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『眠れる海の乙女』第3話

 不思議な夢を見た。

 白鯱が次々と海面から顔を覗かせ、飛び上がっていく。見上げる程の高さまで何十体と空一面に舞う白鯱は、体を崩しながら弧を描き頭上を回り続けている。その光景を海上のテトラポットに座りながら眺めていた。幻想的で壮大に広がる空一面を点々と煌びやかに輝く星々が、白鯱の体を照らしている。

 息を飲んだ私は、ふと隣に気配を感じた。

 視線を隣に移した所で突如視界が暗転して目を覚ました。

 確かに隣に誰かいた……。

 これで何度目の夢だろう。過去の記憶を手繰り寄せたが、寝ぼけ眼の状態では正確な数を思い出せなかった。

 不確かな事だが隼人と別れてから、あの不思議な夢を見出したような気がする。不思議と嫌な目覚めではなかった。まるでSFのような夢だが、夢を見る事は記憶の整理と聞いた事がある。アパートに引っ越してから、三度目の夢。いつも同じ夢でいつも同じ場面で終わってしまう。

 思い出の整理。

 言い方を変えれば、そんな表現が出来るのかも知れない。

 布団から体を起こして、ミニバッグから鯱のキーホルダーを手に取った。

「……これが関係するのかな」

 隼人との思い出のキーホルダー。きっとこれが、あの夢に関係しているような気がする。私と隼人をこの鯱が導いてくれた、私の大切な物。

 引っ越しを昨日済ませたばかりの為、部屋の中は段ボールが山積みとなっている状態だった。一人暮らしの女性の割には、荷物が少ない気と思う。封を開けていない段ボール箱が壁に沿って積まれていた。

 隼人は約束通り、引っ越しを手伝ってくれた。あの時はその場の勢いで手伝ってくれるように隼人に話をしたものの、いざとなってみると気が引けて、引っ越し日を伝えなかった。荷物は少ないが、業者に頼んだ。女性一人暮らしの家を手伝ってもらう事がなんだが恥ずかしかった。

 引っ越し日、当日の事。

 業者が忙しなくトラックをアパート前に停めて、荷物を運ぶ為の段取りや下準備を始めた時、隼人は突然現れた。私が「どうしたの?」と声を掛けると、隼人は不機嫌そうで少しふて腐れた子供のような表情を浮かべていた。

「どうして連絡、よこさないんだよ?」

「……仕事忙しいかなって」

 現に隼人はスーツ姿だった。隼人の背後に停めてある車は社用車だった。きっと仕事を抜け出して来たのだろう。

「結衣さんから聞いたよ……今日が引っ越し日だって」

「……そう」

 二階の部屋を見上げ、目の前に停めている引っ越し業者のトラックを見て、状況を確認している。すると「荷物運び終わったら、荷解き手伝うよ」とやる気を表すポーズをとった。

「仕事は、大丈夫なの?」

「あぁ……この後は特に予定ないし、社長には了解もらっている」

 まったく、もう。人の気も知らないで。確かに私から相談したけれど、連絡がない時点で、そこは察してよ。平日の午後に時間指定をせずに、安く料金を済ませて引っ越しを依頼した。それが今日になり、心配をかけないようにと思ったのに……。

「……本当に大丈夫なの?」私が改めて確認すると「だから、大丈夫って言っただろう?」と隼人が再び力瘤を作る仕草を見せて応えた。

 私は隼人の好意に甘えた。引っ越しの作業スタッフが、荷物を運ぶ段取りや準備を済ませ、トラックから次々と架純の荷物が運び出される。スタッフは二人しかいないのに、その若い男性スタッフ達のコンビネーションと素早い動きには、目を見張るものがあった。隼人と私はそのプロのスタッフ達の動きに、ただただ茫然と立ち尽くしていた。

