うよう努めることであった。そうなると、八木山の居場所は無いといって過言ではなかった。放りっぱなしだったトングバサミを握ったが最後、いつしか彼はバーベキューコンロの係となって、木炭の燃え具合を調整したり、肉や野菜の場所を移動しながら、ぬるいビールを飲むはめになっていた。しかし、大汗をかくので、そこまでまずくはないのだった。立ったり座ったりするので、ほどよく酒が回ったためかもしれない。あまりによく働くので、そのうちみな、彼がそういう役どころを任じられたのだろうと勘違いするようになった。これはまだ、彼が主任になる前の話である。
 屋根のある場所で、女性陣がしみじみ杯を重ねている席に、篠栗が顔を出した。
「おやおや、各課の看板娘であり、わが社でも指折りの美人四人衆が、こんな隅っこのテーブルで何やってるんだい? よければ話題に参加させてもらえないかな」
 一人が黄色い声で応じた。
「どうぞどうぞ、篠栗さんなら大歓迎。さっき若い男性二人組が来て、何にもしゃべんないから、色々質問したら、逃げ帰ったところだったんですよ」
 篠栗は怯えるまねをしておどけて見せた。
「フュー、そのとき、どんな質問したかはあとで聞くとしてだね」男どもが逃げ帰った跡と思われる空いた空間に、よそのパイプ椅子を滑り込ませ、どっかと腰かけると、横座りに足を組んで、篠栗は話を続けた。「ここの連中は、金属の扱いは熟知しても、こと女性の扱いに関しては、何一つ知らないやつが多いからね。ほら、そこにいるあいつ(八木山)なんて、誰も相手してくれないから、いよいよ鉄板相手に愛撫し始めやがった。見なよ、女王のおみ足に触れることを許された家来のような顔とその繊細な手つき。あいつは、女より金属のほうが好きなのさ。女心はまるで理解しえないのに、金属の延性と展性を見極めることに関しては誰よりも優れ、自由自在の形状に――というか金属にとって、あられもない姿にさえできるんだからね」
 他の三人はクスクスと笑っていたが、前置きなしの猥談に、驚きと戸惑いを隠せない――最近受付に配属された――若い女が、声をこわばらせ隣の先輩社員にささやいた。
「えっ、嘘でしょう? 嘘ですよね?」
 表情だけの返事に留めて否定しない女子社員に替わって、篠栗が答えた。
「ああ、碓井さん、いや渚ちゃんは、去年入社したばかりだったな。そうなんだ、きみみたいなあまり世間擦れしていない若い子が危険なんだ。パッと見、影があり、無口で、仕事ができる先輩――やつは、きみみたいな年上羨望型の女性にとって、惚れる要素が満載なんだから。でもね、無口なのは、単に頭で思っているのが、常に口にできないようないやらしいことばかりで、仕事で溜まった鬱憤は、怪しげな裏町で、ある別のもの、いや、ある行為で発散させているとしたら、どうだろう?」
 まだ噂でしか知らない世界を目の当たりにした気がして、渚は顔をそむけるようにしてうつむいた。
「わ、わたしには全然、そんな人には見えませんけど……」
 それでも反意をにじませる渚を前に、今度は他の三人の女性が驚いた様子で顔を見合わせた。そのうちの一人が問いただすように、渚の顔を覗き込んだ。
「あなた、もしかして、あの人のこと、『いい』って思ってるんじゃないでしょうね?」
「だ、だって、優しそうだし……」
 だしぬけに別の二人が、手で口を覆って噴き出したが、その先輩女子は笑い飛ばさず、顔を向き合せて、真摯に言い聞かせた。
「あのね、渚ちゃん。あの人だけはやめたほうがいいわ。ちょっとでも好意を見せてごらんなさい。家までつけてきかねない人なんだから。みんな、そう噂してるわ。ほら、篠栗さんも助言してあげてよ。あなたはあの方に関して、誰よりもお詳しいんでしょう?」
 それまで頬杖をついて、興味深そうに、じいっとその娘――碓井渚を見つめていた篠栗は、空咳を一つすると真面目くさった調子で言い放った。
「渚ちゃん。あいつはね、ぼくの同期で、実にいいやつですよ」
 周囲にいる人たちが一斉に振り返るくらい、三人が大声を上げて、篠栗を責め立てた。
