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5――『懐かしき産声』

〈10547文字〉

「ただいま」

「ただいま帰りました」

「今日は早く片付いてね。ただいま」

「ああ疲れた。今日からこの時間が続きそうだよ。ただいま」
「……どういうつもり?」
「アッ、やっぱり部屋にいてくれたんだ!」
「あんたね、だれが幽霊相手に『ただいま』なんて挨拶するのよ。はぁ、これまでの男どもはみんな、恐る恐る帰って来たというのに」
「じゃあ、顔を見たんでもう一度、ただいま、おひいさん」
「『おひいさん』? 何よ、それ?」
「ぼくだけのきみの呼び名さ。ヒデコさんって、最近では日の出の日出子や英語の英の字の英子もあるけど、呼び方や時代背景からいって、ヒデコさんのヒデって優秀の秀の字を書くんでしょう? それで、『ひいでる』という訓読みと、お姫様のような顔立ちと、(小声で)その振る舞いも少し込めて、そう呼ぶことにしたんだ」
 しばし二の句が継げぬ秀子であった。
「……幽霊をして、ぞっとさせる素質があるわね、あんた。数えでも、あんたより七つは若いはずだけど?」
「確かにそうだけど、ほら、生まれ年でいえば、きっと曾祖母以上になるわけだから」
「まさか、あんた、そういう意味で『おひいさん』とつけたんじゃあ」
「い、いや、違うよ! 『ひいばあちゃん』なんて言葉は、いま気づいたくらいで、そんなつもりは全然なくて。あれ、もういない……ん、どうしてだろう? ちゃぶ台の上の昨日買った食パンが真っ黒だ……」

 真夜中――。
「どうして、おひいさんは幽霊になったの?」
「この顔を見て、涙を流すような人だから、教えてあげるわ。つまらない、ありふれた話よ。人じゃない、時代がなしたことなの。今じゃあ、考えられないことでしょうけど」
 彼女の話は次のようなものだった――彼女が生まれたとき、父親はすでに亡くなり、母親しかいなかった。もともと蒲柳の質だった母親は子を産んで以降とみに病身となり、彼女は幼き日より母の看病に明け暮れる毎日だった。ある日、店で買い物をしていると、客だった商家の主人に声をかけられ、色々質問された。次の日、その主人が家に来て、母と相談した結果、彼女は商家の旦那に引き取られることになった。齢十歳の頃である。母は病院の施設に入ることが約束され、秀子は商家で礼儀作法を教わった。だが、引き取られ養われたとはいえ、養女としてもらわれたのではなく、あくまで下女としての立場であった。有体にいえば、母の養生と引き換えに、売り渡されたようなものだった。秀子はそれでかまわなかった、母が少しでも楽になれるなら。母親は三年後に他界したが、秀子の旦那様への感謝の気持ちは変わらなかった。十代の後半になると、いつしか、ごく自然と、彼女は主人の妾になった。旦那様に手を握られたとき、彼女は拒まなかった。彼女は言った『だって、あの方には返しようのない恩を感じていたんですもの』。だが、それより三年ののち、主人は湯殿で奇声を発して、卒倒し、亡くなる。脳卒中だったという。彼女は引き抜かれるように別の屋敷に雇われることになった。今度は最初から囲われの身であった。大層立派な家に住んでいたが、彼女は年老いた主人が何をして生計を立てているか知らなかった。というのも、興奮や疲労が祟ったのだろう、すぐさま老人は床に伏せるようになったからである。彼女はまた別の屋敷に女中として引き取られた。それが、いま八木山が住む敷地にあった華族の屋敷であった。主人は外交官だった。契約時の口約束のもと、極めて用心深く密通はおこなわれたそうだ。二年が経ったある日、主人の妻が秀子の見合い話を持ち込んだとき、寝耳に水の主人がいきり立って拒んだのが、疑いを生む結果となった。この家の台所事情は実質、公家出身の妻あってものだったのだ。不義が露見し、別れられるのを恐れた主人は、秀子に睡眠薬を盛り、密通で利用した離れの茶室に連れて行き、火を放った。それがちょうど今の、八木山の部屋のあった場所だという。
「ね、つまらない話よ。ちょ、ちょっと、あんたなんで寝たまま涙流してるの」
「いや、ごめんなさい。こんな悲しい話はないと思って……」
「……世が世だっただけ。実際最後の外交官なんて異国の地でろくな死に方をしなかったけど、旦那様方に恨みはないわ」
「ぼくなら、ずっときみを大事にする」
「何よ、それ……馬鹿ね」
「ううん、本当だよ」
「……」