 あっという間の出来事で、スタッフの一人が私に「運んだ荷物の確認をお願いします」と駆け寄り二人で部屋まで向かった。

 綺麗に積まれた段ボール箱と建具を確認すると料金を支払った。スタッフ達に礼を述べると、作業スタッフ達は颯爽と去っていった。

「さてと……じゃあ、早速やるぞ?」ジャケットを脱いでワイシャツの袖を巻き、気合いを入れ直す隼人。

「じゃあ、そこに積んである段ボール箱、荷解きしてくれる? 本ばっかりだから」

 隼人は黙々と手伝ってくれた。隼人は意外と几帳面な性格で、システムラックに著名順に本を整理してくれた。

「お前、相変わらず童話好きだよな?」グリム童話集を手に取って呟く、隼人を尻目に捉えていた。衣類を畳んでいる私は一旦手を止めて隼人に近づいた。

「前にも話さなかったっけ? ほら、中学校の図書室で読み始めてって……」

「そうそう。それで架純が茨姫の話をした時に俺が『茨姫?』って聞き返したら……」

「邦題は『眠れる森の美女』って言うんだよって」

「……懐かしいなぁ」隼人は表紙をまじまじと見つめて、感慨深い表情を浮かべている。その目はどこか遠くを眺めている時の瞳に似ていた。

「よし……じゃあ、あとそれだけか?」本をラックに戻し、開けられていない箱に向かって歩き出した。私はその瞬間「いいよ。あとは、大丈夫だから」と隼人を呼び求めた。

「なんだよ、気にするなって。まだ時間は大丈夫だし……」テープで封をされていた一つの箱に手をかける隼人。

「いいから……ねぇ、もう大丈夫だから」隼人の肩に触れたが間に合わなかった。

 封を開けて冬物のセーターを手に取った隼人は、セーターの下に隠した私の下着類を目にした瞬間「ごっ、ごめん」と気まずそうに俯いた。

「もう……だから言ったのに……出てって、もういいから」隼人が持つセーターをひったくり、玄関まで追い出すように隼人の背中を押した。

「わっ、悪かったって。悪気はないんだ」

「もう、知らない。最低」玄関外まで押し出され、立ち尽くす隼人に私が言い放った後、扉を閉めた。

 それが昨日の出来事で、隼人とはそれっきりだった。

 隼人に悪気がない事は重々わかっている。隼人の好意を無駄にしたくない気持ちもあるけれど……そう、あれは事故よ。仕方がない。

 このまま気不味い関係でいたくはなかった。

 隼人は恐らく、今日も仕事だろう。不動産会社って遅くまで仕事をしているイメージがあるけれど、やっぱり帰宅って遅いのかな。

 一先ず手伝ってもらった訳だし、何かお礼をしよう。あんまり重いものじゃなくて、簡単なお礼の気持ちを伝えるだけでは寂しい気持ちがするから難しい。

 実際こうして隼人の隣の部屋に住むようになってから気持ちは浮ついていた。昨日の引っ越しの気不味い別れから荷解きを終えた後、夕飯を食べ終わり食器を洗っている時だった。廊下から隼人が帰って来る気配を感じた。昨日は二十一時を過ぎていた。

 それから隣の壁を伝って隼人の気配を感じるようになり、神経が研ぎ澄まされ昨夜は寝つけが悪かった。今まで離れていた分、隼人がこんなに近くにいる事が嬉しくなった。そもそも隼人に彼女はいるのだろうか。いたらこんなに遅くまで仕事はしていないよね。考え始めたら気分が落ち込んできた。

 それにしても……。

 それはそれで、隼人へのお礼はしなきゃいけない。

 そんな事に思い深けていた時、肝心な事を思い出した。引っ越しが無事終わった報告を待っている人間が二人いた。

   先ずは、母親の優子。きっと優子は心配してくれている。私が引っ越しをする事に関しては強く反対はしなかった。何回も話し合いを重ね、私の想いを素直に正面から優子に伝えたが、優子は涙を流すも最後まで優子は心配してくれた。特に兄の聡は昨夜から電話とメールが何件も届いていた。

