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家族インタビューVol.2桂子おばあちゃん

まえがき

家族インタビューとは、わたしの家族をインタビューし、知っているようで知らない家族を”人”として深く知り直すことで、家族の可能性を模索するシリーズです。家族が記事を互いに読みあうことでよりよい関係を築く機会になったり、さらにはすてきな家族を世界に紹介する場になったらいいなと思い、始めました。

第二回は、桂子おばあちゃんにお話を伺いました。前回の記事で取り上げたお母さんの、お母さん。そんなお母さんの価値観形成におそらくもっとも影響を与えた人物のひとりであるおばあちゃんの人生をより詳しく知れたことで、お母さんに対する理解もさらに深まった気がして面白かったです。

おばあちゃんの言葉は、島根県の中でも特に訛りが強い出雲地方の言葉なのですが、言葉に宿るおばあちゃんの生き様も含めて形に残したく、なるべくそのままの言葉を文字にしました。懐かしさ漂う方言も含めて、ご堪能ください

若き日のおばあちゃんの職業

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▲20代のおばあちゃん。着物だからか、筆者(25歳、Tシャツに短パン)が横に並んだら相当な年の差に見えるだろう。

ーーおばあちゃんって、若い頃どんな仕事をしてたの?

大社信用組合で、事務の仕事よ。

ーーどうしてそこで働くことにしたの?

そういう仕事が好きだったけえ。

ーー好きだったんだ!事務の何が好きなの?

あんまり人と喋らんでいいし、やり方を覚えたらどこでも仕事を見つけられる。結婚して子どもを3人育てたあとにも「来てくれ」言いんさったくらいだけえ。
商売しとる人の帳簿を家に持って帰って仕事したこともあるよ。熱田(※島根県浜田市熱田町)の五軒長屋の住宅でやっとったんだけど、由紀さんやたかしくん(※お母さんとおじ)らがおって、昼寝して起きたら、すぐ外の庭に伝票がバラバラに撒いてあった。

ーー風で?

風じゃないわあね!ちゃんと止めてあったんだけえ。由紀かたかしかだわね。ほいでびっくりして、集めてそろばんに入れてみたら合うたけん、はあ、よかった~って。無くなっとったら大変だけえ。

ーーいたずらっ子!誰がしたんだろう?お母さんっぽいなあ。たかしおじちゃんはしなさそう。

はっはっは。さあどうだか。他にもいろんなことしたわね。おじいちゃん(お母さんのお父さん)の給料は安かったし。

ーーおじいちゃんはどこで働いてたんだっけ?

島根船用品。底曳船の会社に、網や小物を売る営業。おじいちゃんは言葉が得意だからね。そろばんなんかはダメよ。

ーーじゃあ、おばあちゃんとタイプは真逆なんだ。

そうそう。

ーーおじいちゃん、船が好きだったの?

そういうわけでもないけど、船員さんと話して仲良くなるから、底引き船が(10日ほど沖へ行って)帰ってきたときには、船長さんの家に行くほどの仲になって、商品を買ってもらってた。人との社交がおじいさんは上手だった

ーーやり手だね!おばあちゃんから見て、子どもたちはおじいちゃんのそういう性質って受け継いでる?

由紀さんは多少受け継いどるだろうね。あとはどうかなあ。

おばあちゃんはね、お父さんの性質を受け継ぐ前に、お父さんが戦争で亡くなったんよ。だけん、おばあちゃん(※おばあちゃんのお母さん)が必死で働かんとで大変だったな。5人も養わんといけんのだけん。

ーー5人!おばあちゃんが末っ子だっけ?

原のおばさん、杉谷のおばさん、土井のおばさん、永見のおじさん、ほいで、わたし。

ーーわたしとお姉ちゃんに「たてながのにゃーのおばちゃん」と呼ばれてたのが杉谷のおばさんで、「よこながのにゃーのおばちゃん」が土井のおばさんかな。

意味がわからん。

おばあちゃんが生まれた年に、戦争が始まった

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▲戦争前の家族写真。

ーーまあとにかく、上に4人いるんだね。

一番上のお兄さんもおったんだけど、戦争に行って死にんさった。お父さんも戦死、一番上のお兄さんも戦死。だけんねえ、おばあちゃん(※おばあちゃんのお母さん)も苦労したわねえ。わたしが生まれた年に戦争が始まって、終戦の年に小学校に入った

ーーすごい時代に生まれたね。

そうよ。ほんで、何年かしてからは、戦死した人のぶんのお金が国から出たんよ。そうなったときからはええけどねえ、お金が出るまでが大変だった。

ーーよう生きたねえ。おばあちゃんも働いたの?でも戦争が終わってすぐは、働くこともできんよね?

