『雑記』20210821 人の死が為すこと

少し前、同級生が死んだ。
彼女とは小学校から高校まで同じ学校に通い、中学でも高校でも一時は同じ部活に入ったりした。
私が辞めたり、彼女が辞めたりで、3年間同じ部活に一緒に励むことはなかったけれども。

夏休み、彼女とプールに行ったことがある。
高校のオープンキャンパスへの道中、しょうもないギャグを思いついて二人で延々とやったことも覚えている。

高校卒業後、連絡をとることもなく、ただSNSで近況を確認する程度だった。

正直いうと、喧嘩とまでは言わなくても、
気まずい関係になったまま、高校で疎遠になった。
会えば話し、また遊ぼうと約束はすれど、その約束が果たされることはなかった。

生きていたら、変わらず、特段連絡も取らず、
結婚して、家族ができたり、仕事での紆余曲折があったりを、
人生の一部を、時々覗き見するだけの関係ではあったのだろうと思う。

それでも彼女は突然、その人生を終えた。
おそらく彼女も気付いていないのではなかろうかと思うほどにあまりに突然。
あまりにも静かに。

彼女の訃報を受けたとき、久しぶりに彼女のことを思い出した。
言葉が出ず、飲み込みもできず、息をすることだけが精一杯だった。
それから、献花のために休みを取った。
初めての友達の死に、なんと伝えればいいのかわからなかった。

電話口で、言葉が出ず、ボロボロと泣き、
そんなにショックを受けていたのか、と気付いた。

冷たく聞こえるかもしれないが、
彼女が死んでも、あまりに変化のない人生を今過ごしていると思う。
毎日起きて、食べて、仕事をして、テレビを見て、お風呂に入り、眠る。
休みの日には、誰かに会い、美味しいものを食べ、一通り笑って、毒づいて、眠る。
どれも、彼女ではない誰かと。

本当に、何も影響しないのだから、私が泣くことはないと思っていた。
弔う気持ち、痛む過去はあっても、寂しいと言えるほどのこれからはなかった。

それから1ヶ月経った。
人は、死をもってその存在を普遍化する。

たしか、樹木希林が亡くなった時に是枝監督が読んだ弔辞に、そんなような言葉があった。
なるほど、と思う。

彼女は何故かひまわりのイメージが強くあって、花屋の軒先のひまわりを見て彼女を思い浮かべるようになった。
同期の子が、彼女に似ている、と思うようになった。

生活のあちこちで、彼女の存在を感じる。
それまで感じたことなかったものに、悉く。
人は、死によって身体という輪郭から溶け出し、世界のあちこちに色濃くその存在を示すのかもしれない。

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