『無事に昨日引っ越し終わったよ。だから心配しないで。お兄ちゃんにも伝えといて』

 スマートフォンを手に取り、優子にメールを送った。昼間の時間は仕事中だろうと思い、電話は控えた。

「あとは……」

 どうだろう。今の時間は大丈夫かな。環奈に電話をかけると、やっぱり出なかった。メールを送ろうとした時、スマートフォンの画面に環奈からの着信を知らせる内容が写った。

『あっ、もしもし? 環奈ちゃん?』

『架純ちゃん? ごめんね、出れなくて』スマートフォンの向うから騒がしい音が聞こえる。その中でも透き通った環奈の話声はしっかり聞こえていた。

『ううん、ごめんね。今、学校でしょ? 大丈夫?』

『うん、大丈夫。お昼だし……どうしたの?』活発な喧騒音が聞こえてくる。男子学生がやんちゃに動いている教室内を想像した。

 環奈に一通りの報告をすると、安心したようで私の体を労うような言葉を向けてくれた。その中で環奈と話しながら思いついた事を環奈に尋ねた。

『ねぇ、環奈ちゃん? 聞きたい事があるんだけど……』真剣味を環奈に与える為に、声色を落とした。先程から悩んでいる事に答えを見出す為に、環奈に聞きたい事があった。

『なに? どうしたの?』

『……隼人君って、好きな食べ物変わっていない?』私が尋ねるとスマートフォンの向うから笑い声が聞こえた。

『相変わらず舌は、お子ちゃまだよ』

『本当? じゃあ、やっぱり甘口?』

『うん。辛口は絶対駄目だよ……もしかして、作ってあげるの?』

『一応ね……引っ越し手伝ってくれたし、何かお礼しようかなって。それにね、実はちょっと気不味い関係になっちゃったの』

『えっ? なんかあったの?』心配そうに反応する環奈に昨日の下着事件の顛末を話した。

『……それで先ずは、胃袋を掴むって戦法って事ね。いいじゃん、いいじゃん』私より年下の環奈にあっさりと考えがバレてしまった。

『それで大丈夫だと思う? なんだが不安になってきて』

『大丈夫だって、加純ちゃん。男って単純だからそんなに気にしなくていいと思うよ』

『大丈夫かな? 引っ越ししたばかりだし、きっかけがなくて困っててさ』

『えぇ? お隣同士なんだし、ありそうだけどなぁ……』

『まだ昨日の今日だからわからないけど……ほら、向うは仕事しているでしょ? なかなかタイミング難しいかなって……』実際これから先の作戦は、行き当たりばったりだった。

『そっか……でも、楽しみだね。頑張って、架純ちゃん。応援しているね』

『ありがとう、環奈ちゃん……良かったら、また相談していい? その……隼人君の事』

『もちろん、当たり前だよ』

 環奈の一言に勇気づいて電話を切った。よし……そうと決まったら、早速買い出しに行かなくちゃ。あっ、朝から何も摂ってないし、お腹も空いて来たな。どうしよう……何か食べてから行こうかな。昨日引っ越したばかりだし、冷蔵庫の中身は何もない。昨夜はコンビニ弁当で済ませてしまった。やっぱり、買い物に行かなきゃ……あっ。市役所に行って、住民票とかいろいろ手続きもやらなきゃいけなかった。どうしよう……今度で良いよね?あぁ、なんかいろいろやらなきゃいけない事が次々と出てきて、頭を掻き毟った。もう、引っ越しって大変。とりあえず、外出する為に身支度を始めよう。何をするにしても、外に行かなきゃいけないから。

 一坪程度の広さのユニットバスでシャワーを浴び終わると、ドライヤーを使い、髪を乾かしながらテレビを眺める。昼の情報番組から報道バラエティ番組へと変わっていた。

 その中でもやはりどこの局も、特集を組み放送されているのは医学界を席巻した再生医療のニュース。ドライヤーの機械音がする中、音声は聞こえずとも画面に映し出された内容で概ね理解が出来た。

 着実に一歩ずつ、日々を過ごせば昨日までの出来事は、過去のものになっていき、普段ならば前向きな気持ちになっていくもの。それは希望や期待を胸に秘めて進むから成長に繋がるけれど、時として過大な期待や希望は残酷なものに変わってゆく。中にはそれが後退していくものもある。私達が安心して安全に利用出来るには、まだ未来の話のように聞こえた。

 髪を整え目薬を点け終わると簡単なメイクを施した。近場だしファンデーションだけはしっかり塗った。明るめのジーンズにカジュアルなトップスに着替え終わると部屋を出る。

 玄関を出ると、春の暖かさとほんの少し冬の冷たさを乗せた風を感じた。外階段を降り終わると、一階の部屋の前で井戸端会議をしている年配の女性二人が視線に入った。その瞬間、階下の住人に挨拶をしていない事に気付いた。

 どうしよう……。

「あら、こんにちは」先に相手から話を掛けられた。ふくよかな女性が、笑顔を向けて私に近づいてくる。

「こんにちは」とりあえず笑顔を向けて頭を下げた。

「もしかして、上に引っ越してきた方?」私の部屋を指差して、その女性が尋ねてきた。

「あっ、はい。相島と言います。ご挨拶遅れてすみませんでした」

「いいの、いいの。気にしないで。私、一○二に住んでいる小林。あと、こっちが一○三に住んでいる――」

「藤浦です。宜しくね」小林の後を引き継いで、藤浦が私に挨拶をした。

「よろしくお願いします」二人に頭を下げた。二人とも笑顔が印象的な明るい女性だった。

「まさか、こんな若い女の子が本当に来るなんて……ねぇ?」小林が藤浦に話を向けると「本当ねぇ……しかも可愛いし、ほら社長のお孫さん……えっと名前が出ない……ほら、そこの二○一に住んでいる――」

