見出し画像

1――『懐かしき産声』

〈6500文字〉

「今日来てもらったのはほかでもない。わが社で、とある問題が出来してね。いや、相すまぬ。定例でもないのに、職長たちを集めて何事かと思われているものもいるようだ。伝えるべきものには伝えてあるのだが、ともかくここからは、進行役を篠栗君に任せるとしたい」
 事務棟の二階にある会議室には、社長のほかに十名の主任役が席に着いていた。今朝九時、各部署に打診する形で伝えられ、正午前に招集された会議である。この場には『何用か?』と困惑しているものが、確かに半数ほどいた。遅く来るものほど、室内の張り詰めた空気に驚きを隠せないようだったが、その彼らが集められた理由を別の同輩たちから教わることができなかったのは、この会議室に誰よりも先に、社長が待ち構えていたからであった――その脇に総務の篠栗を付き従えて。会議室の厳粛な雰囲気に、椅子に座しても尻が据わらぬものもいるなか、定時きっかりに会議は始まり、今、上座にいる社長の右斜め前――長机の中央にいる男が、すっくと立ち上がった。
「社長は『問題』と控えめにおっしゃられましたが、出来との言葉が意味するように、これは事件なのです。会社の資金の使い込みが発覚しました。犯罪用語でいうところの、横領というやつです」
 反応は二種類あった。数は半々で、すでに承知のこととはいえ『犯罪』という言葉にビクリと肩をもたげるものと、寝耳に水でにわかに驚きの声をあげるものとである。
「ほ、本当ですか?」
 結果として、席に着くもののほとんどが発言者を置き去りにして、反射的に社長と(その前に座る)経理係とを交互に振り返った。それというのも、この会議の参加者の中で、篠栗が一番の若手だったからである。若手の出世頭である彼を妬むものも、実のところ、この中には多く存在した。口が上手くて社長に可愛がられているだけとの声がある一方、たとえば営業などで、彼と仕事を共にしたことがあるものは、彼の頭の回転の速さを認めないわけにはいかなかった。それまでは、陶犬瓦鶏と見限っていたのである。社長を含めみながみな、学業もそこそこに、幼少のみぎりより職工として額に汗して、今の役職にたどり着いた人たちだけに、自分たちの分野にもちらほら増え始めた大卒組の出世を恐れ、やっかむ意識というのも、振り返った心理の深層にはあったのだろう。しかしながら、経理は誰にも顔向けできずに下を向くばかりで、社長は全員の視線を促すべく、静かに篠栗へと視線を送った。
 再び聴衆の耳目を集めた上で、篠栗が二人になり変わり、投げかけられた質問に答えた。社長が経理を差し置いて、お門違いである総務の彼に発言を続けさせていることから、この場に居る全員が、彼が社長より特命を受けて任に当たっていることを察した。
「手の込んだ冗談――だったらいいのですが、本当です」幾人かのムッとしたような顔を見ると、篠栗は人懐こい笑みを浮かべた。彼は周囲の機嫌を損ねるのが得意なら、取り持つのもまた得意であった。「まぁまぁ、今むかっ腹を立てられた人は、少なくとも嫌疑のかからなかった人なのですからお許しを」
 機嫌を損ねたものの中で一番の年長者が、一座に視線を巡らせ、うつむく人間が半数いることに初めて気づき、ポカンとした顔で、篠栗を見返した。
「それはいったい、どういう……?」
 まだ状況を把握していない、右顧左眄のものたちに向けて、篠栗は説明を加えた。
「さきほど、社長は『伝えるべきものには伝えてある』と言われましたが、実はもう、調べるべき相手は調査済みなのです」
 まるで雷にでも打たれたように、老年の年長者は背筋を伸ばし、うわずった声でまくしたてた。
「調べてある? この中に、この工場の中に盗みを働いたものがいると! 犯人は、犯人は誰だ? いや、それより、本当に空き巣やらの可能性はないのか?」
