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4――『懐かしき産声』

〈9381文字〉

 『篠栗が死んだ……』その重たい印象を頭に抱えたまま、八木山はつんのめるような前がかりの歩行姿勢で家路についた。不思議とそういう状態にあっても、人は習慣にのっとって無意識に曲がるべき角を曲がり、必要な場合はきちんと交通機関の乗り換えまでもこなして、家にたどり着くものである。
 工場街にある会社へは、ほとんどの従業員が公共交通機関を利用しての(重役たちにかぎり自家用車での)通勤をおこなうなか、彼は珍しくも徒歩通勤だった。それができたのも、ほんの一月半前、会社から程近い居酒屋で同僚たちと呑んだ帰り――当時は駅に向かう道すがら――、真夜中に近い時間でありながら、とあるアパートの門柱を撤去している現場に出くわしたことがきっかけであった。工事を終えたらしい、白いヘルメットをかぶり表情が見えない痩せ細った老人と、大家らしきどてらを羽織った中年男が、通りの向かい側から開け放たれた玄関まわりを眺めながら、何やらしゃべっていた。その前を、酔いと疲れ――そのときは仕事の疲れ以上に飲み会の気疲れもあった――から足取り重く通りがかった八木山は、つられて建物を右手に見、聞くともなく左耳で会話を仄聞すると、つと足を止めて二人の会話に割り込んだのだった――『えっ、ここ、空き部屋があるんですか?』。小声で話し合っていた二人は、はたと会話を中断した。この場合の担当となる大家が、前に出て、うろんな目つきで彼をじろじろ眺め回した。声をかけた相手が幾分酔ってはいるが、目つきもしっかりしており、酩酊していないと見るや、大家はふんぞり返った背中を丸め、胸で組んだ腕をほどいて、臍下丹田の辺りで手を擦り合わせると、いきなり猫撫で声を発した――『はい、空いてございますよ。わたしが大家なんでして』。大家はへりくだった接客がモットーらしく、八木山のほうもその後は相手に促される形で、自然と上手な物言いで話しかけていた――『ふ~ん、だが、どうして門柱を撤去してるんだい? どうせ、このアパートも取り壊すつもりだから、工事しやすいように入口を広げてるんじゃないのかい?』『とんでもない! 明治時代より使い続けてある石積みの門柱がついに壊れかけたもので、住人が怪我をする前に、撤去した次第なんです。今でこそ古めかしいアパートが建っておりますが、ここは元はといえば、旧華族のお屋敷があった立派な敷地だったんですよ。それこそ瀟洒な門構えで数寄屋造りの立派なお屋敷だったのですが、ほらよくあるように、売り家と唐様で書く三代目でして。その最後の証跡だった石柱も今はあのような次第で。どうです、よくトラックの荷台をご覧になってください。もうボロボロでしょう?』『いや、ああなってはもう元の状態などわかりようがないですが、もちろんそういうことなんでしょう。ん、あれは紙幣? なぁんだ、おふだか。でも、どうしてこんなものが?』『はて? どこかのものが飛んできたんでしょうなぁ。あとで取り払っておきましょう』『はは、取り払う必要なんてあるものですか。車を走らせれば、自然と飛んで行きますよ』『ムッ、そうですな。おっしゃるとおりで……』。表情を険しくしたのは、話が横道に逸れたためだろうと受けとめ、八木山は核心をつく質問をした――『で、たとえばの話、このアパートに住むとなれば家賃はいかほどなんですか? 場所柄、結構するのでしょう?』。大家はニヤリと笑みを浮かべると、他聞をはばかるように、油染みた毛糸の帽子を八木山の顔に近づけた。彼がうなったのは、鼻ではなく、耳を疑ったからである。たちまち酔いから覚め、平静を取り戻したことで、言葉遣いも普段の調子に戻った――『ウソでしょう、ここが! 