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非理性的であることを褒められる

最近、非理性的であることを褒められることが多い。

あまり表には出さないようにしているのだが、3大欲求ドリブンなことは漏れ出ていて、友人の一人は、やろうと思ってもできないことだからと褒めてくれた。
「3大欲求ドリブン」については、品がなくなる前にヴェールの向こう側に隠すとして、理性と自分について書き綴りたいと思う。

このnoteは劇団ノーミーツ1周年記念企画「劇団員24人全員のnote」のひとつです。劇団ノーミーツテクニカルディレクター・ハードウェアエンジニアの松永夏紀が書いています。その他の劇団員のnoteはこちら

自分がウェアラブルロボットを作品として作り始めた10代のとき、自分の欲求に基づいて作品を作った。
自分がこれが欲しいとか、こういうものがあったら嬉しいとか、そういう欲求だ。フェチズムも含まれる。
作品を作って発表するうちに、質問を受けるようになる。
質問者と自分自身の土を掘り下げるうちに、潜在的欲求、知りたいことが言語化されていった。
次第にそこで気付いた「知りたいこと(簡単に言えば人とウェアラブルロボットのインタラクションについてだ)」に基づいて作品、というより研究(のようなもの)のための道具を作るようになった。

作品を発表していく過程で周りに増えた大人たちに、理論武装することを求める人が多かった。理論武装は今もできていないが、理論的に物事を話そうとか、理論を勉強しようとか考えるようになった。当時からエンジニアを目指していたので当然といえば当然だが。

理論がない人、軸がない人はカッコ悪いなというのが当時の自分の価値基準だったので、自分自身が変化していくことは喜ばしいことだった。

と、ここまで「理性と自分」でなく「理論と自分」について書いてしまった。

生活がロジカルになったかというとそれは全くなく、自分の突発的行動や突然の判断、意欲の波に振り回されながらも助けられることが多い。
突然その日に思い立って新幹線に乗って展示を見に出かけたりする。
きっかけが自分の中に降ってきたら、それに素直に従うようにしている。
自分がやろうと思って掴んだ出会いなんて、狭い範囲の出来事だと思う。その範疇から出ようと思ったら、なるべく計画無しに動くしかない。(と思っている)

その様が、非理性的と褒められたのかもしれない。

「リファラル」という言葉がある。ITの世界で、リファラル採用などと使われたりする。リファラル採用とは、会社の人間の友人知人を採用する採用方法だ。
筆者はリファラルを信じている。
自分は情報収集が下手だと自覚している。
だから、友人の情報収集やリコメンドを信じている。
自分にないきっかけを与えてくれるのはいつも友人だ。
友人の与えてくれたきっかけに従って行動するというルールに則っているのでそれは理性的かもしれないが、外から見たら非理性的に見えるだろうか。

劇団ノーミーツにかかわったきっかけも突発的でリファラル的だった。
ノーミーツクリエイティブディレクターの鈴木健太(スズケン)がロボットアームでのカメラワークについて呟いていたのに岐阜健太(ギフケン)と筆者が反応した。

Twitterでロボットアームでのカメラワークについて話してからしばらくして、スズケンからDMが飛んできた。
そうして関わることになったのが、第2回長編公演「むこうのくに」だ。

「むこうのくに」の筆者が関わったハードウェアについては以下の記事が詳しいので参照願いたい。

スズケンに招待いただいていて、ノーミーツの長編公演は第1回から見ている。
はじめてリモート演劇を鑑賞した時の筆者は、悩んでいた。インタラクティブでない生の映像の意味を初回の観劇では掴みきれなかったのである。

自分には言語化できない「良さ」があることには気付いていたが、言語化できないことに悩んでいたのであった。

劇団内部の人間として関わっていると、リハを含めて何度も公演を見ることになる。
すると、初回鑑賞ではわからなかった「リモート演劇」が見えてきた。
演劇は生ものであること。1度しか鑑賞しなかったとしても、それは連続していいる中の1ページであること。
ストーリーがインタラクティブでなくても(劇団ノーミーツにはインタラクティブな作品「それでも笑えれば」もある)、前説や幕間でインタラクティブ要素を入れている工夫。
開場から開演までのマイクチェックで観客に観劇モードになってもらう工夫。
まぎれもなくこれは「演劇」だと確信した。

演劇との付き合いは深くはないが古く、中学生の時に演劇部に入っていた。
中学生の時は演劇部で、高校生の時はギャラリー巡りが趣味で、美術と工学でどちらを選ぶか進路に悩んだものだ。
筆者は工学を選んだが、ノーミーツではその垣根をいとも簡単に飛び越える人たちがいて、驚くとともに自分の想像の範囲の狭さを思い知った。

ノーミーツにかかわるようになった「2020年の選択」として、レッドオーシャンに向かい合うようになったと年始のnoteには書いている。

理性的に工学を選んだ過程を飛び越えて、レッドオーシャンなことと向き合ってみている。
その変化も、非理性的だと褒められるようになった要因だろうか。

劇団ノーミーツは1周年を迎える。
ノーミーツ立ち上げ時期の頃、会社の近くへ引っ越しの準備を整えたのに世間がリモートワークになってしまった頃だ。
カラオケに行きたくて友人とリモートで音楽をしたり、友人にCADを教えたたり。新しい遊びを模索していた頃だ。

自分のスケールで生み出せた遊びはこんなもんだったのかと今になっては思う。
ノーミーツという、どえらい遊びと出会えてよかった。

人と一緒に作品を作るのが苦手だ。
前述の通り自分には意欲の波があるし、人と作るとプロジェクトをマネジメントする必要が発生して、仕事っぽくなりすぎてしまう。

ノーミーツのみんなと作品を作るのは楽しい。
みんなコミュニケーションお化けだし、楽しむのと仕事にするののバランスが上手い。

あの時スズケンとギフケンにリプライしてよかったな~
また、自分の突然の判断に救われている。
友人が連れてきてくれた出会いの中でも、ノーミーツとの出会いはとても大きな出会いだ。スズケンありがとうね。

ノーミーツは、「会う」ことを選択した。
もっと楽しいことを、もっと新しいことをするための選択だ。
我々ハードウェアエンジニアは、「会わない」ことで必要とされてきた場面が多かったと思う。
「会える」ようになったこれからのノーミーツで、どんなことができるのか。それがこれからの課題だ。
こういう時は、理性的なギフケンの方がきっと役に立つ。
ノーミーツのハードウェアエンジニア2人、ギフケンと筆者の話もまたどこかで書きたい。ノーミーツの良いところの一つ、冗長性の話だ。


冗長性の話はこちらに書きました。

※このnoteのカバー写真は3年前に母が撮ってくれたものです

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