見出し画像

一目惚れと週末の通り雨【ショートショート】

予報外れの通り雨が、スーツに黒いシミを作った。さっきまで、週末の緩やかな空気だったのに、周りのサラリーマン達が慌てて地下鉄の階段口へ吸い込まれていく。僕はただ、その様子をぼんやり眺めた。日差しの名残が雨で冷やされ、アスファルトはモワっとした湿気と特有の匂いを放ち始める。

空気が滞っている。いつもに増してそんなことが気になるのは、ここが地下鉄だからではなく、今の心境のせいだ。5分おきに到着する電車を、目の前で2本見送った。一刻も早く家に帰りたいのに、身体が動かない。滞っているのは、空気ではなく自分の心だった。

「結局。重要なのは、誰から買うかだよ」
昼間聞いた、上司のしゃがれ声が脳内で何度も繰り返される。影響力の大きい有名人に商品をPRしてもらう“インフルエンサーマーケティング”。この効果は絶大だった。喜ばしいことには違いない。けれど……。入社以来、開発チームや現場からの声を聞き、商品の魅力を地道に伝えて営業をしていた僕の販売実績を、あっさりとインフルエンサーの数分動画に抜かれた。

釈然としない気持ちは、なかなか消えない。あるいは、結果というより、今まで僕の努力を見ていたはずの上司の言葉に絶望してしまったのかもしれない。


ようやく乗った地下鉄のシートに座り、黒い景色の窓に映る自分の表情を見つめた。疲れた顔。

左右を見ると、ほとんど全ての人が、目の前の小さな画面に夢中だった。スマートフォン、SNSの影響力を目の当たりにする。心なしか一瞬、周りの景色が灰色に染まって見えた。“疲れているのだろう”そう思って目を閉じた。

何駅通過しただろうか。顔を上げるのと同時に、僕の視線は、今まさに電車に乗りこんで来た女性に釘付けになった。光を放っているように見えたのだ。彼女は真っ直ぐ、僕の隣の席に座った。

予報外れの急な雨だったのに、手には丁寧にたたまれた大振りの雨傘。隣の僕の邪魔にならないように、左手首に傘の柄をひっかけている。黒い窓越しに彼女をそっと盗み見た。

電車が動き出すと、彼女はカバンから何かを取り出す。本だった。大袈裟にならぬように視線をやると、彼女は小説を読んでいた。スッと背筋が自然に伸びて、手元の本を読む凛とした佇まいが美しい。すぐ隣の席でなかったら、もっと自然に彼女を見られるのに。“どんな本を読むのだろう?”布製のブックカバーで覆われた小説の内容が気になる。

湿度の高い地下鉄の車内、多くの人がスマホ画面を見つめる中で、彼女の存在は色鮮やかに他と違うオーラを纏っていた。そして、細く白い指に握られた栞。


しおり??

【全身脱毛サロン】と書かれたクーポンがラミネートされている。クーポンをラミネートして栞にするなんて……。右端の穴にはリボンまで。自分で作ったのだろうか?

横にいる清楚な彼女が、自宅で【全身脱毛サロン】のクーポンをラミネートして自作の栞にしていることが、どうしようもなく可笑しくて力が抜けた。しかも、赤字で書かれた期限は、今日。今日までのクーポンだ。

なぜ、彼女がそれを栞にしようとしたのかは分からない。期限を忘れないようにしているのだとしたら、今日この後、彼女が向かう先は……。全身脱毛する彼女を妄想しようとする自分にハッとした瞬間、次の駅で彼女は立ち上がった。そして、なぜだか分からないけれど、僕も。

「あのっ、」
気付けば声をかけていた。首を少し左に傾けて、彼女は振り返る。

“なんだか救われました”
そう、言おうとして言葉を飲み込んだ。


「気を付けて帰って下さい」
言葉が口をついてから、不審すぎる自分の行動に思わず汗を感じた。固まっている私を見て、彼女はふっと優しく笑う。

「良い週末を」
彼女はそう言って、軽く僕にお辞儀をすると、真っ直ぐ歩いて行った。聞こえないほど小さな声で「良い週末を」と、彼女の背中に返した。

周りを見渡せば。行き交う人、地下鉄の風景に色が戻っている。

そうだ、そういえば僕も持っていた。今日までのビール割引クーポン。浮かれた週末の空気を買いにコンビニに立ち寄ろう。階段を進み、地上に出れば、雨はすっかりあがっていた。

─了─

今回は本田すのうちゃん「下書き再生工場」企画に「クーポン今日まで」のお題で参加させて頂きました。

とっても楽しい企画をありがとうございました。再生工事企画の書き手は20日までされています。参加してみませんか?

#下書き再生工場
#クーポン今日まで
#こうぶつはもみあげ


この記事が参加している募集

いただいたサポートは、種と珈琲豆を買うのに使わせていただきます。