うん。だけえ、市場へ行って魚を仕入れて、それから缶かんに氷と魚を入れて農家に売りに行くんよ。農家には、買いにいかにゃあ魚はなかろ。だけえ直接持ってきてもらえれば利用する。お米と物々交換してもらってね。わたしら子どもも、おばあさんを手伝って。

その頃は配給があったけど、そんなもんじゃ食べ盛りの子どもなんか足りんわあね。だけん、今度は持って帰ったお米を売ってお金にして、食べものを買っとった。

ーー売るっていうのは、闇市みたいなところで?

そうそう。

ーーここら辺にもあったんだ!戦後の風物詩、闇市・・・。

あったあった。そこで仕入れて、日御碕(※出雲の日本海に面する岬)まで魚を売りに行ってた。

ーー日御碕までどれくらいかかるの?

大社の近くの市場で仕入れてから、歩いて30分以上。朝早うに、4時とか暗いときに、そういう人ら何人かで行くんよ。統制時代だけえ、下手すると警察に捕まるから、暗闇の中で隠れてやる。暗くて警察かもわからんけえ、人に会ったらとにかく隠れて隠れて・・・。

中学から高校にかけて、毎朝電車で売りに行っとった。駅までは自転車に乗せて、そこからは背負って、電車で次の次の駅まで。駅を降りたら背負って売り歩く。売ると軽くなる。でも、代わりにお米もらうんやけどね。

ーーそれは、重くなってない?

うーん。わはは。

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▲戦争直後、6歳頃のおばあちゃん(一番左)。

ーー学校に行く前に、魚を売りに行ってたってこと?そのまま学校にお米を持って行ってたの?

お米はいっぺん持って帰ってよ。

ーーじゃあ、相当朝早くからやってたんだ!

毎日じゃないけど、授業が始まって途中から入ったりもしたね。先生にも言ってあって、知っとんさったけえ。

ーーそういうことをしてる人は、ほかにもいたの?

うーん、どうだろうね。おったんじゃないかな。わからん。

ーーおばあちゃん以外の兄弟も同じようにやってたの?

家族総出だったよ。ふぐをたまに仕入れるときは、お姉さんが毒がある内臓や目玉を取って、おばあちゃんが売りに行った。

ーー役割分担か。

そうそう。杉谷のおばちゃんは電電公社(※日本電信電話公社)だったけん、給料をもらってきよったわね。

ーー電電公社って?

電報電話局の交換手だったんよ。今はもう機械がする仕事だけど、あの頃は人がね、局にかけて「何番お願いします」ってつないでもらいよったんよ。電話も家庭にはなかなかなくて、商店とかにしかね。おばあちゃんも、坂をあがったところのてんとやっていう商店で呼んでもらいよった。電話をかける人がそこにかけて、そこで「永見さん呼んでください」って。普段はてんとやのお客さんだけん呼びにきちゃんさるわね。で、杉谷のおばちゃんはその交換手。

ーーかっこいいね。エリートだったんだ。

まあ、給料もいいわね。それで、鷺浦(さぎうら、大社の地名)の郵便局に勤めとんさってよう話しとった今の旦那さんと一緒になりんさったんよ。

ーーロマンチック!
それで、おばあちゃんは高校を卒業してから、最初に言ってた大社信用組合で働くんだ。

その前にね、出雲市の経理事務所に入ったんよ。そこへ2年ぐらい行って、信用組合に行って2年あまりして結婚して辞めた。

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▲大社信用組合の人とおばあちゃん(右下)。

おじいちゃんとの出会い

ーー大社信用組合で働いてるときにおじいちゃんと出会ったの?

そうよ。おばあちゃんの上司と、鷺浦に嫁いだ杉谷のおばちゃんが仲人しちゃんさったんよ。ふたりが紹介してくれたのが、鷺裏出身のおじいちゃんだった。そのときは浜田に出て働いとったけどね。

ーーへえ!それでもわざわざ紹介されたんだねえ。なんか杉谷のおばちゃんから始まり、出雲でご縁が連鎖してる。

ハッハッ。鷺浦は田舎で働くところもなかったけえ、みんなそうしとったからねえ。

ーーそれで、おじいちゃんとごはん食べに行ったんだ?