「隼人君ですか?」私が後を引き継ぐと「そうそう」と二人の顔が明るくなった。

「気を付けてね……こんな可愛いお嬢ちゃんが一人暮らしなんて、ましてやお隣同士なんだから。何があるかわかったもんじゃないわ」小林が私を気遣うと私は笑って「友人ですから」と答えた。

「あら……そうなの? なら大丈夫そうね」と安心した様子を見せた。

「社長からも言われているの。何か困った事があったら声かけてね」藤浦が言った。

「社長が?」違和感を覚えた。

「そうよ……私達、ここに住んで長いから。今度、二○二号室に引っ越してくる人がいるから、力になってあげてくれって。私達、社長にはお世話になっているしね。ほら、私達バツイチ子なしだし、親戚とも折り合い悪いから、なかなか賃貸借りにくいのよ。それなのに社長は貸してくれるから助かっているの」

「そうだったんですか」社長の正和がそこまで気を遣ってくれていたとは知らなかった。

「あぁ、ごめんね。お出掛けの時に呼び止めちゃって」

「いえいえ。こちらこそ……それじゃあ、失礼します」二人に挨拶を済ませ、駅前の方に向かって歩き出した。感じの良い女性で安心した。初めての一人暮らし。隣に隼人が住んでいるとはいえ、不安がないと言えば嘘になる。そんな不安を感じさせず、ましてや正和が働きかけてくれて人の温かさを感じた。

 街路樹が立ち並ぶ大通りを歩き、駅前のスーパーマーケットに向かった。初めてこの街を訪れて三回目。この街に住むようになってから今日が一日目。幾度か見た街の景色や空気、そして聞こえてくる声や音が、昨日までの感じ方が異なっていた。それは今まで後退して見る、絵画に近いのかも知れない。絵画を離れて見る事と間近に見た時の印象が異なるように。今日は体に当たる風が肌に染みこんでくるようで、この街に私自身が浸透していくようだった。


 駅前の交差点に差し掛かると、隼人が働いている正和ホームが見えた。正和の事もあるし、結衣にも引っ越しした旨も含めて一度立ち寄ろうと思った。信号が青に変わり、交差点を渡る。会社の前まで近づくと、店内を窺った。結衣がパソコンに向かって座っている。

「……手ぶらで行くのもなぁ」買い物を済ませてから立ち寄ろう。菓子折りでも持って寄った方が良い。自分に言い聞かせてその場を去り、再び足を進めた。

 スーパーマーケットに着いて、食材売り場を回った。ジャガイモ、人参、玉葱、豚肉など一通り……それとカレールーの甘口を籠に入れた。

 隼人にカレーを作ってあげようと考えていた。

 隼人とは幼馴染の関係で、隼人の家に訪れた事があった。その時に、隼人の母親と一緒にカレーを作った事があって美味しそうに食してくれた記憶がある。

『カレーは、甘口に限る』

 そう豪語していた隼人が印象的だった。肉も鶏肉より豚肉が好きな事。オイスターソースと蜂蜜を少し入れたカレーが好みな事をその時に知った。食材を買い揃えると、生活品も当面の物は買い漁った。本当はもう少し買い揃えたかったけれど、荷物を持って歩いて帰るには限界を感じる。

 会計を済ませると、結構な重さを感じた。レジ袋の持ち手が手の肉に食い込み、痛みを感じる。生活品も纏めて買わなければ良かったと若干の後悔を覚えた。

「あとは……そっか、菓子折り買わなきゃ」

 普段菓子折りを買う機会が少ない私にとって迷いあぐねた。なんとなく、おせんべいや和菓子が良いとイメージが先行していた。一先ず、スーパーマーケットの店内入口前でレジ袋を地面に置いて、スマートフォンを取り出し近くの店を検索した。

 すると駅の南口にある雑居ビルの一角に、成田市に本社がある有名な和菓子チェーン店が見つかった。ここまで向かう時に通った場所だったが気付かなかった。

 そこで正和達への手土産を買おうと決めると、駅構内を抜けて南口に向かった。和菓子店に向かう最中、スーパーマーケットに向かった時と同じ道を通ったが、全く違う景色のようだった。それは立ち並ぶ建物や店、行き交う人々やそこから香る匂い。普段は気に留めない事が最近ではこうして意識する機会が増えてきた。

