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にゃ会福祉学 六限目 「在る」

 我が家の猫たちはかわいい。私は2歳の雌猫「えん」と1歳の牡猫「ふく」が大好きだ。

 猫と暮らすようになって2年半ほど経つ。私と妻のマイペースな二人暮らしは一変。あたりまえのように人間を中心にまわっていた生活は猫中心になった。

 覚悟はしていたが甘かった。カーテンはささくれ、壁紙は剥がされる。2匹とも、粗相はあまりしないものの、家中、毛だらけ。洋服をはじめ、ありとあらゆるところに毛がついている。それなのに、猫たちが何か間違って口に入れてしまわないよう、部屋中を清潔に保たなければならない。

 棚に飾ってあった写真やインテリアはことごとく落とされ、壊されたので、ほぼ撤去。私の大切なプラモデルも被害にあった。結婚を機に奮発して購入したお気に入りのソファは、無数の爪あとがつき、見るも無残だ。

 外出も減った。留守番はできるのだが、心配だ。泊りで家を空けるのはもってのほか。夜も遅くならないように気をつけている。

 2匹とも健康だが、病院にいけば、かなりのお金がかかる。ご飯もオモチャもお金がかかる。何をしても、時間と手間がかかる。

 えんとふくを見ていると、「世の中のしあわせ」である社会福祉の根底は、ただ「在る」ことの尊重なのではと感じるのだ。


 大変で迷惑がかかることばかりの猫との暮らし。人が悲しくてもイライラしても、嬉しくても楽しくても、えんとふくは自分たちのペースを崩さない。空気なんて読まない。それでも、私と妻はえんとふくに傍に居てほしい。

 なぜ?と考えたとき、はっきりとした理由が出てこない。ただ、ぼんやりと、えんもふくも、どんな私と妻にも変わらず接してくれるだろうと感じる。

 経済的、生産的な価値を基準とし、この暮らしを考えたとき、良いことなんて一つもない。金、手間、時間。どんなに猫にかけても、払ったお金を猫は稼がない。かかった時間を猫は同じように感じない。かけた手間を猫は返してくれない。それでも、ただそこに生命が在るということの尊さは理屈や理由がなくてもわかるはずだ。

 人もそうだ。姿や形、状況、環境に、その人という存在の大切さは奪われないはず。

 「きゅう」には障害のある人がいる。福祉施設の看板がない、ガラス貼りのショップと、その奥と二階のアトリエで楽しく過ごし、働いている。

 粛々と淡々と、目の前の人をあたたかな眼差しで見つめ、自然に関わることを心掛けていった。気がつけばふと、誰が、障害者か健常者か、見えない、わからない、感じない時がある。それもそのはずだ。そもそも、そんな枠組みはどこにあるのだろう。一人一人が大切にされ、そこに在る。それがあたりまえの姿であるはずなのに。

 石巻市は「障害のある人もない人も共に安心して暮らせる福祉のまちづくり」を掲げている。一人一人の違いを障害とし、矯正、更生し、巧妙に分断をするようなことはしない。一人一人、違いがあるまま、大切にしあい、共にしあわせに暮らせるまちのはずだ。そして、そのまちをつくるのは私たち一人一人だ。


 えんもふくも私に大切なことを教えてくれる。さすが、「にゃ会福祉学」の教授だ。しかし、何も教えてくれなくたって、2匹がここに在ることの尊さは変わらない。何をしていてもしていなくても、かわいくてたまらない。大好きなのだ。

2021.3


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