母の遺言

第十一章

 外に出たら、ビルの隙間を走り抜ける冷たく乾いた風の出迎えを受けた。
厚手のロングコートを着ている秋臣はさほど寒さを感じなかったが、犬養は「うわっ!」と叫んで、ベージュのトレンチコートの襟を立てた。
 秋臣はカシミアのマフラーを外して犬養の首に巻いてやった。
「えっ、いいんですか? ありがとうございます! めっちゃあったかい」
 犬養はその手触りを楽しむようにマフラーをさすった。
「さっきは嬉しかったなぁ! 商品開発から携わったのって初めてなんで。実際に店に並んでいるの見て感動しました! お客さんがレジに持って行った時、泣きそうになっちゃいましたよ」
 老舗のペット食品会社の企画が持ち上がった時、愛猫家の犬養はいまだかつてなく意気込んだ。猫の腎臓病予防に効果があり、しかも美味しく食べられるフードの開発に全力で取り組み、とうとう満足できる商品が出来上がったのだ。
「よく頑張ったな。休日返上で勉強して本当に偉かったよ」
 犬養は照れながらも、誇らしさが表情にあふれている。
「偉くなんかないですよ。私情も絡んでたから……」
 愛猫を早くに亡くしたと、犬養が言っていたことを思い出した。全ての猫に長生きして欲しいという気持ちが、彼の情熱の源だったのだろう。
「僕も経験あるんだけど、スタートは誰かのためであっていいと思う」
 犬養はみるみる目を潤ませた。
「本当によく頑張ったな」
 秋臣は犬養の背中をさすりながら心を込めてねぎらった。
「今日はあちこち回って疲れただろう。僕は会社に戻るけど、君はもう直帰していいよ。たまには早く帰りなさい」
「えっ、いいんですか? ありがとうございます! お疲れ様でした!」
  晴れ晴れとした笑みを顔いっぱいに広げながら、犬養はバス停に向かって走り出した。
 彼と反対方向に歩きながら、秋臣はしみじみと晩秋の街を見回した。
 ビル街の陰鬱な鉛色の空の下を、裸木の街路樹に沿って歩く人々は皆うつむき加減で足早だ。視線の先の地下鉄の入り口に仕事帰りの人々が吸い込まれて行く。見るともなく見ていたら、一人の若い男の後ろ姿が目を引いた。
「叶人……?」
 声よりも先に反射的に走り出していた。叶人は地下鉄の階段を降りていき、姿が見えなくなってしまった。
 秋臣は全力で走って、そのあとを追ったが改札口付近にその姿はない。震える手で切符を買い、ホームまでの階段を駆け下りた。
「叶人……叶人!」
 ラッシュが始まったホームを秋臣は人の群れをかき分けながら探しまわった。しかし、叶人はどこにもいない。やがて電車が滑り込んで、そこにいた乗客達が黙々と車内に入って行く。
 ホームに残された秋臣は遠ざかる電車の明かりを呆然と見送った。

 いつものようにマンションの近くのコンビニで買った弁当を温め、ほうじ茶を入れてテーブルに置いた。
 甘辛く煮た椎茸を口に含んだ時、ふと叶人が作ってくれたちらし寿司を思い出した。それは食欲がない母のリクエストだった。
 酢飯の上に飾られた目にも鮮やかな錦糸卵、甘い椎茸、エビ、絹さや。最後に叶人は手の平に木の芽をのせてポンと叩き、たちまち香りが立った。目をつぶれば、今でもあの香りが鼻をくすぐる。
 秋臣は半分ほど残した弁当を冷蔵庫に入れ、ノートパソコンを開いた。
「凪叶人」
 キーワードを打ち込むと、まっすぐにカメラを見据えた顔が現れた。先週まではなかった新しい情報が書き込まれている。来月放送の深夜ドラマに小さな役で出るという告知だった。
「頑張っているんだな……」
 叶人がまだ役者をやめずに続けていることが秋臣は嬉しかった。三人で暮らした日々がほんの少しでも彼に何か影響を与えたのだろうか。もしそうなら、こんな幸せなことはない。
 秋臣はパソコンの画面に手を伸ばして、叶人の頬にそっと触れた。
 