 だから気付いたのかも知れない。その店頭に置かれているショーケース内に、レザーブレスレットやストーンネックレスなどの宝飾品が置かれていた。いずれもリーズナブルな価格で売り出されている。

「良かったら付けてみますか?」私がショーケースを眺めていると、女性店員が笑顔を見せながら声を掛けてきた。

「いいですか? じゃあ、これを」リーズナブルの商品が多い中、一際輝いているネックレスがあった。

「アクアマリンですね……ちょっとお待ち下さい」店内に引っ込む店員がショーケースの鍵を持ってきてケースを開けた。店員がショーケースからネックレスを取出し「お付けしますね」と私の背後に周り込み、首にネックレスを付けた。

「こちらに鏡ありますので、よろしければご利用下さい」店員が姿見を私の前に置く。姿見の前で自身に付けられたネックレスを確認した。ハートの形をしたチタン製のゴールドネックレス。ハートの中には、アクアマリンが煌びやかに輝いている。自身の肌色と合っていて目を奪われた。

「……これ、いいな」

「三月がお誕生日何ですか?」

「全然。アクアマリンと海が好きなだけで」

「そうなんですね。綺麗ですよね、海の象徴ですから」

 本題に入ろうと思い、私は店員に尋ねた。

「あの、表の張り紙を見たんですけど……」

 店を出て時間を確認すると、大分時間が経っている事に気付き少し焦った。目的の和菓子店までは通り沿いの近くにある為、早歩きで向かった。

 店内に入り商品を物色すると、春の季節という事もあって桜をモチーフにしたお饅頭から定番の商品まで幅広くあった。

「何かお探しですか?」女性店員に声を掛けられ、事情を正直に話した。レジ袋を持って店内を物色する若輩者に手を差し伸べてくれた事に感謝の気持ちで一杯になる。数多く取り扱っている商品の中で店員が勧めてくれたのは、レジ前にある詰め合わせの商品だった。最中やどら焼き、饅頭など入っている。

 これにしようと決めたが、詰め合わせの数によって金額も商品の数も変わってくる。一瞬迷ったが、こういう事は変にけちるのはいけない気がする。これからもお世話になる事も考え、三種類ある詰め合わせの中で一番金額が高い詰め合わせを選んだ。

 会計を済ませ店内を出れば、両手は買い物袋で手が塞がった。その足で正和達がいる会社に向かった。向かう最中、隼人はいるだろうかと淡い期待を胸に仕舞い込みながら足を進める。

 会社の前まで着くと、正面店内入口のドアを開けた。

「いらっしゃい……って、架純ちゃん? どうしたの?」結衣が出迎えた。

「突然すいません……あの、これ」先程買った詰め合わせの菓子折りを結衣に渡した。

「無事引っ越しが済みまして。いろいろお世話になったので……皆さんで食べて下さい」

 慣れない事をする時の独特の緊張を感じながら、感謝の気持ちを伝えた。

「そんな良いのに……わざわざありがとう。あっ、隼人君いないけど大丈夫?」

「あっ……はい、大丈夫です」

「お客さんの案内に出ていてね……予定より帰りが遅れているみたい」ホワイトボードの帰社時刻を確認しながら答える結衣。

「それより……どうなの?」

「……何がですか?」

「そんなの、隼人君とよ」

「まだ全然です……昨日の今日ですから」

「大丈夫? 何か手伝える事あったら言ってね」

「はい……一応、夕飯作ろうかなって。引っ越し手伝ってくれたお礼もかねて」

 足元に置かれている買い物袋の中身を見て「やるじゃん、架純ちゃん」と小突いてきた。

「頑張ってね」

「はい……ありがとうございます。あと、社長いらっしゃいますか?」

「社長? 多分いると思うけど……どうしたの?」

「いろいろ気にかけてくれたみたいで……その、一言お礼言えたらって」

「……ちょっと待ってて。今、呼んでくるから」そう言って結衣は正和を呼びに行った。それほど待たずに正和が「おぉ、架純ちゃん」と顔を現した。

「社長。ほら、架純ちゃんからお世話になったって、菓子折りもらっちゃった」結衣が先程渡した菓子折りを正和に見せて伝えた。

「若いんだから、気を遣わなくて良いんだよ」

「いえ。本当に今回の事では、お世話になりました。社長こそ階下の小林さんや藤浦さんにもお声かけ頂いたみたいで……本当にありがとうございます」正和に深々と頭を下げた。