「ア――ッ、もう、そんな言い方して!」
 次の瞬間、彼女たちが手のひらを返したように笑い出したのは、自分たちがこうなることを見越した上での、篠栗の発言であったことに気づいたからであった。
 篠栗は篠栗で、両手を肩の位置まで上げて、笑ってごまかし、話をすり替えた。
「あはは、じゃあ話題を変えて、きみたちの性格を診断する、ちょっとしたテストをしてみないかい?」
 もともと気乗りしない話題からの分岐に加え、そもそも若い女性が好む話題でもある。一も二もなく女性陣は賛同した。
「するする」「しますします」
「それじゃあ時計回りに、文枝ちゃん、成美ちゃん、渚ちゃん、千明ちゃんの順で答えてもらおう。あまり深く考えず、思いついたことを即座に言うんだよ」みながうなずくのを見て、篠栗はテストを始めた。「もし動物に生まれ変わるとしたら、何がいい? さ、文枝ちゃんから」
「え、そんないきなり……ね、猫かな」
「あたし、鳥。おっきなやつ」
「わたしは魚です。そこまで大きくなくてかまいません」
「じゃあ、わたしは熊、いえ、ライオンってことで」
 腕を組んで、鷹揚に構えた篠栗は、一人静かに得心して見せた。
「ふむ。これで、きみたちの内に秘めた願望が明らかになったよ」
 篠栗が自信たっぷりにそう断言すると、女子四人組は席から腰を浮かせるようにして色めき立った。その華やいだ声の大きさから、篠栗と四人の女子社員のいる席は、一層周囲の関心を集め始めた。前々より一部の青年たちは、事あるごとに彼女たちに視線を送っていたのである。
 何がわかったのかを質問攻めする彼女たちを押しとどめて、篠栗は順番に打ち明けていった。
「まず、猫を選んだ文枝ちゃん。案外きみは寂しがり屋だったんだねぇ。独立独歩のしっかり屋さんに見せておいて、実は甘えたがりなんじゃないか? 真っ赤になったところを見ると、自覚できているようだね。次に、鳥を選んだ成美ちゃん。きみは休みがあれば、旅行に出かけたがるほうじゃないかい?――やっぱり。平凡な生活から抜け出して、自由を求めたがる性格のようだ。鳥の大きさは、その度合いを表している。さて、渚ちゃん。きみは逆に、魚を選ぶんじゃないかと思っていたよ。きみは相手との距離を大事にする子だね。近過ぎず、遠過ぎずの微妙な距離を取ろうとする。というのも、誰とも清い関係でいたいからさ。八方美人の気があるが、決して悪いことじゃないからね。そして、熊ではなく、ライオンを選んじまった千明ちゃん。どっちも同じことだがね。きみはサディスティックな願望の持ち主だ。男をいじめたり、振り回すことに愉悦を覚える。もっとも、わざと出てない選択肢を選ぼうとしたのなら別だがね」
 あっけにとられたように、しばし返事を失う四人の顔を見れば、すべて的を射ていたことは明らかだった。にわかに生色を取り戻すと、全員が快哉を叫びながら、篠栗に詰め寄った。
「ど、どうしてそんなことがわかるんです?」
「まだ誰にも言ってませんけど、あたし、この次は初めて海外旅行に挑戦してみようと思っていたところだったんですよ」
「わ、わたしは出てない選択肢を選んだだけですからね」
「うそばっか、その気もあるくせに」
 篠栗は、目の前でテーブルマジックを見せたマジシャンさながら、得意然と微笑むばかりであった。その客同様、四人は新たなマジックならぬ、心理テストを要求した。
「じゃあ、今度は恋愛に関するものを質問してください!」
 その隣で「是非、是非」との声が上がった。
 シナリオ通りの展開を楽しみながらも、篠栗が一つ忠告を与えた。
「かまわないが、大丈夫かな? その辺が露わになっても」
 他のものより少しばかり酒の回った文枝が、士気を上げるように三人に呼びかけた。
「かまうもんですか。ねぇ、みんな」
「少なくとも、篠栗さんは既婚者ですから」
「そうよ、そうよ。きれいな奥さんがいらっしゃるんだから。新年会の写真、見せてもらいましたよ」