二駅離れて、計四十分は歩く、今住んでいるアパートと変わらない……』。彼は今一度、目の前に建つアパートを見上げた。確かに老朽化が目立つ、古色蒼然たる二階建ての棟割長屋であったが、決して住めないようなところではなかった。間取りだって、おそらく今より広めである。言葉を失う相手に、おもねるのを止めた大家が話しかけた――『もしかして、あなた、工場街に勤めていらっしゃる?』『ええ……』『だったらここは最高の立地でしょうなぁ』『ええ、そうですね。アッ、もしや、別料金で帳尻を合わせてるんじゃないでしょうね、水道代が高いとか?』『いいえ、他と一緒ですよ』『だったら、どうして? 場所的には極めていい物件じゃないですか?』『ちょうど住人が引っ越したところなんです。他の住人と家賃で格差をつけるわけにもいかんでしょう? 大変運がようございますよ』『ふ~ん、だがしかし、どうして出ていったんだろう?』。率直な疑問が八木山の口からこぼれると、大家はこれまでそんな癖などなかったのに、やたら唇を舐め回しながら答えた――『トイレは共同、風呂がないのが気に入らなかったようで……』『へぇ、もったいない。この辺りには、いくらでも銭湯があるのにね』『まったく。――で、どうなさいます?』『ああ、うん、じゃあ、お願いしようかな』『ありがとうございます。それでは、手付を打ちますので、あなたのお名前と勤め先を教えてください。今、紙をとってまいります』。前を留めていないどてらをたなびかせて駆け出す大家を、ふとわれに返ったように八木山が呼び止めた――『あ、そうだ。最後に一つだけ……なにか●●●あるんじゃないだろうね?』。道路の真ん中で立ち止まった大家が、身体を正面に向けたまま肩越しに首だけを回して、ゆっくりと振り返った――『と、申されますと?』。抜け目なさそうな上目遣いを見せて、八木山は迫った――『ほら、たとえば、いわくがあるとかさぁ』『べ、別に、いわくなんて、そんな……』。突として、八木山がはやし立てるような笑い声を上げた――『アハハ、そんなに浮足立たなくても。冗談ですよ。そんなのぼくは気にしないし、あったってかまわないんだがね。あぁ、でも本当によかった。ここからなら、歩いて出勤できるし、だとすると交通費だってかからない。忙しいときには仮眠を取りに帰れるし、本当にいい場所と巡り会えたものだ!』。
 こうして、早速次の日には布団だけを先に移して、今の住居に落ち着いたわけである。この一ヶ月半というもの、夜は長く眠れるし、大通りが近いだけあって、おいしい小料理屋も近所に数軒見つけ、心身ともに健康になったような、これまでにない充実した日々を送っていた。入社して以来、初めての引っ越しだったので、八木山にとって見るものがすべて真新しい新天地というのはすがすがしいかぎりで、心持ちも変化し、自己分析ではあるが性格まで変わったような気がした。仕事場が近いというのは現実的にも良いこと尽くめで、これまでと比べても何一つ不自由に思えることはなかった――が、最近になって一つ二つ奇妙に思えることが出始めた。一つは、たまたま住人が引っ越して空きが出たばかりとのことであったが、他に住んでいる人間がいると思えないくらい静かなこと。誰かが住んでいるような音はするが、足音が部屋に入ると、物音一つしなくなるのである。あとで知ったことだが、大家はこのアパートには住んでいなかった。二つ目は、近所の人が、彼がこの建物の玄関から出てくるたび、なぜか毎回驚くことである。彼の挨拶にも伏し目がちに頭を下げるだけで、いそいそとその場を立ち去るのだった。しかし、一人暮らしの彼は、そんなことをいちいち気には留めなかった。
