見出し画像

天国の愛犬

 シェットランドのラッキーが逝ってしまって四年五ヶ月、柴犬のしろが逝って二年三ヶ月。時が悲しみを癒やすと言うけれど、生々しい痛みが軽くなっても、深い悲しみは胸に沈んだままだ。
娘達が週刊スピリッツに連載してドラマ化された『4分間のマリーゴールド』に登場するしろは、我が家のしろモデルなのだが、連載中に突然死んでしまった。だけど、もう随分前から、いつ命が終わっても不思議はないというようなことを獣医師から告げられていた。目も見えず、耳も聞こえず、歩く時にはよろよろしていたのに頑張って生きてくれた。初連載が始まって、娘達が漫画家として食べていけそうなところまでちゃんと見届けて、旅立ったのだ。
 角田光代さんがお書きになった『任務18年』という短編がある。18年の任務を終えた猫が、衣を脱いで帰還した後、飼い主のさくらさんを視察するために一日だけ帰ってくるという物語。何度読み返しても涙涙……。
しろが逝ってしまって間もない頃のことだ。日暮れ時にベランダから家の中を覗き込んでいる小さな影があった。それは見知らぬ野良猫だったのだが、近所の顔見知りの野良猫達はそれまで庭の中にまで入って来たことはなかった。ベランダを覗き込んでいた猫を見たことも一度もない。そしてそれきり、その猫は二度と姿を現わすことはなかった。きっとあれは、衣を借りて視察にやってきたしろだったのだと私は思っている。
実はこのしろは二代目だ。初代シロは私が高校生の時に我が家にいた子で、もともと野良犬だったのが、いつの間にかうちに居ついた。家族のことが大好きで、賢くて、優しい犬だった。真っ白で、すごく大きくて、立つと私と同じくらいの高さになった。学校から帰ってくると、遠くから私を見つけて走って来て飛びかかり、私の両肩に手を置いた。私は五十年以上経った今でも、しろが坂の上からものすごい勢いで私の方に走ってくる姿を思い出すと、切なくて苦しくて涙が出てしまう。そんな時には、どうか今しろが幸せでありますようにと手を合わせて祈る。
下の娘にせがまれて我が家に迎えた茶色の犬に「しろ」と名付けたのは、初代しろを忘れられなかったからだ。
私と同じように、娘達もラッキーとしろを失った悲しみを一生抱えて生きていくのだろう。
ラッキーとしろはもちろん家族みんなの犬だったけれど、ラッキーは上の娘の係、しろは下の娘の係だった。
だから下の娘は、今でも毎日「しろに会いたい。触りたい」と言いながら、「エアなでなで」をしている。そのなでなでをしろは感じているだろうか。
上の娘は、二度と自分の犬は持たないと決めている。ラッキーはヤキモチ焼きだったので、悲しませたくないと言うのだ。そのラッキーは、ずっと具合が悪かったのだが、上の娘の腕の中で最期の瞬間を迎えた。娘の「ラッキー、愛してるよ!」と言う声を聞きながら旅立ったのだ。
しろとラッキーは犬種は違うがまるで本当の兄弟みたいで、とても仲がよかった。今きっと一緒にいるだろう。この家のどこかに……。そして、娘達がものすごく恋しがって、時折泣いている姿を見て、心配しているかもしれない。
つい最近、キャシー中島さんがテレビ番組でこんなことをおっしゃっていた。
「娘が亡くなって一月くらい泣き暮らしていたんです。でもある時ふと思ったの。もしあの子が私の今の姿を見たらどう思うだろうって。だから私は真っ赤なワンピースを着て銀座に出かけたの」
十一年前に、まだ二十代だったお嬢様を亡くされたキャシーさんは、自分が幸せでいることが一番の供養だと気づかれたのだ。それはペットも同じはず。
帰天した後に、一緒に暮らした人が泣き暮らしていたら「そんなに悲しまないで。見えないだけでそばにいるんだから幸せでいて。また必ず会えるよ」と一生懸命語りかけているに違いない。
私は時々、犬や猫は人間より偉いなあと思うことがある。未来も過去も思い煩うことなく、不平不満も漏らさず、痛いとか苦しいとかも言わない。
彼らは生きるための食べ物と飼い主からの愛があれば、それで幸せになれるのだ。一生ずっと飼い主を「世界で一番」愛し続け、飼い主以上に他者を好きになったりしない。そしてその時が来たら、ただ黙って虹の橋を渡っていくのだ。
もしかしたら神様は、人間の模範として犬猫を送りこんでくださったんじゃなかろうか。
しろとラッキーは私が外出してガレージに車を入れていると、二匹して尻尾をブンブン振って大喜びで出迎えてくれた。私は新婚の時でさえ、帰って来た夫をあんなに喜んで出迎えたことはない。
なんて愛おしい、なんて愛情深い子達だったのだろう。
その無償の愛に、私は何も返していない。ただただ受けるだけだった。
初代しろ、二代目しろ、ラッキー。
ごめんね。ありがとう。愛してるよ。いつかまた会おうね。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?