うん。

(ふたり、にやにや)

ーー最初に出会ったのは?

大社のレストラン。仲人さんも一緒よ。4人で。

ーー初めて会った印象は、どうだった?

やっぱり積極的だったね。最初は4人だったけど、2人でどこか行ったら?ってなって、出雲大社の参道の椅子に座ってね。初対面から話すのは上手だった。一人っ子だけえね、この人。喋り相手を見つけるにも外へ出んにゃあだけえ、喋ることは上手だわね。おばあちゃんは一番下だけえ、あんまり喋らんの。

ーーわたしは一番下だけど、構ってもらいたくておしゃべりになってるけど。

あんた、いい人おらんの?今年中に・・・。青春ばっかしとってもだめよ。

ーーめっちゃ結婚してほしがるやん(笑)。一生青春だよ!まあいいや、おじいちゃんとのなれそめ、もっと教えてよ。

それで見合いしたけえ、そのあと二回ほど会ってすぐ結婚よ。

ーー早い!結婚の決め手は?

お見合いする時点で、だいたい決めとるんよ。そうせんにゃあ会わん。会う気がなかったらお見合いもせん。

ーー写真しか見てないのに?

そうそう。おばあちゃんの時代はそんなもんよ。

ーーでも、おじいちゃんのことが気に入ったんでしょ?

ただ、おばあちゃんが大嫌いだったんよ。お父さんがおらんけえ、ひとりで5人も養わんといけんだろ。だから怒ってばっかりで、嫌いだったんよ。逃れたい一心に浜田へきた。結婚も早うした。1回の見合いでね。人は10回くらいしたとか言いんさるけど。

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▲新婚時代、第一子のお母さんと。

おじいちゃんとのでこぼこ夫婦生活に、事務経験が大活躍だった

ーー就職活動みたいだね。

そう。ほんで、性格は正反対。社交性があるおじいちゃんと、ないわたし。

ーーおじいちゃんの社交性があるところは好きだった?それとも合わなくて嫌だった?

そんなことはないよ。おばあちゃんから逃れたい一心だけえ。11月にお見合いして、お正月とか結婚するまでに2、3回会ったかね。4月28日に結婚した。ほいでもうこっち来た。

ーーこの家に来たの?

いやいや、熱田の県営住宅に入ったんよ。9年半住んでたよ。そのあと土地を買って家を建てて引っ越した。市が分譲した、小福井の土地の間口が狭くて縦に長い、80坪ないような土地。家からすぐ先が隣の家で、なんでも聞こえるようなところ。移って半年目に、おじいちゃんは人が集まるところが好きだけえね、行かんでもいいような総会に行ってきた思うたら、帰ってきて言うんよ。

「お母さん、大変たいへん!」

って。

「なに?」

言うたら、

「会長受けてきた」

って。喋るけえよ!人は黙っとるのに、この人は偉そうに喋るんよ。それで会長を受けてきて、当時は任期も決められてなかったけえ、4年間やったんよ。
受けた当初は、資金も集会所もないばかりか、町内の借金が6万円くらいあった。人は「ああすりゃええ」「こうすりゃええ」って、自分はせんけえ好き勝手言いんさるね。「電気代水道代を町内で一括して支払えば手数料ぶんもうかる」だとか。それを結局わたしがすることになった。

ーーなんで(笑)。

する人がおらんけえ。1班に10軒くらいあるけえ、電気、水道、ガス、町内会費って縦横あれして、下で合計するようにして。

ーーあ!事務の経験が役に立ってる!

そうそう。それを組当番さんに配ると、組当番さんが集めてね。その合計金額を会計さんのとこに持っていきんさる。電気もガスも、1軒あたり18円くらいの手数料が入る。そしたら100軒あれば1800円が毎月町内に入ってくるけえ、だんだん町内の活動ができるようになってった。

ーー実務面でみんなをまとめてたんだね。おじいちゃんが表舞台に立ち、おばあちゃんが裏の立役者か。

でもいっぺん役員しだすとなかなか辞められんけん困っとった。みんなが推すと喜んで「したいとう」だけえ。そのうち、「今度は市会議員に出る」って言い出しんさったけえ、「もう、ここにおったらなにしでかすか分からん」思ったところで、今の家の分譲募集が出たけえこの家に来たんよ。