 さて、そのアパートに帰り着いた八木山は、今宵は風呂屋に行く気が失せ、濡れたタオルで身体を拭くと、茶漬けをかき込み、早々に床に就いた。悩んで解決する事柄ではなく、話し合う相手もいない以上、起きてふさぎこむのを続けるくらいなら、いつでも眠れる状態を保っておいたほうが楽だったからである。それは、篠栗を会議で糾弾したときも同じであった。そしてそのときもそうだったが、彼はすぐに重く沈みこむように深い眠りに落ちた。
 午前二時、彼はトイレに立った。以前は寝ぼけた状態だと、壁にぶつかるなど、方向を間違えもしたが、今は電気をつけずとも、戸を出て、月明かりのもとでトイレに向うことができた。習ったわけではないアパートのしきたりに従って、音を立てないよう気を配りながら、トイレに向かう。一ヶ月半になるが、運よくこれまで一度として、トイレで人と行き当たることはなかった。まだまぶたが半開きのまま、部屋に戻ったとき、不思議と室内が肌寒い気がした。部屋の真ん中、布団のそばに立って、目を凝らして窓を見る。ちゃんと閉まっていた。なんとはなしに部屋を見回した。押し入れがわずかに開いていたが、片手に布団を抱えたまま、見もせず後ろ手に閉めたので、そうなったのだろう。再び布団におさまろうとかがみこんだ刹那であった――背後で声がした。男とも女ともつかぬ声で、彼の脳が反射的に判断したのは、『風切り音だろう』ということだった。しかし、すぐに思考がその判断をあらためた。閉め切った部屋であり、それが音ではなく、声として聞こえてならなかったからだ。耳馴染みした人間の声というのは、他の人と聞き間違うことはあっても、たとえ外国語であろうと、それ自体を間違えることはない。彼はゆっくりと後ろを振り返った。
 けやきタンスを置いた部屋角に、寝間着浴衣とおぼしきものを着た、女性が立っていた。八木山は足を浮かせて反転し、その場にへたり込み、驚きのあまり声を失った。見ると、顎を引いたうつむき加減の女性の顔は半分が赤くただれていた。まごうことなき、幽霊であった。先ほどと同じ、喉を押しつぶした声が、再び聞こえた。顔にかかった漆黒の髪が声とともに浮きあがった。
「恨めしやー、憎き男めぇ、呪い殺してやる」
「う、うお、うお、うわあぁぁぁ!」
 生まれてこの方、一度として発したことのない、あらんかぎりの絶叫を張り上げて、八木山は飛び上がるとともに、再び尻餅をついた。今度こそ腰が抜けた彼は、その状態のまま両手両足を使い、布団をなぎ払いながら、部屋の対角線上まで引き下がった。幽霊は身体を揺らすようにして、ゆっくりと近づいてきた。
「あん畜生めぇ、うらまでおくべきか~」
「うわ、おわ、うわ、おわ」彼の横隔膜は引きつけを起こしていた。しかし、どうしてもその存在から目が離せなかった。と、窓よりかすかな月明かりが差し込む距離まで相手が接近したとき、彼はあることに気づいた。声が――彼の声が、われ知らず口から漏れ出た。「おう、おう、おお……ん、んん……あ、あなた、おきれいですね」
 一瞬だが、幽霊の動きが止まった。しかしすぐさま、今度は首を横に傾け、赤く焼けただれた顔の片側をむき出しにして近づいてきた。
「おのれ、出ていけぇ、この顔の恨み、晴らさでおくものかぁ」
 お化けが出たという恐怖があらためて彼を襲い、部屋角に身を寄せるとともに、腕を掲げて身を守る体勢をとった。が、またどうしても、腕の隙間越しに、皮膚のただれた凄愴たる幽霊の顔から目を離すことができなかった。
「ひ、ひどい……でも、ああ、それでも、あなたはおきれいだ」
 女幽霊は今度こそ立ち止まると、そこからにわかに足取りを速め、散らかった布団を跨ぐことなくすり抜け、襲いかかるべく腕を伸ばして彼に詰め寄った。
「殺してやる、殺してやる、殺してやるぅ」