 秀子は八木山が呼びかけたからといって、毎夜出て来てくれるわけではなかった。特に前回の話があって以降は、応答なしが続いた。八木山も呼びかけるのは迷惑なのだと、その行為を自重した。ただし、八木山は常にこの部屋のどこかにいる、秀子の存在を意識していたものである。ある日の眠れぬ夜、彼は意を決して、彼女に呼びかけた。
「ねぇ、おひいさん。一体どうして、きみはこの世に残ってるんだろう? わかってほしいのは、感情論抜きで、虚心坦懐に知りたいことなんだ。それとも、こういう話はしちゃいけないのかな」
「この際、断っておくけど、わたしは何一つ束縛されていることなどないわ。霊界のことだって、全部話してもいいけど、死んだときの面白味に欠けるでしょうから言わないだけ。どうもわたしたちの親玉と言っていい人たちも、死んだあんたたちには毎回腰を抜かすくらい驚いてほしいようだから。周囲からすればわかりきったオチなのに、その人だけはマンネリしないんだから。ね、つまり、こんなことだって言えるわけ。あんたはどうやらわたしの立場をおもんぱかって、しゃべるのを控えているつもりかもしれないけど、わたしが返事をしないのは、わたしが返事をしたくないだけだから、今後はわたし本人にだけ気を遣いなさい。で、何だったかしら、ああ、そう、わたしが死んだとき、この前も言ったけど、誰も責めるつもりはなく、成仏を遂げるつもりだった。この世にはもっと不幸な人がいくらでもいるのを知っていたから。死後、どうやらわたしは、こっちで天国と呼ばれているところにたどり着いたらしいわ。そこでは地獄でいう閻魔帳と同じ、人生の来歴が記された帳面に沿って、菩薩様直々による面談で、最終的な行き場所が決定するらしいの。簡単な項目確認がおこなわれ、わたしの行き先も容易に決定したらしいところで、菩薩様が『あら』との声を上げられた――『なんでここ、空白なのかしら?』。そして硯箱から筆を取り出されて、わたしにこう尋ねられたの『ごめんなさいね、秀子さん、こんなことを聞いて。でも、確かめておかねばならないことだから。あなたの初恋はいつ?』。わたしはぶしつけにも首をひねって、聞き返したわ『初恋って?』。菩薩様は慌てたそぶりでこうおっしゃられた『そうよね、突然聞かれてもね。でも、思い出してほしいの。たとえば、最初のお屋敷で、板前さんに惚れた経験とか。ほら、ああいう人って、若い子にはなかなか格好よく見えるものじゃない?』。『それでしたら、最初の旦那様かと』と、わたしが言うと、菩薩様は断固として否定なされた『ううん、それは違う。それはそうは呼ばないの。なにしろ二十歳以上も年が離れているし、手引きしたのも……オホン、その前に恋した経験を思い出せない?』。そのときのわたしには、その『恋』の意味するところがさっぱりわからなかった。すると、菩薩様が助け舟を出してくだされたわ『わかった。じゃあ、わたしがちょっと調べてくるから。ここで待ってて。一分とかからないから』。帰って来られた菩薩様は、ひどく深刻な顔をなさっていたわ『驚いた。あなた、恋を知らないのね。これはいけない。人間を経験したことにはならないわ(悪いけどこの辺りは聞き流してね。わたしもよくわからないから)。秀子さん、あなたには申し訳ないけど、もう一度前世に戻ってもらわねばなりません』。で、わたしは地上に降ろされたわけ、しかもこんな姿で。時代を巻き戻して、再経験させるわけにはいかなかったの。同じ轍を踏まないともかぎらないし、恐ろしくややこしい手続きがあるみたいだから」
「エッ、あ、それじゃあ、おひいさんは、初恋を知らないの?」
「ふん、じゃあ、あんたは知ってるというの?」
「あ、あるよ、小学生の頃だけど」
「で、どうなったの? ああ、わかった、ふられたのよね」
「ううん、ふられもしなかったよ。話しかけても目も合わせてもらえなかった」
「ふん、そんな子なんて、はなっから相手にされないほうがよかったのよ。ろくな娘にならないわ」