 十二月の街がクリスマス一色に染まり始めた。どこに行ってもジングルベルの鈴の音が聞こえ、道行く人達は皆どことなく浮き足立って見える。
 新年を迎える前に、秋臣にはしなくてはならないことがあった。想い出が詰まった実家の片付けだ。親しい親戚もいない独り身の自分に何かあった場合のことを考えて、家を売ろうと決めた。しかしあまりにも想い出が色濃くて、家の中に入ることさえできずにとうとう年の暮れになってしまった。
 家の中に入った途端たまらなく懐かしい匂いに包まれ、秋臣はその場に立ち尽くした。
 母が好きだったディオールの香水「ディオリシモ」、毎日飲んでいた漢方薬、最後の日までベッドの上で広げていた新聞、書棚の中の古い本達。壁も天井も、家具も、叶人が張り替えたばかりの襖も全てが一斉に思い出を語り始めた。
 秋臣は、それらに耳を塞いで、心を無にしなければならなかった。どうしても捨てられない物だけを段ボール箱に詰めていく。アルバム、母の結婚指輪、両親の位牌と遺影。自分のマンションに持ち帰る物は少ししかない。
 家具や電化製品は全て廃棄し、着物やバッグ、宝石類はいくつかだけ手元に残して葬儀に参列してくれた人たちへ形見分けとして送ることにした。手紙や書類の類をゴミ袋に詰めて行きながら、秋臣はふと何か大事な忘れ物をしてるような焦燥感にかられた。
 自分はもう人生を仕舞いにかかってる。四十六才という年齢にとって、老いや死はもうファンタジーではないが、死を待つには早過ぎるし、残された年月も長過ぎる。ざわざわと波立つ心を持て余しながら、仏壇の片付けに取り掛かった。
 父の写真に手を伸ばした時、その後ろに何か白いものが見えた。それは封筒だった。手に取ると見覚えのある文字が目に飛び込んだ。
「秋臣へ」
 表書きに書かれた自分の名前に、秋臣の胸が早鐘を打ち始めた。
 綺麗な和紙の封筒を恐る恐る破り、震える指で便箋を開く。まだペンの色も新しい母の筆跡が胸に痛かった。
「秋臣へ
 この手紙をあなたが読む時には、母さんはもう父さんと会えてますね。短い結婚生活だったけど、本当に幸せでした。またその幸せの続きが始まるのです。だからどうかあまり悲しまないで。あなたが泣いている時、母さんはもっと泣くし、あなたが笑っている時はもっと笑っていることを忘れないで。
 母さんには分かってました。あなたが人生の選択をする時の基準は母さんで、自分の幸せは二の次だったことを。大学も仕事も結婚も。最後の最後まで母さんのことだけを考えてくれましたね。
 これからは何にも縛られないで欲しい。母さんにも世間にも。自分の望みに忠実に生きて下さい。今度こそ、本当に好きな人と人生を共に歩んで欲しいのです。どんな選択も父さんと一緒に天国から見守っています。
 智夏君と三人で暮らした日々は人生で一番幸せでした。智夏君が作ってくれた卵焼きは、今までに食べたお料理の中で一番美味しかったです。心優しく家族思いで、寂しがりやの智夏君が大好きでした。あの子が誰であっても本当の孫だと思っています。
 あなたに望むことはたった一つだけ。幸せになって欲しい。
 あなたは母さんの誇り、生きがい、幸せの源でした。ありがとう。本当にありがとう。またね 母より」
 何もかも、何もかも母さんは知っていた。胃の腑から塊のようなものがこみ上げ、涙になってふき出した。うめき声とも叫び声ともつかない声をあげながら、秋臣は嗚咽(おえつ)した。今まで身体中に溜まってパンパンになっていた涙が頬を伝って流れ落ちていく。母が残してくれた愛と免罪符を胸に抱きながら、秋臣はただただ泣き続けた。
 ふと庭に目をやると、窓の外にチラチラと白いものが見えた。今年初めての雪が何かを語りかけ、まるで急き立てるかのように降り落ちてくる。心が強く強く揺さぶられて、居ても立っても居られなくなった。
 秋臣は封筒をつかんで外に飛び出した。耳の奥でずっと母の声がこだまするように聞こえていた。
幸せになってね。幸せになってね。幸せになってね……。


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