【椿八幡宮】筥崎宮の元宮【大分八幡宮】福岡県飯塚市の神社

●椿八幡宮
由緒
神功皇后が新羅、百済、高句麗よりの帰途この地に立ち寄られ、
その折り堅い木で作られた御剣の鍔(つば)を奉納され、
日本の平和と繁栄を祈願された所と伝えられており、
これにより「ツバキ」(椿)の名が起ったといわれています。

椿八幡宮は、寛平9年(897)勅命により当時九州の政治外交を司った
大宰府政庁が創建し、穂波新宮と云われ、
椿庄の惣社として氏子はもとより広く朝廷幕府の崇敬厚く、
政庁の官人等も礼を尽くして参拝していたと云われています。

これが「椿八幡宮」の起こりです。

その後、幾度かの再建、再興がなされ現在に至っていますが
最盛時には穂波郡全村を管轄していたと言い伝えられています。

御祭神
品陀別命 (應神天皇)、息長足姫命(神功皇后)、武内宿祢命

鎮座地
福岡県飯塚市椿352

●大分八幡宮
大分八幡宮(だいぶはちまんぐう)は、福岡県飯塚市にある神社。

旧社格は郷社。

由緒
神亀3年(726)の創建と伝えられる大分八幡宮は、
神功皇后の所縁の地で、筥崎宮の元宮とされています。

神功皇后は、三韓征伐から帰国した後、
粕屋の宇美邑にて応神天皇を御出産され、
その翌年の春、粕屋と嘉穂の郡境にある
大口嶽(大口嶽の乳呑坂)を越えて当地に至ります。

神功皇后は、当地にて引率していた軍士を解隊し、
それぞれの故郷に返します。

その大分から大分と称されるようになったと伝えられています。

御祭神である応神天皇(八幡大神)の神霊は、
欽明天皇32年(571)に豊前国宇佐郡に所在する
馬城嶽(御許山)に出現したと伝えられ、
神亀2年(725)に現在の宇佐神宮の鎮座地である
小倉山社へ遷座します。

その翌年の神亀3年(726)、
御神託により豊前地方と穂波地方、太宰府を行き来する拠点であり、
大分の由緒ある当地に鎮西第一といわれる壮麗な
社殿、穂浪宮(大分宮)が造営されたのが
大分八幡宮の創始とされています。

宇佐宮御託宣集の延喜21年(802)6月1日の件にて
『我宇佐宮より穂浪の大分宮は本宮也』と記され、
箱崎の松原への遷座の神託があり、
3年後の延長元年(923)に遷御したことから
筥崎宮の元宮とされています。

その遷座の前からの御神体で、
神功皇后が腰裳に挟んでいたとされる「くしみ玉」は、
大分八幡宮にて奉斎されていたとされています。

代々朝廷の御崇敬も篤く、
神事祭礼の折には太宰府庄庁の官人が参詣して執り行われ、
承平5年(935)の「天慶の乱」の際には、
朱雀天皇の勅願により平将門、藤原純友らの追討祈願のため
九州に宇佐八幡五所別宮(第二肥前千栗宮・第三肥後藤崎宮・
第四薩摩新田宮・第五大隅正八幡宮)が造立されますが、
大分八幡宮は、その第一とされました。

中世も朝廷からの崇敬厚く、
焼亡を受けての治暦3年(1071)の再建では
筥崎宮と同等の規模の本殿であった記録されています。

応仁の乱以降、衰微しますが、
天正5年(1577)に秋月種実によって再建。

この再建の時、現社殿の後方、
丘の頂上の嶽宮から現在地に遷座しました。

しかし、秋月種実が日向へ移封されたことで神領を失い再び衰微。

江戸期に入り、福岡藩の関与と共に鳥居などの寄進も相次ぎ、
享保6年(1721)8月15日には途絶えていた放生会も復活。
享保8年(1723)には流鏑馬、その翌年の享保9年(1724)には
村人が石清水八幡宮で習得してきた獅子舞が奉納され、
神事祭事が整えられることとなり、篤く崇敬されています。

御祭神
応神天皇、神功皇后、 玉依姫命

御利益
武勇長久、勝利祈願、出世開運、安産祈願、
子育大願、交通安全、健康、所願成就

鎮座地
福岡県飯塚市大分1272

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