「おひいさんは、いつかは天上に帰らねばならない身の上なんだよね。どうやったら帰れるのかな?」
「知らないわ。知りもしないから、百年近くもこんな場所に居続けているのよ。ある意味、どちらが地獄なんでしょうね」
「……つらい?」
「それが案外苦じゃないの。百年くらい経ったって言ったけど、実際は地上に降りて、まだ一週間くらいしか経ってないような気分よ。だから、わたしがそう簡単に居なくなるなんて思わないことね」
「そうなんだ……ふふ」
「はぁ? なにそれ、いま笑ったでしょ?」
「ち、違うよ。霊の世界もこの世と変わらず大変なんだなって思っただけ」
「わたしはともかく、あんたが大変なのくらい知ってるわ。道楽一つなく、帰って、寝て、仕事に出かけるだけの毎日だものね」
「アッ……見てたんだね」
「……フン。わたしが天上に帰れるのは、この世の恨みがすっかり晴らせたときよ、きっとね」
「もし、おひいさんが天上に帰ったとき、どうなるんだろう?」
「『どうなる』って、何が?」
「ぼくは、その、これまでここに住んだ人たちとは違って、おひいさんと深く関わり過ぎた気がするんだけど。あっ、いやその、『深く関わる』といっても、変な意味じゃ――」
「あ、そんなこと。だったら大丈夫。記憶がなくなるだけだから」
「エッ――、記憶がなくなる……」
「そ、わたしがあんたと出会った日の朝日が昇る瞬間に、あんたの記憶がさかのぼるだけ」
「……それじゃあぼくは、篠栗が亡くなった日の朝にもどるってこと?」
「ううん、そうじゃない。やっぱり、あんた覚えてないのね」
「え、どういうこと?」
「その篠栗とかいう男を会議で糾弾した日の夜よ。わたしとあんたが面と向かって顔を合わせたのは。その、布団から飛び起きた驚き顔からすると、全然記憶にないようね。でもね、あんたはあの日も夜中にトイレに立って、部屋に戻って来たとき、確かにわたしと真っ正面に顔を合わせたのよ。あんたは酔ったような据わった目で、一分近くもわたしを見続けたあと、そのままおもむろに寝床に滑り込んで、五秒後にはいびきをかき始めたのよ。死んで初めてよ、あれほどの屈辱を感じたのはね」
「それは、その、ごめんなさい……」
「ふん、いいわ。あのときこそ、『おまえじゃ、格が違う』なんて言われた気がして、むかっ腹を立てたけど、あのときのあんたは、それほどに自分を追い詰めていたことがわかったから」
「だから、その次現れたとき、めちゃくちゃ怖かったんだ……」
「ば、バカね、あれは普通よ、普通」

「あんたに言っておくことがある。わたしは、あんたを殺せやしないから安心なさい。嘘をつくのは霊の心得に反するだろうから、言っておくわ」
「そんなこと思っても見なかったよ。でも、だけど、もし、きみがぼくとともに成仏できて、天上の世界でも一緒に暮らせるなら、ぼくは――」
「はぁ、なに? ぶつぶつ言って。後半、全然聞こえないんだけど」
「ううん、なんでもない……」
「だったら、これもついでに言わなくちゃならないのかしら。わたしにも、殺せる人間がいるにはいるのよ。でも、それはわたしを殺した人間と同じ種類の人間だけ。前にどうすれば成仏できるかって話をしたけど、それを果たせば間違いなく、わたしは天に召されるんじゃないかしら」

「まだ寝てないみたいね。一つ確認したいんだけどいいかしら? あんたって、男が好みなの。わたしの時代にもたまにいたけど」
「ブッ、ゲホゲホ、じょ、冗談じゃないよ!」
「あら、初めて怒ったわね」
「アッ、ごめん。だって、突然そんなことを言うものだから……」
「あら、わたしだって根拠がなくて言ったわけじゃないのよ。暇だったんで、あんたがいないあいだ、家探ししてみたんだけど、なんにもないんだもの、この部屋。女の気を引こうとするようなものが何一つ。タンスの引き出しを引き出した奥に、封筒に入れた裸の女の写真を見つけたときは、安堵したものよ。あのときはまるで、あんたの母親になったような気分だったわ」
「あ、あれ……み、見たの……」
「封筒から抜き出して、表を向けたときは、ポトリと落として、しばらく動けなかったけど――ふふ、冗談よ。これまでこの部屋に住んだ男のどぎついやつを見ていたから、拍子抜けしたくらい。それで、もしかしたらと思って、一応聞いてみたわけ」
「……ぼく、女性と付き合ったことないから……」
「あら、それは失礼。じゃあ、アレはもっぱらアッチで済ませてるのね」
「アレ? アッチ? ひょっとして、それって!……ぼ、ぼくはそういうのにお金を使ったことはないよ……」
「エッ――、じゃあ、まさか、あんた、玄人相手の経験もないの?」
「ないもなにも、おひいさんの時代とは違って、今はそういうことが法律で禁止されているんだよ。もっとも、ついこのあいだ、その法律が施行されたばかりだけど……」
「……驚いたわ。でも、そうね、あんたはそういうところへは行かないでよかったのかもね。勝手を知らない野暮天は吉原でも嫌われたっていうし」
「ぼくも一つ確認していいかな? おひいさん、お歯黒とかしていなかったよね?」
「あんな時代遅れ、するもんですか! それにあれは既婚者だけがするものよ」
「なるほど。ともかく、そういう時代の人なんだね」

