軍艦島

長崎港から軍艦島に向かう船は、すごい揺れでした。

普段は船酔いをしない私でも気持ち悪くなってしまうぐらいで、家族で来ている小学生ぐらいの子供たちがあちこちでビニール袋に顔を突っ込んでいました。

白波が立つ海を眺めながら、「今日は上陸できないだろうな」と思いました。

港を出て30分で軍艦島の隣にある高島という小さな島に到着。この島にある石炭資料館で軍艦島に関する展示を見ながらレクチャーを受けたあとトイレを済ませ、もう一度船に乗って、いよいよ軍艦島へ向かいます。

さらに揺れは激しくなり、時折ピシャッと海水がかかります。

何度も写真で見ていた軍艦島が、いよいよ近付いてきました。


「えっ小さい!」

その名のとおり、島というより、まるで軍艦。

"軍艦島"というのはその見た目から名付けられた通称で、本当の名前は端島(はしま)と言います。端島はもともと、今の3分の1程の大きさの岩礁で、計6回の埋め立てを経てようやく今の大きさになったそうです。

東京ドーム1.3個分の小さな島に、所狭しと鉄筋コンクリートのビルが並んでいます。

あれが小学校、あれが病院、あれが住居、あれが神社…

船の上で説明を聞きながら、灰色の廃虚を観察します。建物同士の隙間は小さく、空中通路でつながっているところもあり、島全体が迷路のよう。

軍艦島に人が住んでいたのはわずか80年ほどですが、ビルの建て方から当時の勢いというか、活気が感じられました。

島の周囲はわずか1.2km。走れば10分程度で1周できてしまいます。この小さな小さな島に、最盛期の1960年頃には5300人もの人々が住んでおり、人口密度は当時の都心の9倍を超えたとは。信じられません。

私たちが乗る船が島に着岸し、いよいよ上陸せんというところで、「波の高さが規定を超えたため上陸は諦めざるをえない」とアナウンスが入りました。

満席の船内に「え~!」と落胆の声が上がりましたが、私は上陸するのがちょっと怖いような気分だったので内心ほっとしていました。

船内で解説を聞きながら、島の周りをぐるりと回ります。

今は人の気配もない廃虚と化した島も、半世紀ほど前までは日本産業を支えた5000人の暮らしがありました。

住居や学校や病院だけじゃなく、パチンコや映画館などの娯楽施設、毎年のお祭りもあったそうです。

同じ仕事をして、同じビルに住む。巨大な家族のような社会だったのでしょうか。

緑がない島なので、ビルの屋上に土を運び、屋上菜園を作っていたというのも驚きです。

細い路地と高いビルと入り組んだ通路を使って鬼ごっこをする子供たちの姿が目に浮かびました。

今回初めて、端島の近くにある中ノ島という小さな島の存在を知りました。中ノ島も炭鉱の島でしたが、端島よりも先に閉山しており、端島にはない緑が生い茂り、桜も植えられていたことから端島に住む人々の行楽地になっていたそうです。また、端島で亡くなった人の埋葬も、この中ノ島で行われていました。

エネルギー需要が石炭から石油に代わり、1974年には端島炭鉱の閉山が決定しました。閉山からわずか75日のうちに全島民が島を離れたそうです。

この島が故郷の子供たちは、その75日間、毎日毎日友達を見送ったのでしょう。ガイドの方が当時から使われている桟橋を指差して言います。

「40年前、この桟橋から誰からも見送られることのなく最後の住民が島を去り、無人島となりました」

ドラマチックだ...

閉山から40年が経ち、建物の劣化は進んでいます。今の姿を留めておくことは不可能であり、次に来たら違う姿の軍艦島になっているでしょう。

今回は上陸が叶いませんでしたが、また来る理由ができてよかった、と思いました。

さて、「軍艦島、どうだった?」と聞かれるたびに、「めっちゃすごかった」とバカみたいな返答しかしていない私。

でもそのひと言に尽きるんです。軍艦島で感じたことを表す言葉は、"感動"じゃないし、"楽しい"とも違う。

funnyじゃなくて、interestingの意味で面白かったです。

軍艦島という名前と外見、炭鉱の島であったという背景から、軍事設備の廃墟か何かみたいな堅いイメージがあったんですが、実際はそこに生身の人々の暮らしがあったこと。日本経済を支えているという誇りを持って働いていた炭鉱夫たちと、それを支える家族の日常があった活気ある島が、一瞬のうちに無人島になってしまったこと。

同じ日本にいながら、全然知らなかった人々の生活と歴史に触れることができました。

次回訪れた時に上陸できたら、軍艦島から見る長崎を見てみたいな。

#旅行記 #長崎 #軍艦島 #エッセイ #端島

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