 さながら刑事が容疑者を、いや無実の容疑者が刑事を糾弾するかのようであった。それを押しとどめるべく、社長が割って入った。
「穂波君、そう立て続けに質問しても、らちが明かないよ。ここは一通り、篠栗君に説明してもらおうじゃないか」
 いつもは社長を立ててやまない穂波が、このときばかりは動転のあまり言葉につかえ、返事することもできなかった。だからこそというわけでもないのだろうが、社長に向けてうやうやしく一礼した篠栗であった。
「ありがとうございます、社長。それでは説明に入らせていただきたいと思いますが、その前に一つだけ――」突如として口元を引き締め、顔つきを硬くした篠栗が一同を見渡した。思いがけず、苦渋を秘めた表情がそこにはあった。「冒頭わたしは、あえて『使い込み』『横領』という断定的な言葉を用いました。残念ではありますが、外部のものが会社の金を盗みとったという可能性は、ないものとお考えください。と言いますのも、まず第一に、この一帯は工場地区ということもあり、作業後の機材や金庫に関する管理や警備は、厳重になされているからであります。この周辺はどこもそうですが、特に生産規模の大きなわが社は、他と比べても堅牢です。第二に、奪われた現金が、少なくないにしても、それほど多額でもない点があり、第三に、それが一度に盗まれたのではなく、期間を空けて繰り返し盗まれているからであります。ところで、わが社は、よそ者に対しては強い警戒心を持つ一方、内部のものに対しては非常に甘く、これまで目を光らせるといった意識を持ち合わせていませんでした。大学で経営学を学んだわたしから言わせてもらえれば、これは起こるべくして起きたことのように思います。実のところ、われわれが常に警戒心を抱き、行動を監視せねばならないのは、内部の人間、すなわち身内だからです。会社がある一定の規模を越えた場合、誰に見とがめられても恥じることのない、ある意味他人行儀な、独立不羈の仕事ぶりこそ、何より必要とされるのです。わたしが今回、臨時に社長よりこの役目を仰せつかって、仕事に取りかかり、すぐに奇異に思われたのが、話を聞いた方どなたも自分がいつなんどき、どんな仕事をしていたか――どこにいたかさえ、定かには覚えておられないことです。これは仕事に不誠実とは言わないまでも、職務に対して緊張感のない証しと言わざるを得ません。話を聞いた人のうちで手帳を持って、その日の予定を書き込んでいたのは、先日作業棟の板金加工課主任に抜擢されたばかりの八木山君だけでした。そう、幹部のみなさんとは今日が初顔合わせで、いま机の端で顔を真っ赤にしている彼です。ちなみに彼はわたしと同期でもあります。どうも自己紹介もできていないようなので――。さて、話が横道に逸れましたが、仕切り直して『事件』のあらましをお話ししたいと思います」
 細かな日時や額面を割愛すると、彼が説明したあらましはこうである――彼らの会社は、取引から経費の精算、給与にいたるまで、現金一括でおこなっていた。最初に帳簿が合わない――誤差とは言えぬ使途不明金がある――ことに気づいたのは半年前になる中間決算であった。その後、精度を高めるべく、四半期決算を、また予定にない月次決算をおこなったが、あるべき現金と金庫におさまった額が、ほぼ一定の割合で足りなくなることがわかった。先々週のこと、社長の監視のもと、出納係に居残りさせ、金庫に入れる前の入出金を確認したところ、またも足りないことがわかった。流用の可能性が高いとみた社長は、一切の予断を失くすべく、この調査を若く有能な篠栗に当たらせた。篠栗は手始めに、経理に入り浸って、現金が支払明細書とともにどのように持ち込まれ、受領書と交換にいかにして持ち出されているかを悉皆調べると、金庫におさめてからは厳重だが、それまでは実に大雑把で、各部署から集められた時点では置きっぱなしに近い状態であり、会社の血液とも呼べるものが粗雑に扱われていることに驚きを禁じ得なかった。