「あんたの部下のすべすべ肌に、ほくろが目立つ人って役立たずね」
「ど、どうして、船尾のことを? まさか、おひいさん、職場を見に来てくれたの。ここから移動できるなんて、思いもしなかったよ」
「言ったでしょ、わたしにはなんの制約もないの」
「でもね、おひいさん、船尾は若いから、どうしても未熟だし、あいつなりには頑張っていると思うんだ」
「最後に仕事場に来て、最初に仕事場を出て行く――棟梁さながらね。どこをどう頑張ってるんだか?」
「そうだね……。だけど、今は他のことに気が向いているだけで、やる気がないわけじゃないと思うんだ。現に、これまで休んだことは一度もないし」
「休むと、遊ぶお金も減るからよ。そんなことだから、あなたが毎回尻拭いするはめになって、帰りが遅くなってるんじゃない」
「……うん。あ、でも、今度からはきみが見ているかもしれないと思うと、全然苦じゃなくなるな」
「馬鹿ね……(ってことは、これまでは苦だったってことじゃない)」

「おひいさん、今、台所にいない? 天板に乗って腰かけてたり」
「な、なんでわかるの。あんたには見えないはずよ!」
「うん、最近なんだか、おひいさんの気配を感じられるようになってきた気がするんだ」
「電気をつけて! いいから、早く! じゃあ、ほら、こっちを見て」
「エッ、うん、見たよ」
「どう見える?」
「どうって、久々に見たし、お顔も直してくれているから――き、きれいだよ」
「そんなんじゃなく、変わって見えない? たとえば、よく見えるとか?」
「そういえば――うん、ホントだ、よく見えるや! 透ける感じがなくなっているみたいだ」
「馬鹿ね、何を喜んでいるの! それは危険なことなのよ。もう一つ、確認したいわ。こっちに来て」
「エッ、いいの? うん……」
「わたしの差し出した手に触れてみて。そうじゃないわ、手を置くんじゃなくて、交差させるの。どう? 何か感じる?」
「い、違和感があるよ! きみに触れる感触がある。ああ、ぼくはきみにさわれるんだ!」
「だから、これは喜ぶべきことじゃないの! あんたが霊に近づきすぎてるってことなのよ。わたしがあんたの肉体の生気を吸い込んでいる証しなんだから」
「……それじゃあ、おひいさんはぼくの代わりに生まれ変われるの?」
「馬鹿ね、わたしは器を持たない霊なんだから、あんたの生気を吸いこめるのも一時的で、すぐに発散して、元通りになってしまうわ。でも、あなたは戻ることはない」
「でも、それならどうして、おひいさん以外のこの世に恨みを持つ幽霊は、そういうことをしないんだろう?」
「意思が――お互いの意思が――疎通できたときだけだからよ。なによ、その、今にも涙でうるみそうな目は。勘違いしないでよね。惻隠の情よ、惻隠の情! 他にも、親子とか兄弟とかでも、そういう感覚ってあるでしょう、そういうことを言ったのよ」
「か、かまわないよ! きみと一緒にいられるなら、霊になろうとも」
「バ、カ……」

 それからしばらくして、彼が仕事に出て行ったあと、彼女は彼が前夜隠し持って帰ってきた本を探りだした。異端邪宗の書物で、死者を蘇らせる術が記された本だった。むろん彼女は、そんなものがすべて眉つばなのを知っていた。