 ついに完膚なきまで恐怖に飲み込まれた八木山は、震える膝を抱え、殻に閉じこもるように膝頭に顔をうずめた。幽霊が目前――動けば触れる距離に迫っているのは、ただよう空気の異質さから、皮膚全体で感じ取ることができた。だが、ここにいたると幽霊は、言葉は発さず、ただ威圧的に恐怖を植え付けることだけをおこなった。八木山は震えるか細い声で祈るように嘆願した。
「た、たすけて、ください……」
 目も開けられずそれだけ言うと、今度は、これまでの脅しをかけるしゃがれた声とは違う、冷たい女の声が、吐息までもが聞こえる耳もとでささやかれた。
「この顔がきれいだと……たわけたことを……ほら、顔を上げて、よぉく見るがいい」
 何が待ち受けるにせよ、この要求を無視し続けることなどできるはずがなかった。今の恐怖は、待ちうける三倍の恐怖にさえ勝るものだ。だからこそ、人は逃れようのない状況に自分を追いやり、銃殺刑さえ受け入れるのかもしれない。ともかく、命令通り彼は、膝から顔を引き離し、薄目を開け、ゆっくりと顔をもたげた。すると、鼻先数センチのところに女の顔面があり、顔半分が焼けただれた、まつ毛のない目が、髪の毛の隙間から彼を直視していた。
「ひいっ」
 彼はめいっぱい身をのけ反るとともに、身体を横向きにし、壁にへばりつくようにしながら、再び膝に顔をうずめた。そのまま木の葉のように彼は震えていた。
「ふざけおって、さっきはよくも――」
 そのとき、女幽霊の言葉と重なるように、顔をうつぶせにした八木山が、こもった声で主張した。
「だけど、あなたがそうなる前、おきれいだったことは本当だ」
「お、おのれ、まだそのようなたわけたことを言うか!」
 その声は、まさに人間の若い女の声そのものだった。
「ぼくは、誰にも、あなたにも嘘はつきたくないだけだ」彼は許しを乞うように、上目遣いの目を幽霊へと向けた。「だって、あなたも、嘘は望まないでしょう?」
「もし嘘などついたらおのれの舌など……なぜ、おまえ、泣いている?」
 そう、彼女の顔をあらためてその目で捕えたとき、彼の頬にはとめどない涙が伝い始めたのだった。八木山は照れ隠しをするように恥じらいだ笑みを見せて、急いで両手で涙を拭った。
「はは、この涙は、あなたが怖いからじゃないですよ。もっとも怖くないわけじゃないですけどね。今ぼくは、あなたがなぜ、そのような恨みを持った霊魂になったのか、悲しい定めを背負うようになったのか、そのことに想いを馳せたのです。あなたをそのような運命にしたものが憎い。あなたがぼくを呪うことで、その気が晴れるというなら、どうぞお呪いください。ですがその前に、一瞬だけでかまいません。この目に焼き付けさせてはくれませんか、あなたの本当のお顔を。あなたは幽霊だ。きっとその顔も怪我を負う前の状態に戻せるのではないですか。ほんの一瞬でかまいません。どうか見せてはもらえませんか?」
 しばしのあいだ、女幽霊は苦虫を噛み潰したような表情で八木山を睨みつけた。熟慮の末、嗜虐的に口元を緩めた女幽霊は、挑発的に応じた。
「約束は、守ってもらうわ……」
「ありがとう」
 幽霊が髪をかき上げると、一瞬だけ焼きただれた顔が元通りになった。そのとき視線は、これまでとは逆の一方通行になった。その間然するところのない美しさに、彼は感嘆の声を上げた。
「――ああ、なんて、おきれいだったんだ。銀幕の女優のようだ」
 自分の顔の評価でわからぬ言葉があったら、確かめたいというのが女心であろう。女幽霊はけげんそうに、彼を睨みつけた。
「『銀幕の女優』?」
「ああ、銀幕の女優というのはですね――」
 そこでわれを取り戻すと、女幽霊は勃然として色をなして、激しい剣幕で彼を怒鳴りつけた。
「ふん、そんなことはどうだっていい! 約束通り、あんたにはここから出て行ってもらうから」
「エエッ、それは困ります」
 どちらかといえば、大きくうろたえたのは幽霊のほうであった。