「はは、不仲になって、離婚したときは思い出すからね。では、そうだな、こういうのはどうだろう――おみくじを引いて凶が出たら、どうする? 今度は逆回りに、千明ちゃんから」
「エッ、ええっと、たぶん、持って帰るんじゃあ、ないかしら」
「出たことないからわかりませんけど、逆に運が良いと笑って自慢するかもしれません」
「あたしはきっと、もういっぺん引くわ」
「あんたたち本当? わたしは神社の木に結んでひたすら拝むけど――」
 それだけ言うと、四人は固唾を飲んで、篠栗の解説を待ち構えた。
「フフ、さっきとは打って変わって、えらく真剣だねぇ。さて、これで、きみたちが失恋したときに、どういう対応を取るかがわかったよ。じゃあ早速、千明ちゃんから。何より驚いたのは、きみが『持って帰る』を選んだことだ。これはね、思い出に縛られることを意味する。記念品を見ては、過去の恋愛に思いを馳せるのさ」
「ねぇ、まさか」成美が割り込んで、千明に質問した。「いわくを聞いてもはぐらかすばかりの、あなたのロッカーに吊るしてあるお土産品のキーホルダーって」
 恥ずかしそうに顔を伏せた千明が、成美の肩を押して、発言を制止した。
「やめて! 言わないで!」
 みながその反応に驚き、文枝が声を漏らした。
「ふ~ん、そういうわけだったんだ。あんたがねぇ……」
 流れが停滞しかけたが、したたかにうなずいて、篠栗に先を促したのも千明だった。
「よし、続けよう。次は渚ちゃん。早速彼女も真っ赤になってるけど、『出たことないからわかりませんけど』とは、そういう意味なんだね。だが何より、凶を引いても『笑って自慢する』というのは良い傾向だよ。何事にも前向きで、悪い恋なんてないと思える性格をしている。で、『もう一回引く』を選んだ成美ちゃん。きみは心機一転、新たな気持ちで、次なる恋に挑める人だ。言っておくけど、決して尻軽って意味じゃないからね。つらい恋のあとに、そう思えることは、心の均衡を保つ上でもすごく大事なことなんだから。最後に、文枝ちゃん。期待を募らせているようで悪いけど、『神社の木に結ぶ』――これは一番順当な回答でね。どんな恋も変わらず思い出として引きずるタイプだ」
 今度は篠栗が話し終わっても、返す言葉もなく、四人はしんみりと個別の世界に浸っていた。過去の恋愛、あるいは、自分の恋愛観と、篠栗の説明とを重ね合わせているのかもしれない。その様子を吟味するように、一人ひとりをためつすがめつ眺めていた篠栗は、四人を見終えると同時に、ガタリと椅子を鳴らして立ち上がった。
「ちょっと重たくなっちまったね。ぼくがいると話しにくいこともあるだろう。ではこれで、お暇するとするかな」
 ハッとわれに返った四人だったが、そこにいた全員が思いがけないことに、席を立ってまで、篠栗をその場に押しとどめたのは、渚だった。
「ま、待ってください、篠栗さん。最後にもう一つだけ。今の二つのテストは、現在と過去に関するものでした。今度は未来に目を向けたもの――たとえば、どういう恋愛をすべきか――を次のテストで試していただくことはできませんか?」
 そういう考えに及ばなかったあとのものは、慌てて彼女の意見に賛同、というよりは追従した。渚のあまりに真剣なまなざしに、篠栗は面食らい、笑って受け流そうとした。
「おいおい、ぼくは占い師じゃないんだぜ。きみたちには運よく当てはまったようだが、あくまでまねごと――ゲームをやっているにすぎないのだから」
「そ、それでもかまいません」
 真剣過ぎるのをいさめるつもりで、上司の顔もチラリと見せ、厳しい態度で臨んだが、相手が引かないのを見ると、篠栗は磊落に笑って、再び席についた。
「フッ、きみは見かけによらず、なかなか強情なようだね。組織の再編成があったときは、是非ともわが課に来てもらいたいものだ。それとも、これは恋愛に関することだけかな?」
 そう話しながら、立ちっぱなしの相手に手のひらを差し出し、篠栗は席に座るよう促した。自覚がなかったとはいえ、上司に対し命令さえしかけていたことに気づいた新入社員の渚は、穴があったら入りたいというように、いそいそと席に座り、小さな身体をなお一層縮こませ、聞こえるか聞こえないかのか細い声で返事をした。
