神仏混淆の形式をそのまま残す【高塚愛宕地蔵尊】大分県日田市

高塚愛宕地蔵尊(たかつかあたごじぞうそん)は、
大分県日田市天瀬町馬原(まばる)にある地蔵尊です。

神仏混淆(しんぶつこんこう)の形式をそのまま残している
珍しい地蔵尊として知られています。
地元では「高塚さん」の愛称で呼ばれています。

天平十二年(740)行基という偉い僧が聖武天皇の命を承けて、
筑紫の国を巡られました。

帰路、豊後の国日田郡を経て求来里村杉原にいたり、
みどり深い東西の地形を眺めたとき、
行基は身の引きしまるような霊気と、言いようのない有り難さに心を打たれ
『この地こそ、国や人々の悩みを救う大権現様の出現される霊地に違いない』
と予言されたのでした。

行基はそれから岩松ヶ鼻(現在の天瀬町馬原の鞍形尾)を通って、
この高塚の里に着かれました。

山中で一心に地蔵菩薩を念じていた或る晩のこと、
東南方にそびえる大きな公孫樹(いちょう)の中辺に、
突然、金色の光を放つ三個の玉を見たのです。

行基はおどろき、我が祈りが地蔵菩薩に届いたおしるしであろうと、
なお一心に祈り続けました。

夜が白みかけても玉の光はおとろえません。

行基は従者をしりぞけ、ひとり、いちょうの大木に登ってみると、
三個のうち、ひときわ光る一個は乳房の形をした宝珠でした。

宝珠を捧げて地に降り立った行基は早速、
みずからのノミをにぎって一体の地蔵菩薩を彫り、里人たちに
『まことの心をもって宝珠、地蔵菩薩に祈願するなら
 広く万物は産み栄え、一切のご利益を与えられよう』
と説かれたのでした。

その後、いちょうの大木は『乳銀杏』(ちちいちょう)と呼ばれ、
永い歴史の間、子宝を恵む霊樹、母乳をさずける霊樹、
子供のすこやかな成長をかなえる霊樹として、人々の崇敬を集めてきました。

行基は天平二十一年(749)二月二日、八十二才で亡くなりました。

その後天暦六年(952)二月、
行基の御遺徳を偲んだ里人たちが、
大いちょうのかたわらに小さな御堂を建立し、
行基のきざんだ地蔵菩薩を祀ったのが『高塚愛宕地蔵尊』の始まりです。

病気平癒、学業成就、商売繁盛などの諸願成就にご利益があるとされています。

大分県日田市天瀬町馬原3740

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