「あ、あんた、この幽霊を相手に、今した約束をもう破るというの。どうなるかわかってるんでしょうね」
 彼は彼なりの誠意を尽くして説明した。
「ち、違います! さっきの約束は、あくまで呪うというもので、呪われるなら致し方ないですが、出て行かねばならないのは困ります。だってまだ一ヶ月半ですし、通勤に便利で、住みやすいと思っているので」
 しばらく押し黙った幽霊であった。
「……あんた、よく、この状況でそれが言えたわね」
「ごめんなさい……」
 今度はため息をついた幽霊であった。
「謝られるってなんなの? そう、そういうこと、つまりあんたは呪い殺されたいわけねっ」
 『どうせ、男なんて、嘘か言い逃れしかしない生き物よ』――そんなさげすんだ眼差しで、幽霊は男を見下ろした。しかし、すぐにその目は見開らかれ、穴が開くほど見つめることになる。
「あなたとの約束だし、そうなることは覚悟しています。もちろん呪われたとて、ぼくはあなたを恨みません。あなたが先に約束を果たしてくれたのですから。でも、もしよろしければ、どういった経緯で、あなたがそうなったのか、教えてはいただけませんか? あなたの要求するところによると、あなたはここに住んでいた人に、化けて出るほどの恨みを持っておられるわけですね?」
 幽霊はあざけるような含み笑いをした、まるで子供が大人の話に割り込んで口出しするのを見るかのように。彼女は尻目にかける流し目を八木山にくれた。
「ふぅん、なぁに、あんたが仇を取ってくれるというの?」
 顔を赤くした、年相応には成熟しきれぬ幼い紳士が答えた。
「か、可能なら、それもやぶさかではありません」
「フッ、でもねぇ、それももう、今より百年近くも前の話なのよ。当然その人だってもうこの世にはいない。どう仇を取るつもり? さぁわかったわね。あんたが出て行く気がないなら、少しずつ呪って、仕事ができなくしてやるから」
 目線こそいまだ合わせられないが、その啖呵に受けて立つように彼も答えた。
「か、かまいませんが、もし仕事ができなくなったら、もっとここに居座ることになりますよ。ぼく、その、自慢するわけではないですけど、金の使い道を知らなくて、貯金だけは結構あるほうですから」
「なんですってぇ! ともかく、出て行かないなら、死んだほうがましと思えるような呪いをかけてやるわ。今みたいに、いちいち宣告したりしないから、よく覚えておくことね」
 この言葉を捨てゼリフにして、彼女は出てきた壁の中に引き下がろうとした。気味の悪さでいえば、彼女も彼に負けずとも劣らなかった。男の見てくれが悪いというのではなく(元来彼女は見た目で男を判断しはしなかった。色男に目移りしたことも生涯一度もなかった)、生きてから死んだあとも含め、八木山という男が出会ったことのない種類の人間だったからである。そもそも、売り言葉に買い言葉とはいえ、こんなにも長く生身の人間と話すのは得策ではなかった――『まったく、幽霊が熱くなってどうするのよ』。出て来たときの威勢のよさはどこへやら、墓場の幽霊さながら肩を落として、壁の中に引き下がろうとした――そのとき、八木山が独りごちた。
「……これも巡り合わせかな。今日のような日に、あなたに会うなんて……」
 これはあくまでも独り言で、彼は彼女がまだ部屋に居残っているとは知らなかったのである。
 そのまま壁に消えて、存在を失くすこともできたが、彼女は壁の直前で立ち止った。しばらくその場に居続けたあと、部屋の真ん中まで戻って彼に呼びかけた。
「……それって、どういう意味? 別にあんたなんかに興味があるわけじゃないわ。今宵、わたしに恐怖を抱かない理由があるんだったら、それを知りたいだけ」
 彼女が消えたと思っていただけに、彼は驚いた様子で振り仰ぐと、目を見張って彼女を見つめた。