「そ、そうかもしれません……」
「アハハ、素直なところもいい」と、そこに、篠栗の視界の端を横切るものがあり、彼は突然、片腕を振り回し、大声を張り上げて、そのものを自分たちの席に呼び寄せた。「お~い、こっちこっち、ちょっと用があるんだ。ここまで来てくれよ」
 現れたのは、首にかけたタオルで汗を拭う八木山だった。篠栗の背後で、女性たちのあいだに、緊張が走った。
 チラリと横目で女性陣を一瞥した八木山は右手をズボンのポケットに入れ、すぐさま篠栗だけに視線を向けた。
「なんだい、篠栗。急いでるんだけどな」
「何してる?」
「いや、炭火が熱くなりすぎたんで、水をかけようと思って……」
 バツが悪そうに答えたのは、コンロの担当でもなんでもないからである。
「へぇ、水なんかより、そこいらにいくらでもあるビールをぶっかけりゃあいいじゃないか。風味もつくかもしれないぜ」
 想像だにしないことを言い出され、八木山はたじろいだ。
「そ、そりゃいくらなんでも……それに、ビールだってアルコールなんだから」
「へっ、相変わらず、お堅いやつだ。まぁ、いいから、きみも、ちょっとしたテストに参加しろ」
「な、なんだよ、いきなり」
 たじろぐ八木山の肘を掴むと、有無を言わさず、篠栗はテストを出題した。
「すぐ済む。ではいくぞ――たとえば昼休み、最近親しくなった気の合う異性と並んで歩いていたとき、二人の前に、きみの前々からの意中の人が現れ『おや、付き合ってるの?』と聞かれた。そのとき、きみはどう答える? 待て待て、きみからじゃない。こちらのお嬢さんたちからだ。今回は一人ずつ指名しよう。まずは、このテストを要望した渚ちゃん」
「わたしは、きっぱり『違います』と答えます」
「文枝ちゃんは?」
「『どう見えます?』と、答えるかな」
「千明ちゃん」
「『ええ、そうなんです』なんて平然と言っちゃうかも」
「成美ちゃん」
「わたしはたぶん、庄内(文枝)さんと同じです」
 質問の形式に慣れた女性たちは、みな立て続けに答えた。
「よし、じゃあ、八木山――きみはどう答える? 考えるなよ。思ったことを思ったとおりに言うんだ」
「『そ、そうだったらいいな』って答えると思うよ、たぶん」
 出尽くしたはずの選択肢に、予想外の第四の答えを聞き、初めてまじまじと八木山の顔を見ることになった女性四人であった。
「ハハハ、まったくおまえらしいな。右か左かじゃなく、一歩下がるんだから。では、答え合わせだ。簡潔に行くよ。渚ちゃん、きみは『白馬の王子を求めるタイプ』だ。ともすると、晩婚になりがちだから気をつけるといい。文枝ちゃんに成美ちゃん、きみらは『自分に自信を持った女王様タイプ』だ。しかし、専制君主のように男を支配したい欲望がある一方、奴隷のように尽くしたい願望も秘めている。その気持ちがわかり合えるまで時間がかかるが、わかり合いさえすれば、結婚は早いだろう。『ええ、そうなんです』は危険だね、千明ちゃん。きみは『恋に恋する、夢見る乙女タイプ』だ。渚ちゃんと似て非なるもので、挑発的な態度が、かえってあだとなるパターンだ。意地を張らず、素直に謝ることを覚えなくちゃね。さて、八木山、おまえさんに関しては、ああだこうだ言う前に、横にいた女性が翻然大悟して『いいえ、この人とはなんでもありません!』って先に言い張るだろうな。さ、もう、いいぜ、八木山。肉が炭になっちまう前に、水取りに行ってこいよ」
「えっ、ああ、うん……」
 現にコンロでは黒い煙を上げ始めていた。不本意そうに立ち去る八木山の背中では、女たちのクスクス笑いが始まり、ついには堪え切れない大笑いが一帯に響き渡った。重たい雰囲気も吹き飛んでいた。

 ある懇親会でのこと。
 座敷を貸し切って、いくつかのテーブルで、席を決めずに飲み合っていたとき、もう五分以上にもなるが、八木山が一人の女性を見つめ続けていた。まだ周囲の関心を集めてはいないが、その女性は気管にものが詰まったらしく、こもった咳を繰り返していたのだ。向こうも、八木山が自分を見ていることに気づいたようである。二人は飲み会にあって、あぶれているもの同士であった。