「窓の形のまま月光が差し込んでいる。今日は雲もなく、観月にはうってつけ満月だね」
「……こんな日、あなたは寂しいと思ったことはないの?」
「以前は思ったこともあったかな。でも今はないよ。アッ、けどそれって、おひいさんの恋人面をしているわけじゃないから、安心して。おひいさんの気持ちはわかっているから……」
「ふん、あんたなんかにわたしの気持ちがわかるもんですか」
「あ、ごめんなさい」
「女なら誰でもいいのよね、そばに居れば」
「そ、そういうわけじゃないけどね」
「ふん、わたしに気を遣ったりなんかして。……あなたは、もっと自分に自信を持つべきよ」
「そうかもしれないね」
「ふ~ん、知ってるんだ。自分の見てくれがさほど悪くないことを。とはいえ、美男子や好青年とは言えないけど」
「そ、そうじゃないよ。『自信を持つべき』は、以前篠栗にも言われたことがあるだけ。それも初めて顔を合わせたときに一度だけ」
「女性が、怖いの?」
「『怖い』? はは、怖いのかな、やっぱり」
「……わたしね、アレが商売としてできなくなるなんて思いもしなかった。だって、アレは社会が成り立つ上で必要不可欠なものと思っていたから、一部の女とほぼすべての男にとって。でも、そうなると狂暴な男が増えるものとばかり考えていたけど、かえって女に怯える男ができるなんてね。わたしがあなたに伽することはできないけど――いいからちゃんと話を聞きなさい――この着物を脱いで見せることくらいだったらできるわ。わたしはそっぽを向いててあげる。女を、知りたいんでしょう? 恐れはね、知ることからなくなるものよ」
「おひいさん……ううん、違うよ。ぼくはそういう意味で女性を知りたいんじゃない。そりゃもちろん、そのことも知りたくないわけじゃあ……いや本当は、たまらなく知りたくはあるけど、そういう関係から始めたくないんだ。きみがそんなことをする必要はない。ぼくが望まないんだから」
 伊達に百年近くも永らえているわけではない。ましてや、何も知らぬ男が相手である。住む世界が違う二人は、どうあっても結ばれることはない。終わりを望む秀子は、始まりを望む八木山の返事を聞いて、本来傷みを感じない身体でありながら、胸の疼きを覚えるのだった。