それでも彼は、日を替えて部署ごとに収支をおこない、結局一か所に集められる直前の段階で抜き取られた可能性が高いことにたどり着き、何曜日のどの時間帯が疑わしいかを導き出した。集められた現金に接触できるものたちとして、実質ここにいる半数を含め、十数名まで犯行可能な人間を絞ったが、本人が先に述べたように、そこからの容疑者の切り捨て、現場不在証明(アリバイ探し)が難航した。その過程で容疑者から外せたのは、若干名であった。次に着手したのは、動機の面からの調査だった。ここ数年のうちに家や車を買ったもの、最近クーラーやカラーテレビを新調したもの、以前より賭け事にはまっているものなどを探ってみた。その十数人の中にも数名いたが、そのものの人柄と実績、また犠牲や代償を考慮すれば、あり得ないように思われた。一週間の調査としては、そこで手詰まりだった。それを昨日の月曜日、社長に報告したところ、かえって安堵するような笑みを浮かべ、社長はこう述べた――『そうか、犯人が見つからなかったのなら、それはそれで結構。わたしとしては、今後こういったことが起きなければいいと思っているだけだから。さっそく明日にもみなを集めて、このことを報告するとしよう』――。
 篠栗の報告は続いた。
「おおよそ被害の総額はわかっており、職場内に盗んだものがいることもわかっています。もちろん、本格的に調べる時間と権限を与えてくだされば――わたしも現在の仕事をしばらくなげうたねばなりませんが――、盗んだものを見つけ出すことはできるでしょう。ですが、社長がこれ以上の犯人探しを望まないとなれば、致し方ありません。この施設のどこぞにいる犯人に告げるとするなら、盗んだ額が経営に支障をきたすまでにいたらなかったこと、二度と同じ犯行がおこなえないことから、罰をまぬかれた社長の恩赦に深く感謝するがいい。でもみなさん、せっかくですからこの場を借りて言わせていただければ、今後は、各部局で現金の扱いをもっと厳格にするべきですし、いくら信用第一とはいえ、いつまでも家内工業のような決済をしていてはいけません。われわれはもはや、周辺に見られるような小規模事業者ではないのですから。向こうが困るからといって、こっちまで同じ手法をとる必要はないのです。取引に関してはもっと、口座を介すなり、小切手を活用するなりしないと。財務も、主計官や税理士に任せきりにするのではなく、監査役を社内に設けるべきです。もちろん何かあった場合は彼らにも責任を取らせます。そうでなければ、形骸化した無意味なものになってしまいますから」年長者である聴衆はうつむくように話を聞き、それに反比例する形で篠栗の言葉には熱が入り、身ぶりを交え、ついには壇上に立つように獅子吼した。「今後はもう、各所手箱のような小さな金庫で現金を保管しておくというやり方は避けねばなりません。手癖の悪いものはどこにでもいます。それはあたかも、目の届かない店頭に高価な商品を置くようなもの。そのものにとっては万引きしてくれと言ってるようなものなのです。『盗人にも三分の理』との言葉があります。しかし、このときの盗人は本当に三分の理のみだったのでしょうか。もともとその気がなかった人間に、その気を起こさせたのですから、われわれに非がないとも言えない。……穂波さんが今、同意できないという顔で睨まれましたが、わたしはあくまでも客観的な立場で申し上げているのです。もし今回と似たような案件が、一般の商店で起きたとしたらどうでしょう? 最新の片手持ちできるラジオを露店のような場所に出しっぱなしにして盗まれたら、それでも警察官はわれわれにまったく罪はなかったと言うでしょうか。見つからなくても仕方がない――『そういうことをされたらわれわれも手の打ちようがないよ』と、慰めつつも暗に訓戒を垂れるのではないでしょうか。とはいえ、このことと、今回の犯人に対する社長の寛容さとは、まったく似て非なるもので、社長が犯人探しを取りやめにしたのは、これ以上身内を追い込むのをよしとしなかったから、その一点だけでした。