 そのとき、八木山の隣の空いた座布団の上に、どしんと篠栗が腰を落とした。八木山は慌てて視線を逸らしたが、時すでに遅しであった。周囲の目も気にせず、八木山の肩を揺すると、篠栗は声を荒らげて言い放った。深酒を装っていたが、その実、決して酔ってはいなかったのである。
「おいおい、このあと帰り際にでも、想いを告げようったって、あの子のことを見つめすぎじゃないのか、八木山」
「ち、違うよ。そんな気は――」
 二人の会話に気づいた女性は、一刻も早く咳を止めようと、手近にあったコップのビールを口に運んだ。
「わかった、じゃあ、あれだ。おまえがあの子を見ていたのは、あの子が席を離れた瞬間、あの子のコップを奪おうって狙ってたんだろう?」
「そ、そんなこと考えるはずないだろ!」八木山は声を荒らげたが、自ら衆目を集めたことを反省し、上目遣いに女性を見つめながら、篠栗に事情を説明した。「あの子の咳がおさまらないんで、心配してたんだ……」
 しかしそのとき、自分が注目し過ぎたせいで、かえって咳が止まらない状況になっていることに気づいた八木山は、内心後悔を覚えた。一方彼女は、ビールに手を出したのがかえってよくない結果をもたらしたらしく、やはり咳はおさまらず、口に手を当て、小さなこもった咳を定期的に繰り返していた。
 今度はその様子を、篠栗が臆面もなく食い入るように見つめた。
「ああ、なるほどな。よくわかったよ」そこで篠栗は、八木山から話し相手を転じて、咳をしている女性へと話しかけた。彼が声高に呼びかけたせいで、奥にある別のテーブルの視線までもが一気に集まった。「なぁ山野さん、こいつはね、きみが『あのとき』もそんな声を上げるだろうと想像していたに違いないよ」
 確かに我慢しようとしても出てしまう咳は、そんなふうに聞こえなくもなかった。
 咳をしていた女性(山野)が顔から火が出るほどの恥じらいを見せ、顔をそむけると、周囲の女性が視線を振り向かせ、白い目で見つめた――八木山をである。
 八木山はその視線にうろたえながら、自身も顔を赤らめ、小声で篠栗を厳しく責め立てた。
「篠栗、たとえ酒の席でも、ふしだらが過ぎるよ!」
 あざ笑いながら、三倍はある声量で篠栗は言い返した。
「バカ言え、おまえのやってることこそ、ふしだらだってんだ!」
 彼の忠告が丸わかりになるとともに、周囲の男性陣がどっと哄笑した。女性たちも心ならず、つられて笑ってしまい、引っ込み思案な面があり、たまたま一人置き去りだった山野は、すぐさま別の女性たちのグループに引き入れられた。ふと気づいたとき、山野の咳はおさまっていた。
 居残った篠栗が、しばらくして小声で話しかけた。
「それより、この前紹介してやった女はどうだった?」
 唇をとがらせながらも、その場だけのささやき声で八木山は応じた。
「紹介も何もないよ。どういうつもりなんだ。呼び出したと思えば、無理やり酔った女性を押しつけて」
 八木山の剣幕に動じる素振りもなく、篠栗はタバコに火をつけた。
「で、行くところまで行ったのか?」
 八木山は恥ずかしそうに視線を逸らせた。
「きみの言うところがどこかは知らないが、とにかく家まで送って行ったよ。捕まえたタクシーに乗せたが、金を出しても、同乗しなければ泥酔者は送れないと運転手に言われてしまってね。同居人らしい女性に恐ろしい剣幕で怒鳴られたけど、それだって何を言ってるのかわからなかったよ。だいたいあの子だって、日本語も片言しか話せなかったし」
 篠栗は立て膝をついて、ため息まじりの紫煙を吐き出した。
「ったく、これだもんな。最近の若い女だって、ろくに日本語を話せないじゃないか。まったく、きみってやつは古風な女が好みなんだから。寡婦だったらなおよしってやつだろう?」


前章(2)                           次章(4)