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ただ聴き寄り添うことの大切さを思い出せた、ありがたい時間。

もしもしにゃんこ」という、古い記憶の片隅にあった言葉を、ふとしたきっかけで思い出した。ひさしぶりに口にした名前をGoogle検索してみると、出てきたのは7年前に書かれた「子どもほっとライン もしもしにゃんこ<島根県内の 18 才までの子どもがかける子ども専用電話>」という記事だった。読みながら、泣けてきた。昔それを頼った自分の姿を思い出して、というより、その記事から伝わってくる活動者の信念の美しさに圧倒されて。

今年度県内の相談電話に携わる機関や団体との意見交換会がありました。その場において感じたことはたくさんの「電話」のある中、県内の「子どもの思いを聴く」電話は「子どもほっとライン もしもしにゃんこ 」だけだ!ということでした。このことはとても大きなことだと感じました。短い電話でもとりとめもないことでも一本もおろそかにせず、「聴き切る」、もしもしにゃんこ はそうありたいと思います(記事より)。

見返りを求めず、すべて受け止め、いたずら電話がかかってきても、その先に本当に必要としている助けを求められるように、ただ相手を信じ続けるーコロナで在宅の時間が増え、子どもにとっても悩みや相談できる環境が変化した今年に至るまで、14年間続けた強い意志を、記事の節々に感じた。

そもそも、小学生の頃の記憶の断片をわざわざgoogle検索するに至ったのは、ここ最近の自分が感じていた、言語化できないモヤモヤの正体が、自分自身に対する共感の渇望だということに気がついたからだった。
先日受けたコーチングは、塞ぎ込んでいた自分の「求めていること・欲」を明確にすることができた時間だった。それは、「ただただ『そうだね』『そんなこと感じてたんだね』って聴いてほしい。興味を持って質問してほしい。理解してると伝えてほしい」だった。そんな欲だからこそ、「そんなの自己完結したらいいじゃん。聴いても意味ないし」だの「忙しいのに迷惑だよ」だのという言葉がまず自分自身から出てきて、欲は否定され、居場所をなくし、最終的には自分の感情さえわからなくなっていた。
そしてそれは究極的には、自分自身が自分の声に「そうだね」「そんなことを感じてたんだね」と、耳を傾けられていなかったということだった。

セッションの最後に、「もしもしにゃんこのおばちゃんを心の中に召喚する」というアクションを設定した。昔の自分が一度だけかけたあの電話越しで話を聴いてくれたお姉さんは、今は立派なおばちゃんになってることだろう。記憶をたどり、朗らかで物腰の柔らかい女性の声とオーラを想起する。そんな、すべてノージャッジで包み込んでくれる存在を、自分の中に作り出し、自分自身に共感し、受容する。ーふと、あのときの感覚を、もう一度味わいたくなった。運営するNPO法人のページをみると、今年度は毎月第一日曜日の午後2時から6時まで。ちょうど気付いた次の日だった。18歳未満限定だから、年齢制限に引っかかってるけど。島根県の学生のみだから、県外からの番号だと気づかれて取ってくれるかもわからないけどー。

結局、混んでいたのか、時間を置いて5回ほどかけた後、繋がった先の声は、偶然にもわたしが想像した通りの「おばちゃん」の声だった。「ごめんね、県外からの電話には応えられないの。」そう断りながらも優しい声に涙が出そうになり、電話をかけているたくさんの子どもの邪魔になっているのを申し訳なく思いながらも、せっかくの機会に早口で、自分がこのサービスを昔利用して感謝していること、あらためて素晴らしいサービスと考えだと思うことを伝えた。おばちゃんも、少し涙ぐんで受け取ってくれた。

このサービスを支えてくれていた、もがき葛藤しながらも、今でも続けてくれているNPO法人の方々にありがとうを伝えたい。

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