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6――『懐かしき産声』

〈4611文字〉

 工場では、作業時間内は機械を動かし続けねばならないため、昼食は代わる代わるとらねばならず、八木山は仕事の流れを把握しておくためにも、最後に昼食に行くことにしていた。新しい仕事なら、最初の工程が何より肝心であり、普段も一番遅く出ることで、その日の――つまりは午後の――仕事量の目処が立つからであった。また、腹は減るがオマケとして、昼食の時間帯をずらしたほうが、色々とせわしなくならなくて済むというのもあった。混雑を避けられるだけでなく、たとえば今日のような、雨が降ったりやんだりする、風の強い天気の悪い日に、場所がなく軒下で食べる弁当は、あまりおいしくないものである。
 財布の中の小銭を確認してから、通用口を右に曲がったとき、八木山は驚くべき光景に出くわした。
「今から、買いに行くのね、お弁当?」
 なんと、秀子が戸口横の壁の前に立って、彼を待っていたのである。それも、部屋にいるときの浴衣姿ではなく、洋装――とりわけ今風の格好をしてである。髪の毛もそつなく手直ししてあった。頭上には自分が入れるだけの小さな傘をさしていた。
「お、おひいさん? きみ? 本当にきみなの? け、け……けど、生きている人そのものだよ。まさか、生まれ変わったの? ああ、その鼻先であしらうような笑み、やっぱりきみなんだね。どうしたの? それにその格好、見違えたよ。ううん、すごく似合ってる。『ううん』って別に誰も否定してやいないけどさ。とにかく、きれいだよ。それにしても、まさか本当に部屋から出てこられて、こんなところで出会うなんて! しかもこんな真っ昼間に。嗚呼、ホント、ため息が出るよ。いったい、どうしたの?」
 あまりにも露骨な視線を浴びせられ、さすがの彼女も閉口し、恥ずかしそうに裸の足のすねを交差させた。
「いったい何個質問するのよ。それに、いい加減、裸婦画を初めて見る子供みたいに、目を真ん丸にしてわたしを見るのは、よしてちょうだい。そもそもわたしが先に『今から、お弁当?』って聞いたのよ」
「あ、ごめん……。でも、驚天動地で、今でも膝どころか、全身の震えがおさまらないくらいなんだよ。うん、お弁当だったけど、もういいよ。それより、このまま一緒に歩こうよ。どこかで、お話しない? 喫茶店なんかに寄ってもいいし」
 女性と二人きりで喫茶店に行く――それは当世流行りのデートコースであり、彼が長年ひそかに夢見ていたものでもあった。が、ぴしゃりと即座にはねのけられた。
「あいにく、そんな時間はないの。わたしが普通の人間のようにいられるのは、地上に降ろされるときに唯一授かった、この傘のおかげなんだから。しかも、それが使えるのも、こんな空模様のときだけ。わたしはね、今、あなたに会うために来たんじゃないの。毎夜、否が応でも顔を合わせなきゃならないってのに、なんでわざわざ。というわけで、さ、行きましょう」
「エッ、どこへ?」
「弁当屋に決まってるじゃない」

 秀子は、行き道を知る八木山に、一歩前を歩くよう命じた。できたら背後からでも彼女の姿をずっと見ていたかった彼は、『せめて横並びを』と譲歩を願い出たが、彼女は許さなかった。なんなら彼としては、召使いのように傘を持ってそばにつき従いたいくらいであったが、彼女が受け入れるはずがないのは目に見えていたので、余儀なく命令に従った。
 そうして露払いを任じられた八木山であったが、心情としては背中を向けて歩きたいくらいであった。彼が何度も振り返ったため、ついには秀子に傘で顔を隠されてしまった。それでも彼は、秀子に気づかれぬよう身体は前向きに、顔だけを横にして、足首まで覆った彼女の小さなブーツをチラチラ見つめた。前から人が来れば大変な目に遭うところであったが、悪天候もあり、さいわい通りに人はいなかった。
 普段はいいことでも、このときばかりは残念なことに、弁当屋はすぐ近くだった。角を一つ曲がったところで、彼は指差した。
「ほら、あそこだよ。それにしても、おひいさん。お弁当屋さんに何の用があるの?」
「話を聞いたら、見てみたいと思ったんだもの、いけない?」
「全然。……でも、一言いってもらえたら、よかったかなって。だって、出て行く時間帯こそわかっても、今日ぼくが弁当屋に行くかどうか、わからないでしょう? この辺りには、他に食堂もあるんだし、もしかしたら別の出入口から出て、行き違いにならないともかぎらない。もちろん、たいていの場合、あの通用口から出て、おひいさんが望むなら、弁当にするに決まってるけどさ。それに何より、こんなに驚かされたのは、きみと初めて出会ったとき以来だよ」
「幽霊はね、『出会う』ものじゃないの、『遭遇』するものなの。それに、あなたが弁当を買う気でいたのはわかっていたわ。昨日、食べそこなった生姜焼き弁当の話をしたんですもの、今日絶対に食べたくなるってね」
「あっ……、お腹が減ってるのに、ぐうの音も出ないや。あれ、今、おひいさん、笑わなかった?」
「わ、笑うわけないでしょ、そんなつまらない駄洒落」
 この男が駄洒落を言うとは思わず、また彼自身狙ったわけでもなく自然に出てしまった感のある、弱り目に祟り目の語呂合わせが、彼女に失笑をもたらしたのだった。実のところ、それは長年彼女が封印していた感情だけに、彼女自身を驚かせた。何よりその封印が解かれたのが、狙ってもない、自然な態度でなされたことが――気恥ずかしそうに前を振り向く男の姿と相まって――、霊としてのプライドを傷つける以上に、心の痛みとして彼女に残った。その理由――その感覚が意味するところ――は、そのときの彼女には、まだわからなかった。死んで以後、経験したことのないたぐいというのではなく、生まれてこの方わからないのだった。彼女にとって確かなことは、この男と出会って以降、彼女の霊としてのプライドはズタズタの状態にあるということである。だが、果たしてそれは彼女の責任であろうか? そもそも幽霊に異性を感じる人間がいるなど、誰がわかりえよう?