「良いんだ、良いんだ。俺が勝手にやっただけの事なんだから……それに彼女達も世話好きだから、甘えてみるといい」

「……はい」

「架純ちゃん、まだ時間あるかい?」店内の壁時計を確認して、正和が尋ねてきた。もうすぐ十七時を過ぎる時間。アパートに戻りカレーを作る事を考えても、まだ余裕があった。

「はい……大丈夫です」そう答えると正和は「隼人の事で、ちょっと話をしたいんだ」と言って社長室へと案内した。向かう最中、結衣に「コーヒーを二つ頼む」と声をかけた。

  社長室に入ると、正和にソファーに座る様促されて腰を下ろした。

「いやぁ……架純ちゃんには、本当に助かった」向かいのソファーに腰を下ろしながら正和が口火を切った。

「あいつは……隼人は、どこか自分の人生を達観しているというか、諦めているように見える時があるんだ」

「……そうなんですか?」私の目にはそうは見えなかった。

「自分の力はこんなもんだろう……だから、ここまでやれば良い。本当はもっと出来る力があるのに、無茶をしない。時々、そんな風に見える時がある」正和はまるで遠くを見るように目を虚ろかせている。

「……男って不思議な生き物だよな」

「……はい?」

「架純ちゃんが隣に住むって知ってからだな。以前より明るくなったというか、活き活きしているんだ」正和の笑い声が空間を支配した。

「男って生き物は単純でな……何か嬉しい事があったり、守るものがあったりすれば、仕事を頑張れるもんなんだ。まぁ、少なくとも俺の血が混ざってる隼人はそうだろうな」

「……隼人君の事、大好きなんですね」

「孫だからな……やっぱり可愛いんだよ。あいつには会社を継がしたい……でも一人じゃとても出来ない。あいつを支えてくれる人が側にいないと、あいつはふらふらと迷子になっちまう」

 正和が話終えた頃を見計らうように、結衣がコーヒーセットを運んできた。配膳が終わると、そそくさと結衣は部屋を出て行った。

「でも、私には……」結衣が部屋を出た後、私が言葉を紡いだ。

「わかっている。君の覚悟も十分知っている……だから、話したんだ。君だってこれから先、隼人が側にいてくれた方が良いだろう?」不安と複雑な面持ちでいた私に正和が言った。カップを手に取りコーヒーを啜る正和。 

「年寄りの戯言と聞き流してくれても構わない。君の考えを尊重するよ」

「私は……」自分の正直な気持ちを吐露した。

「私は、隼人君が好きです」正和の目を正面に捉え、はっきりと言い切った。

「彼と一緒にいると、気持ちが落ち着くんです。下らない話をして笑ったり……彼が見せる優しさや温かさに触れる度に、私は彼の事が好きなんだなって」私が話終えると、正和は噛み締めるように頷いた。

「……それで良い」

 すると突然正和が立ち上がり「隼人を……隼人の事を宜しくお願いします」と私に頭を下げた。突然の事に私が狼狽える様子を見せると頭を上げた正和は「わっはっはぁ」と笑い出した。何が起きているのか、さっぱり理解が追い付かない。

「いやぁ、隼人の事を心配していたんだが……架純ちゃんがいれば安心だな。わっはっは」正和の笑顔が無理をして取り繕った笑顔だと、私は悟った。

 正和ホームを出てアパートに帰宅すると、直ぐにカレー作りに取り掛かった。店を出る間際に結衣から『隼人君に真っ直ぐ家に帰るように言っとくね』と言ってくれた。普段は、外食かコンビニ弁当で夕食を済ませがちな隼人を防ぐ為の防御策。帰宅時間は決まっていない様子だったので、隼人に『何時頃、帰宅するの?』とメールを送る。カレーを作るにあたってゴールが見えない事は致命的だったから。

 するとアパートに帰宅した直後に隼人から『二十時には帰れるかな? 何か用?』と返信が返ってきた。時刻はもうすぐ十八時になる。時間はあるが、余裕がないように思えた。

 調理器具と調味料他一式がなかったので、先程買った鍋とまな板、包丁を袋から取り出した。買ってきた食材を洗い、適当な大きさに切ると鍋に入れて炒める。簡単な味付けをして、鍋に水を入れて沸騰させる。灰汁を取り、一旦火を止めて買ってきた市販の甘口ルーを二種類溶かしながら入れた。とろみがついて味見をすると、なかなかの出来だった。最後にオイスターソースと蜂蜜を少量入れて完成させた。

 時刻を確認すると、十九時を過ぎたばかり。なんとか間に合った。久々に作るカレーに悪戦苦闘しながらも、我ながら出来栄えに自分を褒めたくなった。

 まだ隼人が帰ってくるまでに時間はある……どうしよう?

