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正しく理解する:武士の時代の軍事力(3)

安土桃山時代当時の日本の軍事力は世界最強だった

日本の自衛隊は22万5千人いて、日本の人口比では0.18%です。
世界最強の米国の軍人は143万人もいて、人口比では0.43%です。
これが現在の姿です。

豊臣秀吉の太閤検地が行われた頃の日本の人口は1200万人でした。今の1/10ですね。それでは兵士は何人したのでしょうか?石高ではかる方法があります。1石=2.5俵で150kgです。一人の兵士を1年間養える兵糧と言われています。この頃の全国の石高は1850万石ですので、計算上は日本の人口を超えてしまいます。実際には1万石あたりで250人という記録があったり300人という記録があります。その計算で言えば、当時の軍事力は46万人〜56万人程度で人口比は3.9%〜4.6%が軍人(武士の戦闘員)だった言えます。士農工商という身分階級に分かれた江戸時代の武士階級は人口の7%です。その中には女性も含まれますから、男性の武士は3.5%程度だったはずです。そう考えると妥当な推測だと思います。

人口比という観点からは現在の自衛隊に比べても22倍、米軍と比べても9倍というとんでもない数字になります。
人海戦術での大戦となった第一次世界大戦では、英国で2.5%、ロシアで3%の人口比です。ただしドイツは突出して高く8%でした。オーストリアは人口比9%も軍人がいましたが列強諸国のなかで最弱でした。第二次世界大戦の太平洋戦争における日本軍は開戦時は人口比3.3%で安土桃山時代以下でしたが、戦局が悪化するにつれて動員され終戦時では9.5%まで跳ね上がりました。

いずれにしても応仁の乱以降の戦国時代を経て、豊臣秀吉の時代には世界最強の武士軍団になっていました。

その武士軍団の強さの秘密は「技術開発力」でした。
鉄砲・槍・弓・日本刀です。鉄砲はポルトガルから種子島に伝来したのが1543年。なんとその翌年の1544年夏には近江の国友村の鍛冶職人が国産の鉄砲を早くも完成させています。分解して再現してみせたわけで今で言うリバース・エンジニアリングですね。

国友村は現在の滋賀県長浜市近くですが、山を越えれば関孫六で有名な関の日本刀の鍛冶集団と一大産地がありました。私が継承して保有する二振りの刀のうち短脇差が室町期のもので関の銘が柄に入っています。鉄砲は堺の商人が商いしていましたが、織田信長と豊臣秀吉は敵方の手に渡るのを嫌い、関の刀も国友の鉄砲もお抱えの軍事生産基地にしました。当家の二代目九兵衛も御物頭(鉄砲大将)を務め、その後も幕末まで代々鉄砲大将か侍大将を務めていました。

日本の鍛治職人の技術力の高さは日本刀独自の玉鋼の折り返し鍛錬、陶器にも通じ古くは土器から発祥した焼成炉の技術によって培われました。非常に強い刀なので、製造法の異なる他国の鉄製の刀を折ってしまうほどの威力がありました。

また鉄砲では黒色火薬の原料の硝石が欠かせません。当初は輸入に頼っていたのですが、そのうち硝石も内製化できるようになりました。それは糞尿や野草から微生物の働きを使って硝酸カリウムを作る驚きの方法です。猛烈に臭いようですが自給できてしまいます。

日本の弓はこの頃には芯に竹ヒゴを使い外竹・内竹・側木を接着させた弓胎弓(ひごゆみ)が開発されます。今で言う建築材料の合板材のようなものですね。大陸ではモンゴル騎馬民族が馬上で使うのがメインだったので扱いやすい短弓で、木や骨や角などの動物素材を組み合わせた合成弓でした。和弓は長弓なので射程と威力があり、さらに集団で射掛ける戦法でした。また武士は長い和弓であっても馬上で使いこなしていました。

槍は日本刀の強い鉄を使い、さらに織田信長が開発した戦法の「槍ふすま」が効果をあげました。一列に並んで5メートル近い槍を密集させます。突くよりも打ち付ける方が多かったそうです。ゴルフ・クラブでもドライバーとアイアンでは長さが違うので長いドライバーの方がヘッドスピードが上がります。ゴルフ・クラブの4〜5倍の長さの槍で叩かれたら兜も割れてしまうほどの威力です。

武器だけではなく城造りもそうです。石垣作りには琵琶湖に近い石組みの達人である穴太衆(あのうしゅう)がいました。秀吉が築城した大阪城の周りには数多くの水路(堀)も築かれました。普段は海運物流を接続し商流を活性化し、戦になれば橋を落として人馬による侵攻を防ぐことができます。今でも数多く見ることができるこの時代以降の城の建築技術は今でも見る者を圧倒します。

このように、安土桃山時代当時の日本の武士の軍事力は兵士の数においても、そして武器の開発力やその使い方の戦術も世界と比べても群を抜いていました。

なぜ日本人はこのような高い技術開発力をもてるようになったのでしょうか?その一因としては「豊かな自然と多神教」があります。八百万(やおよろず)の神が自然界に宿ると考え、森や植物や鉱物や川の水にまで日本人は敬意を払います。その習慣は観察力を養い、また認知脳を強化します。そして自然界に存在する材料を使って創意工夫をするのです。また海外からもたらされた技術であってもさらに創意工夫するのです。世界を見れば、荒涼とした厳しい大地の国や地域がいかに多いか分かると思います。逆に熱帯地方には緑の自然もありますが、暑すぎて創意工夫などの知的作業を促す気候ではありません。自然環境と普段通りの定着した生活習慣を背景にしてこのような「技術開発力」が育ちました。

ちなみに、秀吉は二度の朝鮮出兵をしました。この理由や背景には諸説あります。私個人的には「スペインが明を植民地化しようとしていたから」という理由につきると思っています。秀吉は百姓の出身ですが、忍者でもありました。これは珍しいことではありません。小田原の領主となった北条早雲も美濃の国盗りをした斎藤道三もそうだと思います。紀伊半島や尾張出身者に多かったのだと思います。それで情報収集能力はずば抜けていました。信長は南蛮人を珍しく好奇な目でみて受け入れましたが、秀吉はキリスト教国の世界植民地化に気づきます。そのため、バテレン追放に方針転換したのです。偵察で終わりましたが、秀吉がフィリピンにも遠征を考えていたのは、やはり「スペインがフィリピンを植民地化しようとしていたから」です。そして秀吉の考えが正しかったことは、インドネシアに植民地化と貿易を目的とした欧州の東インド会社ができたことが証明していると思います。

次回は平和な江戸時代の凄さに触れます。



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