 弁当屋の接客係である浦田生子は、そのとき仕事着である割烹着姿のまま表に出て、奥の厨房からは見えない通りに立って、七歳ほどの少年に、紙袋を手渡していた。
「ごめんね、お腹すいたでしょ」
「うん、すいた」
 生子は視線を合わせるようにかがみこむと、素直な少年の頭を撫でた。
「ごめんね。こんな時間になって。朱美、いえ、お母さんの具合はどう?」
「あ、コレ――お金」
 少年は『お母さん』と聞き、言付けを思い出したのだった。
「いいの、残り物をかき集めたお弁当なんだから。お薬はあるの?」
「ある」
「じゃあ、気をつけてお帰りなさいね」
「うん、おばちゃ――おねえさん、さよなら」
「おばちゃんでいいのよ。お母さんと同い年なんだから。夜に伺うわ」
 すでに走り出していた少年に向かって、生子は早口の大声でそう呼びかけ、少年の後ろ姿が見えなくなるまで見送った。そして、振り返ったとき、ちょうど逆方向から現れた二人と鉢合わせとなった。
「こんにちは、浦田さん。お弁当いいかな」
 生子は最初、たまたま八木山ときれいな婦人とが横並びになっただけと思ったが、八木山が止まると、その女性も足を止め、話しかけられた自分をじっと見つめていることから、八木山の同伴の人であることを認識し、何よりまずそのことに驚いた。挨拶を返すのも忘れて、生子は質問を投げかけていた。
「あの、八木山さん、こちらの方は、もしやその、八木山さんの恋人さん……ですか?」
 八木山は、返事に窮してしまった。
「い、いや、そうじゃないよ……」当然の疑問でありながら、まったく予想していなかったからである。このとき彼の頭は、秀子が現れたことで、それどころではなかったのだ。とっさに頭に浮かんだ兄妹という言葉が似つかわしくない気がして、あとを追って口から飛び出したのが、次なる発言だった。「し、親戚の人なんだ」
 空いた間が気になるところではあったが、それでも彼の返答に得心すると、一瞬だけ顔を輝かせた生子であった。
「そうなんですね。あ、さっきはごめんなさい、こんにちは」と、八木山に挨拶を返したあと、生子は片時も自分から目を離さずに見つめてくる隣の女性にも、頭を下げた。「あ、あの、こんにちは」
「こんにちは。お噂はかねがね。こちらのお弁当屋さんはおいしくて、人気だそうで。ところで、さっきの子供は、あなたのお子さんなのかしら?」
「おひい、ンンッ」喉を詰まらせたような咳をすると、八木山は厳しい口調で『連れの親戚』をいさめた。「秀子さんっ、そんな質問は失礼だよ」
 ところが、まるで八木山の知らぬ間に、秀子と生子の立場が確立しているかのように、生子は素直に彼女の質問に答えた。若干、素直すぎるくらいであった。
「いえ、あの子は高校の同級生の子で、わたしは、その、まだ、誰とも……」言ったあとで、生子は顔を真っ赤にさせた。「アッ、どうぞ、中へお入りください。お弁当は何になさいますか?」
 八木山が弁当を注文したあと、秀子が言った。
「わたしはもう食べてきたし、今日は頼まないから、入口に居るわ」
 傘の都合もあったのだろう。
 遠目の視線とはいえ、突き刺すような秀子の視線に耐えきれず、生子は八木山にささやくように話しかけた。
「あのう、八木山さん、そちらの秀子さんとは、どのようなご親戚にあたるのですか?」
「エッ、うん、ちょっと遠い、母方の叔父の――」
 そのとき、秀子があきれかえった口ぶりで、会話に割って入った。
「嘘ですよ。この人、こういう言い方しかできないんだから。この人とわたし、そんなに遠い親戚じゃないんです。三親等と離れていないんですからね。だから一緒に歩いていられるんです。これが四親等以上だと、とてもじゃないけど、ねぇ?」
 呼びかけられた生子は、伏し目がちに応じた。
「そ、そうなんですね」
 真ん中に立つ八木山は、二人を見返し、不思議そうに秀子に尋ねた。
「なんで、四親等以上は駄目なの?」
「ほら、これなんですもの!」
 秀子が図に当たった顔で叫ぶと、生子は一層恥じらいで、逃げるように厨房を振り返った。

 せっかくの生姜焼き弁当が冷えるからと、通用口の前で八木山を施設内に追い返し、一人になったとき、秀子は思った――『あの人に聞いて、どんな仕事をしているのかと思えば、ひどいものだわ。工場勤めのいたる労働者と、接客せねばならないなんて、まるで男たちへの見せ物のようじゃない。あの子の身の上は、指名を受け、拾われるのを待っていた以前のわたしのよう……。世が世なら、わたしもこんなふうにして働いていたかもしれないわ。いつかあの子も知りもしない金持ちに――金持ちならまだいい、無一文の女たらしに――見初められて、嫁に行くことだってありえない話ではない。お天道様だって、あの子が誰と結ばれるべきかご存じのはずよ。知らぬは今のところ、主役のご両人だけ。じゃあ、今、わたしができることといったら……(エッ、何、この胸を締めつける感覚?)……。それにしても、わたしにだけ見える、あの子の眉間の痣だけは調べておく必要があるようね。病ではないわ。病で死ぬ人には、もっと違う死相●●が見えたはずだから……』。


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