 一息ついていると、自分の体が汗臭い事に気付いた。買い物に行ったり、カレーを作ったりしていたから汗をかいていた。まだ時間はある……シャワーを浴びよう。

 シャワーを浴び終わり、髪を乾かし終わると十九時半を回っていた。するとスマートフォンが鳴り出す。隼人からだった。

『もしもし?』

『あっ、俺だけど……』

『どっ、どうしたの?』

 突然の隼人からの電話で声が裏返ってしまった。思いの外、自分が緊張している事に驚いていた。

『どうしたのじゃないよ。架純が既読スルーしたままだから、電話したんじゃん』

 確かに隼人から来た返信内容を確認しただけで、返信していなかった。カレーの事で頭の中はいっぱいだったのよ。

『あれ? そうだっけ? ごめん、ごめん』

『ったく。それで、どうしたんだ? 俺に用があるんだろう?』

『……別に大した事じゃないんだけど』

 大した事なんだけど、大した事じゃないとしか言えない気の弱さ。

『……何だよ?』

『それよりさぁ……隼人君、何時頃帰れるの?』

『もうそろそろ、会社出ようかなって』

『じゃあ、帰ったら話すよ?』

『……じゃあ、架純家行くよ』

 よし、一先ず及第点は自分にあげてもいい流れになった。

『うん……じゃあ、あとで』

 電話を切った瞬間、いよいよ本番が訪れるという期待感で胸が躍る。自分でも思い切った行動をしたなって感心した。散々買い出ししておいて、今更になって緊張してきた。

 最終的なカレーの味見を確認する。うん、美味しい。これなら隼人も喜んでくれるはず。髪をシュシュで纏めて、簡単に化粧をしているとインターフォンが鳴った。玄関に向い、覗き窓からは隼人の姿を確認出来た。

「よっ」扉を開けた先には、軽く手を挙げて挨拶をする隼人の姿。

「早かったね」昨日会ったばかりなのに新鮮さを覚えた。

「そりゃあ、急いで帰ってきたからさ。ってかさ、夕飯カレーか?」

「……えっ?」

「外の換気扇から良い匂いがしてさ……もうお腹空いちゃって」自身のお腹を擦りながら悶える隼人。思わぬ展開になってきたなと思ったが、チャンスだと思った。まるで神様が私に味方してくれたかのように思えるこの流れ。

「よっ、良かったら食べていく?」

 また声が裏返ってしまった気がするけれど、換気扇の音で掻き消されたようで隼人は気にも留めず「いいか?」と目を輝かせた。なんだか子供っぽくて可愛く見える。

「じゃあ、着替えてから行くよ」

「……うん」隼人は隣の自宅に戻って行った。

 隼人は昨日の事は気にもしていないのかな。さっきの感じだとそんな素振りは全然なかった。もしかして過剰に気にしていたのは私だけ?

 それでも誘うつもりだったのに、まさか隼人からそんな話が出るなんて。でもこれって結果オーライってやつだよね。隼人が来るまでの間、テーブルを拭いて食器を用意していると、ふとある事に気付いた。

「……お米、焚いてない」

 すっかり失念していた。カレーばかりに気が入っていて、肝心のライスを忘れていた。どうしよう。今から近くのコンビニでレトルトご飯を買ってこうようかな……そんな事を悩んでいると、何も知らない隼人が部屋に入ってきた。

「お邪魔しまーす」スウェットに着替えた隼人の姿。

「……何、どうしたの?」私の異変を察したようだった。

「……お米、焚き忘れた」隼人に振り返りながら神妙な面持ちで返事をすると「まじ?」と驚いた様子を見せる。

「……ごめーん」まったくもう。良い所まで来ているのに肝心の白飯を忘れるなんて。

「……ちょっと待ってて」隼人が部屋を出て行った。外から聞こえるドアが開く音から、どうやら自分の部屋に戻っていった様子だった。暫くすると隼人が戻ってきた。手にはラップで包まれた白飯。

「これだけあれば大丈夫だろう?」

「……ちゃんと冷凍にしているの?」意外な一面を垣間見た。

「前に結衣さんに言われてさ……一人暮らしなんだから、ちゃんと冷凍して保存しておきなさいって。それに大抵、白飯があれば困らないだろう? ほら、早く食べよう? お腹空いたわ」