『仕方ない』ではなく、『そう望まれた』ことをみなさんどうか忘れないでいただきたい……」このとき熱弁が途切れると同時に、老人たちの顔つきがそれまでと変わり、全体の雰囲気が穏やかなものに移行した。彼を指揮者にたとえるなら、さながら大盛り上がりから、余韻嫋嫋静かに幕が閉じるのを導くかのようであった。「わたしはみなさんを責めているのではありません。昔はそれで何の問題もなかったのでしょう。しかし、旧態依然としたやり方は、時代とともに変えるべきではないでしょうか。今回の件に関しては、わたしも内部の人間であり、ある程度内情をわかっていながら、指摘してこなかったことを後悔していますし、責任も感じています。だからこそ、今こうして嫌な役を買って出てまで、僭越にも諸先輩方に申し上げているのです。わたしは今、この会社に入社して、本当によかったと思っています」老人たちの顔つきは、もはやこの結末に満足さえ抱き始めているようだった。「しかし、次はありません! もし同じことが繰り返されるなら、わたしは断固たる調査を社長に進言し、今度は社長も容赦しないでしょう。すべての業務を一時停止してでも、わたしは犯人探しに臨む所存です」
 そのとき、かすかな声が、長机の端より聞こえた。
「ん――、誰です。いま何か言われたのは?」
 発言に集中していた篠栗は、みなが顔を向けたのを見て、かすかな声の発言者に気づいた。それは組んだ手を机上に投げ出し、輪になった腕の中に頭をうずめている八木山であった。今一度、彼は吐き捨てるように、同じことを言った、語尾に名前だけを付け足して。
「……きみだって見つかりっこないさ、篠栗……」
「それは……八木山……どういう意味だい?」
 社長を含め、そこにいた全員が、まなこを見開き、息を呑んで同期二人の会話を見守った。
 三十秒以上かかって、ようやく八木山は声を絞り出した。
「きみが……きみが、犯人なんだから」
 ガタリと椅子が鳴った。立っていた篠栗が身体ごと八木山のほうに向き直ったからである。そのほかここにいる全員は、物音一つ立てることなく、椅子の上で尻を滑らせ、瞬時に篠栗を振り返った。
 篠栗は肺がけいれんを起こしたような笑い声を上げながら、言い返した。
「な、何を言うんだ、八木山? 日頃の憂さ晴らしにしても、冗談が過ぎるぞ!」
「ぼくはきみに、憂さなんて一度も感じたことはないよ、篠栗。それどころか、きみはぼくの誇りであり、ぼくにはできないことをやってのけるきみが――ぼくは大好きだった。いや、今も好きだし、これからもずっとそうあり続けるだろう、少なくともぼくのほうは」
「何をバカバカしい……。冗談で済ますなら今のうちだぞ!……根拠があってのことだろうな。証拠を見せろよ、証拠を。もっとも簡単に論破してやるがな」
 八木山は組んだ手をほどくと、左手で右手を覆い、その手を見つめながらつぶやいた。
「そんな気はなかった……それまできみを疑ったことなんて……。四日前の金曜日の夜、きみは部下たちと開いた飲み会に、ぼくを誘い入れ一緒に昇進を祝ってくれた。話を少し戻すが、その日の午前まで、ぼくの財布には少し変わった一万円札が入れてあった。偶然手に入れ、もう何年ものあいだ、使うに使えずお守りのように入れておいたお札だった。といっても、他人には何の価値もない、紙幣の刻印の末尾が、元号の年数を含め、ぼくの誕生日と一致したというだけのものだった。その日の昼、手提げ金庫からお金を出し入れした際、手を滑らせ、一万円札を汚れたグリースの上に落として、仕方なくその一万円札と自分のを交換した。で、その夜――、きみは、ぼくの折半の申し出を笑って断り、一人で飲み代の勘定を受け持ち、ぼくに『払っといてくれ』と二万円を手渡して、便所に向かった……。その一枚が――ぼく●●のだったんだ」


次章(2)