「器用に、ご飯を食べるわね。その右手の薬指の先はどうしたの?」
「あ、気づかれちゃったね」
「最初から気づいてたわよ。で――」
「あ、うん、以前挟んでしまってね、ベンダーの機械に。あ、ベンダーというのは――」
「その説明はいずれ聞くとして、怪我をしたのは若いとき?」
「ううん、そうでもない。実は一昨年のことでね」
「なんで、あなたほどの人がそんなことになったの?」
「今日はやけに追及するんだね」
「あなたが何かを隠そうとしていることは、目線の逸らし方ひとつで、すぐにわかるからよ」
「……ぼくは逆側にいたんだ。ベンダー加工をしていた仲間の一人が、軍手を機械に挟んでしまって、ぼくはすぐさま『停止ボタンを押せ』と叫んだんだが、彼はわめくばかりで動転してしまっていた。仕方なく、逆から手を突っ込んで、軍手を引き剥がしたんだが、運悪く、いや、運が良かったというべきか、薬指の先のみ失うだけで済んだんだ」
「相手は?」
「ん……もぐもぐ……打ち身で済んだよ」
「あんたって、まったくもって、損な性格ね」
「そうは言うけど、これが役に立ったこともあったんだよ」
「へ~、どんな?」
 最後に漬物を食べ、箸を置いて、お茶をすすると、彼は興味のなさそうな相手に向かって一席ぶつように語り出した。八木山の口下手な説明と、秀子の恐ろしいまでの洞察力がもたらすたびたびの質問を考慮に入れ、以下客観的な説明を施す。
 半年ほど前のある日のこと、彼が昼食としてよく利用する弁当屋にて、労働者風の中年男が若い女店員に向かって、買って食べた弁当のことで因縁をふっかけていた。その前に一つ、彼は作業場で一番遅く昼食をとるようにしていたので、そのとき時刻は昼の一時半を過ぎたところだった。店には数人の客がいたものの、みな見て見ぬ振りを決め込んでいた――『だからぁ、から揚げの量がこの前より、断然少なかったんだって』『申し訳ありません。から揚げは毎回均等な大きさとはいかず、若干大きさが異なることがございますので』『そうは言ってもよ、断然小さかったんだぜ』『申し訳ございません。すべて手作業でおこなっておりますので、その時々よって、大きさが変わることがございまして』『ああ、どこにそんなこと書いてあんだ? どこにもそんな張り紙ねぇじゃねぇか。そういや、昼待ったときは、順番だっておかしかったぞ』『お弁当は、できやすい順にお渡しすることになっていますので、そういうこともあるかと思いますが……あの、よろしければ、お代を弁償させていただきたいのですが』『当然だろ、早く出せよ。あ、それとよぉ、今日食べたから揚げ、生っぽかったんだけどなぁ。それはどう責任取ってくれるわけ?』。
 ちょうどそこに、八木山が割って入ったのだった。
「から揚げ弁当をください」
「アッ、は、はいっ」
「にいちゃん、あんたも、少ないのがくるかもしれないから気をつけな」
 店員に対するのとは一変、八木山はぞんざいな態度で受けて立った。
「ここのから揚げ弁当が少なかったことなど一度もない。なにしろ弁当箱からはみ出てるのが売りだからな」
「な、なんだと、おれが嘘ついてるってのか、てめぇ」
「小さかったのに、生っぽかっただと、笑わせるじゃないか。お嬢さん、こいつに代金を弁償する必要はないですよ」
「てめぇ、どこのコウバのやつだ? ああん?」
「あんたの考えは読めている。昼時、弁当買うのに長く待たされたんで、一言いいたくなったんだろう。ここは人気店だしな。だが、そこに書かれてある、『当店は弁当を一から作りますので、少々お時間がかかります』って、張り紙が読めないのか? それに、あんたの会社じゃ、返品するものがなくても代金を弁償してくれるのか?」
「ざけんな、もう許せねぇ。てめぇ、表に出ろ!」
 八木山は意気軒昂と応じた。
「ああ、出よう。お店に迷惑はかけられないからな」
「や、お客さんっ」
 彼は右手のひらを突き出して、女店員を押しとどめた。
「いいんだ。ぼく個人の責任でやってることだから……ん、どうした、出ようじゃないか?」
「あ、あんた、その指は、どうなさったんで?」
 下ろした右手に釘付けになっている男の顔を見て、八木山は立ち所に相手が自分をヤクザの世界から足を洗った人間と勘違いしたのに気づいた。それもどうやら、小指ではなくいきなり薬指を落としたことからして、ヤクザでもただならぬことをやらかした人間と認めたようである。そこで、八木山はその誤解を利用し、かえって真実味を持たせるように平然と言い放った。
「ああ、以前、落とし前をつけるよう命じられてね。さぁ、やるんだろ。表に出ろよ」
 すっかり青ざめた中年男は大きく一歩飛び退くと、両手を背中に回し、その場で平身低頭した。
「い、いや、とんでもねぇ。申し訳ないことをしました。おねえさん、お金は結構です。では、あっしはこれで。いえ、おっしゃられるまでもなく、もうこちらには立ち寄りませんので」
 男はそそくさと店から出て行った。その後ろ姿が見えなくなったとき、二人――八木山と若い女店員――は顔を見合すと同時に、堪え切れず笑い合った。その場に居合わせた客たちは、その姿を凝然と見つめたものだった。それというのも、この若い女店員は彼の指のことを前もって知っていたからであった。八木山は普段、釣り銭が出ないように弁当代を用意して、店に行くよう心掛けているのだが、前に一度、そのことを忘れて、紙幣で勘定をし、釣りをもらうとき、うっかり右手を出してしまったことがあった。そのとき、彼女には指先を失ったいきさつを明かしていたのである。それからは、顔を合わせるたび、彼女とは挨拶を交わす間柄になっていた。
「ふ~ん、驚きだわ。ちなみに、あなたがわざとそう呼んだ『お嬢さん』の名前は知ってるのよね」
「うん、自己紹介されたから……」
 当然、相手の女性も以心伝心、彼の名前をあえて呼ばなかったことに気づいていた秀子である。
「その子、おいくつ?」
「き、聞いたことはないけど、おそらくおひいさんと同じくらいじゃないかな」
「で――、本当はあなた、あのとき何弁当が食べたかったわけ?」
「驚いたな。どうして、別のものが食べたかったって知ってるの。あ、質問したの、おひいさんだったね。から揚げ弁当もわりと食べるほうなんだけど、そのときは気分的に生姜焼き弁当だったんだ。もちろん、から揚げ弁当もおいしかったけどね。ひそかに玉子焼きが追加してあったっけ。それにしても、すごいな、おひいさん。あの子も気づいたけど、おひいさんが気づくことのほうがすごいや」
「その子もあなたが違うものを食べたかったことに気づいたんだ、ふ~ん」


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