 私の失念に気にも留めない隼人の優しさに触れた瞬間だった。

 テーブルの前に腰を下ろす隼人の背中に私は言葉を投げた。

 隼人が持ってきた冷凍ご飯を電子レンジで解凍し、お皿に移して温めていたカレーをよそる。バラエティ番組を見ている隼人の前に運んだ。

「はい、どうぞ」

「おぉ、旨そうだな……これ、架純が作ったのか?」

「うん、まあね」

「……そういえば、前にも俺の家に来て作ったよな?」

「そうそう。その時に作ったやつと同じだよ? ほら、早く食べてみて?」

「……じゃあ、心して……頂きます」私が作ったカレーを口に運ぶ隼人。なんだか少し緊張した。噛み締めながら食べる隼人は相当お腹が空いていたのか、直ぐに「美味い、美味い」と言ってくれた。

「本当? 良かった」私が作った食事を好きな人が食べて、美味しいと言ってくれる。心の底から込み上げてくる幸せを噛み締めた。隼人が黙々と食べる中、自身の分を用意して隼人の向かいに座って食べる。こうして食事をしていると、夫婦のような気分。隼人も意識しているのか……それとも私の緊張が伝染したのか。私が向かいに座って食べていると、視線を合わそうとしない。黙々と食べてばかりだった。

 昨日の出来事だけじゃなくて、久しぶりの再会を果たしたばかりで互いに距離感が掴めない状況なのかな。口には出さなくても互いにかつての心の距離を縮める為にきっかけを求めている気がする。

「ふぅ……御馳走様」あっという間に食べ終わった隼人が満足気な表情を浮かべた。

「まだ少し残っているけど……おかわりする?」

「いや、今日はもういいや。お腹空いてたから急いで食べちゃって……もう食べれない」お腹を擦りながら苦しそうにしている。

「明日もらうよ……このカレーなら毎日でも全然食べれるわ」

「……明日?」何も考えず隼人の言葉を聞き返すと「そう、明日」と平然と答える隼人。

 その『明日』の意味を互いに探り合うように、二人の間に流れる空気が一瞬張りつめると、沈黙が流れた。

 どうして普通に受け止められないのだろう。再会した時の私だったらもっと攻められたし、今の言葉だって普通に受け入れられたはずなのに。隼人を意識すれば意識するほど顔が熱る。隼人だって自分が言ったのに俯いて恥ずかしそうにしている。

「そっ、そういえばさ……」

「うっ、うん」

 ほら、また声が裏返っちゃった。

「話って何?」

「……話?」

「ほら、さっき電話で言っていたじゃん? 何か俺に用があるって」

「……あぁ、あれね」特に決まった用はなかった。とりあえずカレーを隼人に食べさせる事が目的で要は、口実に過ぎなかった。

 どうしよう……まだ先の事だと考えていたけど、この流れは逃したくなかった。

「ねぇ? 駐車場に停めてある、あの大きな黒い車って隼人君の車?」

「……あぁ、サーフ? そうだけど」

「あれ、乗ってみたいな」結衣から隼人が車を買った事は聞いていた。

「いいよ、全然。最近乗っていないから、ちょうど乗ろうかなって思っていた所だし」

「本当? じゃあ、海見に行こうよ?」

「……海?」

「うん……例えば、鴨川とか?」

「鴨川? 結構、遠くないか?」

「いいじゃん。行こうよ?」

「いいけどさ、いつ行くの? 鴨川までなら、休みの日じゃないと時間作れな―――」

「来週は? 来週の休みは?」隼人の言葉を遮り、割って入った。

「来週は仕事が入って―――」

「調整してよー。何で休みの日に仕事しているの?」駄々をこね始めてみた。

「しょうがないだろう? 客の都合に合わせると、そうなっちゃうんだから……」

「そこはなんとか調整してよ……カレー食べたでしょ?」

「そっ、それを言うなら俺は、白飯持ってきただろう?」

「そうだけど……カレーライスの割合は、ルーの方が多かったもん」屁理屈で押し通そうとした。

「……っつ、わかったよ。なんとか調整する。行先は鴨川で、来週の火曜日で良いな?」ようやく折れた隼人は、渋々といった表情を浮かべた。

「うん」

「……そういえば、鴨川ってあそこの水族館で買ったやつ――」

「そうだね……あのキーホルダー」

「懐かしいな」

「……うん。もう三年前の話だもん」

 その場所は隼人と別れた場所であり、大切な思い出の場所だった。

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