ーーええ!それで建てた家を売って引っ越したの?そんなに嫌だったんだ。

1回公のことをすると、どんどんするだろ。まわりもせいせい言うし。本人も好きだけえ、なにするか分からんし。ここは100坪くらいあるけえ周りを気にする必要もないし。

ーーおじいちゃんの人を惹きつける力や、まわりの声に喜んで応えようとする優しさが伝わってくるエピソードでもありますが。「動」のおじいちゃんと「静」のおばあちゃんーー。お互いに大変なことがあったんだろうね。

そうだねえ。おじいさんが、おばあさん(おじいちゃんのお母さん)連れて子ども連れて自治会長しとったのが、わたしにとっても大変だったんよ。

ーーしかしこの家を買う頃には、魚を売ってた時代からは考えられないくらいお金に余裕が出来たんだねえ・・・。

どうだろうね。1300万で前の家を売って、ここは土地と合わせて2300万くらいで買ったかな。なんにせよ、なかなかいっぺんに家を買うのは難しい。そのために保険の営業の仕事もした。あれは難しかったよ。顔が広いおじいちゃんの紹介で、知っとる人に会いに行ったり、知らん人のところに飛び込んだり。あんた、一生はなかなかスムーズにはいかんよ!

ーー面白い!シャイなおばあちゃんが営業職もしてたなんて、おじいちゃんの影響もあるのでしょうね。

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▲おばあちゃんと、第一子のお母さん、第二子のたかしおじちゃん。

嫁姑生活

ーーそういえば、はるさん(おじいちゃんのお母さん)の家がトトロの家だったって、お母さんがうわさしてたよ。ちょっとお化けが出そうなって。

はっはっは、そうかもね。そこで一時、パーマ屋さんとかしとんさったんよ。はるさんも未亡人になって、鷺浦に事業もなければ、大社で働くにも事務の経験もなくて、大きな家を使って旅館業を開きんさった。毎月商売に来る人とかが泊りに来よんさっとったよ。結婚して3ヶ月くらいはそこに住んで、仕事を手伝っとった期間があったよ。はるさんは掃除しんさらんけん、掃除だけやっとった。

儀満のおばあさんは金持ちで、大きい家が2軒もあったけど、近所にひとりで住んどんさった。だけえ、暇でさみしいんかしら、ちょこちょこ「おばあさん、おばあさん」言うて来んさるんだけど、はるさんは「またこられた」って嫌がっとんさった。用はないけど、1日に何回も来んさってね。こまめなおばあさん。

ーーにぎやかな家だったんだねえ。

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▲永見ミヤさん(おばあちゃんのお母さん)の88歳の誕生日祝いに、にゃーのおばちゃん大集結。

編集後記
これまで「とにかく強かった」おばあちゃんの、印象の成り立ちが見えて、おばあちゃんの見え方が2Dから3Dに変わったみたいでした!

時代は重なれど、島根で育った我がおじいちゃんおばあちゃんズに直接的な戦争体験はない、と思い込んでいましたが、今回聴いた桂子おばあちゃんの話は壮絶でした。なんと戦争によって大きく人生を揺り動かされていたのだなあ、と。

なんのために死ぬのか納得できるはずもないまま旅立った大切な家族との別れ、そして悲しみとか理不尽な怒りを味わうのもそこそこに忙しく働いた子ども時代。社会における物質的な欠如を急激に埋め、急務として豊かさを取り戻してくれた過程を、そのままおばあちゃんの人生の中に見た気がします。

またインタビュー後に知ったのですが、おばあちゃんとおばあちゃんのお姉さんはとても賢くて勉強が好きだったのに、経済的な理由から大学進学を断念し、あまり勉強が好きではない弟が大学進学をすることになったそう。外的・物理的な抑圧が有無を言わさずに理想や幸せをねじ伏せる世界、相当ハードモードだったろうなあ。

そんな中、世界平和という課題の達成を課される、人類というひとつの生命体。そんな我々をより俯瞰して見ることができた機会でもありました。

おばあちゃんを含めたくさんの人の働きがあって今の物質的な豊かさがある。だからこれからはひとりひとりの心の豊かさを目指していきたい。世代が変わり環境が変わると、そこに分かり合えなさが生まれて分断が起こることがある。でも、それぞれの世代がそれぞれの形で、いつか成される世界平和に思いを馳せながら生きる仲間なんだなあ、と味わえた時間でした。

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