秋臣、偽物の息子にゲイの苦悩を語る

「お父さん、起きて」
 縁側のガラス戸から朝日が射し込んでいる。重たい瞼をやっと開けると、叶人が顔を覗き込んでいた。完全に覚醒していない秋臣は一瞬この状況がわからずうろたえてしまった。
 この家での芝居の第一幕が無事に終わった安堵で泥のように眠っていたようだ。
「ああ、おはよう。眠れた?」
「朝ごはん作ったからおばあちゃんと一緒に食べようよ」
「え? 凪君が朝ごはんを作ったの?」
 最後まで言わせず、叶人は人差し指を唇に当てた。
「智夏だよ」
「あ、ごめんごめん」
 壁の時計は八時を指している。いつも七時には起きる母がまだ寝室にいるのは息子と孫をゆっくり寝かせておきたいからだろう。
 襖を小さく叩くと、寿美子はベッドに起き上がって新聞を読んでいた。
「あら、もう起きたの? 今日は土曜日でしょ。会社がない日くらい寝坊すればいいのに」
 口ではそう言いながら母が早く孫の顔を見たくてうずうずしているのが手に取るようにわかる。
「母さん、智夏がね朝ごはん作ってくれたんだよ。一緒に食べよう」
「えっ!どうして?かわいそうにお腹がすいてたんだわね。こんなことならさっさと起きて支度すればよかったわ」
寿美子は小走りで台所に向かった。
「あら、あら、あら!これみんな智夏君が作ってくれたの?」
「おばあちゃんおはよう!実は僕の趣味は料理なんだ。冷蔵庫のもの勝手に使っちゃってごめんね」
 テーブルには冷奴、焼きナス、ほうれん草の胡麻和え、春雨と胡瓜の酢の物、鮭の塩焼きが並び、香ばしい緑茶が湯気を立てている。
「おばあちゃん、座って座って。これからは僕ができるだけご飯作るからね!」
 叶人は心底楽しそうな顔で寿美子と目を交わし、ちらりと秋臣を見て小さくうなずいた。
「ねえねえおばあちゃん、昨日のぬか漬け、めっちゃ美味しかったんだけど、コツを教えてよ」
「あら嬉しいこと!パパと同じね。パパはぬか漬けさえあればそれでいいって言うのよ。やっぱり親子だわ。コツはね毎日必ず朝晩よくかき混ぜること。ほっておくとぬか床がすねちゃうのよ。それからぬか漬けの上手な方がいたら、そのぬか床を少しだけいただいて混ぜるといいのよ。あとで一緒に小かぶと胡瓜を漬けましょうね」
「うん! それから白和えもすっごく美味しかったから作り方教えて欲しいな」
 甘えた声で寿美子の顔を覗き込む叶人の横顔は祖母を愛する孫そのものだった。
「あ、そうだ。お父さん、ご飯の後でホームセンター連れてってよ」
「いいけど、どうして?」
「へへ、内緒内緒」
 叶人はいたずらっ子のように肩をすくめると、若い食欲を爆発させて二杯目の飯に取りかかった。

 家の近くにホームセンターは一軒もなく、車で二十分ほどのドライブになった。 
「ホームセンターで何を買うの?」
 叶人は「ふすま紙」とぶっきら棒に答えた。
「おばあちゃんの部屋の襖、破れてるじゃん」
 数年前にエアコンを取り替えた際、業者が誤って穴を開けたのがそのままになっている。秋臣も気づいてはいたが「そのうち」と思いながら放置していた。
「でも、張り替えなんかできるの? 専門の業者に頼んだ方が」
「何言ってんだよ。リメイクシートを上から貼ればいいだけじゃん」
「君は本当に気が効くね」
 秋臣はこの時初めて自分が「親孝行」という名の下にやってきたことに疑いを持った。欲しいものを買ってあげる、欲しくないものでもどんどん買って押し付ける、小遣いをあげる。母に対してやってきたことは、金があればできることばかりだ。それは自己満足でしかなかったのかもしれない。
 朝ごはんを作り、敗れた襖を直す。こういう些細な心のこもったことが、本当に母が喜ぶことなんじゃないか。
「君は偉いね。料理もうまいし。一体どこでそういうこと学んだの?」
「施設とバイト先」
 投げ捨てるような返答に、秋臣はそれ以上詳しく訊く気にはなれなかった。
 家からホームセンターに向かう道には信号機がほとんどない。長い年月を潮風に弄ばれて撓(たわ)んだ松の枝枝とその隙間からのぞく真っ青な海が続いているだけだ。叶人は流れ行く景色を見るともなく見ていた。
 すると突然松林の中からネイビーブルーのユニフォームを着た集団が走り出てきた。
「あ、僕の高校のバスケットボール部だ。懐かしいなあのユニフォーム。僕がいた頃と同じだ」
「ふうん、背が高くてそこそこイケメンで成績優秀で、バスケもできるって。さぞかし楽しい学生時代だったんだろうね」
「楽しくなんかなかったよ」
 秋臣は笑いながらため息を漏らした。
「自分がゲイであることに一番悩んで苦しんでいた頃だからね。好きになった相手にはもちろん告白なんかできないし、辛い日々だったよ」
言ってしまった後で、不思議な気がした。ゲイであることをさらりと口にするなんて今までの人生で一度もない。
自分が同性愛者だと確信したのは十六歳の時だ。その前から違和感はずっとあった。
中学に入った頃から、まわりの男子が女子に興味を持ち出しても、秋臣は何も感じなかった。しかし、その気持ちをつい態度や言葉に出してしまうと、「カッコつけてる」とまわりから反感を買ってしまう。仕方なく興味ある風を装っていた。告白されたら断らず、彼女が途切れることはなかった。
相手の望む場所でデートし、「好き?」と訊かれれば「好きだよ」と答え、「会いたい」と言われれば会った。そこに自分の望みはなかった。彼女なのに、一度も「会いたい」とは思わなかったのだ。そういう気持ちが相手にも伝わってしまうせいか、誰とも長続きしなかった。
会いたい、一緒にいたいと思う人間は別にいた。それはバスケ部の先輩だった。彼がコートを走り回っている時は食い入るように目で追い、その一挙手一投足が気になった。話しかけられれば嬉しさのあまり声が上ずり、シュートが決まった時のハイタッチは手が痺れるようだった。しかし、その浮き立つ気持ちには長い間名称がなかった。
 その思慕が何であるかはっきりとわかった時、秋臣は狼狽し、絶望した。これまで順調にきた人生がいきなり行き止まりになったような感覚だった。絶対に誰にも知られてはならないと思い詰め、気持ちを押し殺して、それまで以上に女性に興味があるふりをした。
 今でもバスケ部のユニフォームを見ると、秋臣の胸には苦いものがせり上がってくる。

 すれ違った学生達の姿が遠ざかって行った。バックミラーにはもうネイビーブルーの小さなかけらしか映っていない。
 叶人は気だるそうにシートに体を預けたまま、ため息をついた。
「誰かを好きになったことがあるって羨ましいよ。俺は施設を出てからは一人暮らしの女のところを転々と渡り歩いて居候させてもらってたんだけど、いつも家賃がわりに女と寝てたから、誰かを本気で好きになったことなんて一度もない」
 秋臣は、叶人のつかみどころのなさや冷たさのわけが少しだけわかった気がした。この美貌ならば、いくらでも居候させてくれる女はいただろうが、本当の居場所を作ってくれる女はいなかったのだ。

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