個性と才能
個性と才能を混同して考えていることが多いのではないかと、ふと考えてしまうことがある。
十人十色という言葉があるように、人は皆違った個性を持ち合わせていることは確かに分かるが、同時にそれが才能と同じ意味で使われている場面を見かけると、果たしてそれは正しいのだろうかと疑問に思う。
人は皆、「個性」と名がつく空の容器のようなものを持ち合わせて生まれてくると思う。それは大きさも色も形も異なる容器で、経験や知識が詰め込まれていくなかでその人が作りあげられていく。
ここで重要なのは、その容器に何を入れていくかであると思う。当然、何を意識して中身を入れていくかで、その人の人格や思想は変化する(自分で変化させられるともいえる)。
最近気になるのは、元々ある個性(容器)を尊重しようとするばかりで、中身について言及されることが少ないのではないかという点だ。
多様性を重んじるのは結構だが、それがその人の才能としてもてはやされるような(もてはやそうとする)風潮には、違和感を覚えてしまう。
才能とは、それぞれが持ち合わせている個性という容器に、その人特有の知識や経験が詰め込まれて初めて完成するものだと思う。
大きさも色も形も異なる容器であるから、入れる順番や入れるモノの質を考えて入れていかなければ、こぼれてしまったり、かさばるだけで上手く入れられない。
個性があることは言ってしまえば当たり前で、そこから何を考えて自分の才能にしていくかは、決して簡単なことではない。
人間というものは、自分は特別だと思いたい気持ちが少なからずあると思うが、それが最近の多様性の尊重などさまざまな風潮と相まって、「個性=才能」と位置付けられているように感じる。
しかしそれは努力している人達に失礼だ。周りから才能があると思われるような人達は、元からある個性に対して人一倍の努力をし、そのように思わせられるような人間になっているはずである。
私はプロフィールにある通り、友人2人と生活している。彼らは以前から音楽について、周りから尊敬されるようなレベルにあったし、個性もあると思われてきた人達だ。しかし今、さらに高みを目指して努力している姿を間近で見ていると、個性はただの容器にすぎず、いかに本人が努力して中身を伴わせていくことが重要であるかを考えさせられる。
私はどんな容器に何を詰め込んできただろうか。もう一度よく見直すための良い機会であると思ったので、ここに記録する。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?