「ぼくの話を、あなたが聞いてくれるんですか?」
「違うわ! あんたにしゃべるよう命令しているだけよ」
「命令――」自嘲気味ではあったが、彼は初めて笑った。「だったら、答えなくちゃいけませんね。ぼくはね、幽霊さん、今日いえ、もう昨日のことですが、人を殺したんです。会社の同期で、唯一の友達といえる存在を」
 それから彼は、一ヶ月前の会議で自分が篠栗を糾弾し、彼が会社を辞めたあとの経緯を説明し、結果昨日の朝、自殺にいたったことを、悲憤を帯びた口調で幽霊に打ち明けた。
 黙って聞き終えたあとで、女幽霊は口を開いた。同情というより、突き放すように言ったに過ぎなかった。相変わらず、月明かり差し込むだけの真っ暗な部屋で、幽霊は部屋の中央に立ち、彼は部屋の隅で体育座りしたままだった。
「馬鹿ね。あんたが、その男を殺したんじゃないわ」
「わかっています。でも、あいつが首にロープを巻いても、足下の台を蹴ったのは、ぼくなんです。ぼくがいなければ、あいつは死なずに済んだのですから」
「一つ教えてあげる。ロープを首に結んで生活してれば、誰でもそのうち死ぬわ。転ばない人間なんていないんだから。あんたはそれを気づかせようとしただけよ。あんたはきっかけを作ったつもりかもしれないけど」
「事実、自殺のきっかけはぼくだったんです。ぼくさえ黙っていれば、あの程度の目腐れ金を着服した犯人なんて、誰もわかりっこなかった。そして今後はきっと彼も、着服なんかに手を出さなかったに違いない。あいつは、危機管理に欠ける今の会社のありようが許せなかっただけなんです。本当に盗もうと思えば、彼の立場であれば、もっと多額の金を一度に盗み取ることだってできたのだから。それだって、あのときの泥縄式では彼を捕まえられはしなかったでしょう。そのことを思い知らせようと、あいつはわが身を犠牲にして汚れ役を買って出ただけなんですから。それにもかかわらず、あのときぼくは、まるで鬼の首でも取ったように……。実はね、幽霊さん、ぼくはあのとき、彼の説明の端々に、もう一つの声を聞いた気がしたんです。『おい、八木山、どうだ、おまえにわかるか?』って。『おまえにばらされるなら、おれは悔いはないぜ』って。あの一万円札を渡したときも、振り返ればそういう思いを秘めていたんじゃないかって思うんです。もちろん、その一万円札がぼくのものであったことや、その証拠もあるなんて思いもしなかったでしょうけど」
「今ここで、その篠栗という男がどんな気持ちで三途の川を渡ったか聞きに行って、あんたに教えることは簡単だけど、でもしない。死に際に書かれた遺書があるなら、それがすべてを物語っているはずだから。ところで、あなたって、見た目通りおこちゃまね」
「ア……あなたは確かに人生経験が豊富そうですね」
「マ、あんた、わたしをいくつだと思ってるの?」
「そう言うあなたこそ、ぼくをいくつだと思っているんです?」
 二人揃ってギョッとしたことに、彼女(の享年)は彼より七つも年下であった。
「ところで、どうしてあんた、さっきからわたしのほうに目を向けようとしないわけ? その前まではじろじろ見ていたくせに」
 自分の部屋に『女性』がいる気恥ずかしさには触れず、彼はこう言った。
「幽霊さんって、去り際を見られたくないかなと思って」
「やっぱ馬鹿ね、あんた……ヒデ」
「えっ?」
「秀よ。わたしの名前は秀子と言うの。別に呼ばれたいからじゃないわ。あんたが呼びにくそうだから言ったまでよ。覚えておくがいいわ、という意味でね。ともかく、約束を忘れないことね。出て行かねば、すぐにも呪い殺すから」
「そう、ですよね……あ、いない……さよなら、いえ、おやすみなさい、ひでこさん」


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