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どのように死ぬかは、どのように生きるか。

子どもの頃から「死」が、怖かった。
「無限」や「永遠」が、怖かった。

それがほんの小さな虫や小動物であっても、その命を失った瞬間から触れられなくなる。恐怖に支配されて身動きとれなくなる。
体調の悪い時に見る夢はいつも同じ。果てしなく永遠に繰り返される、無限の世界だった。

子どもの頃。死を恐れるがあまりに。
その恐怖を終わらせるために、自分で終わりを決めたい、全てを終わらせてしまいたいと考えたことは、一度や二度では無い。

子どもの頃の囚われから、逃げるように避けてきた「死」に。
否応なしに、直面する機会が増えた。
深く関わらせていただく場面が増えた。

先立った家族、親類との別れ。
友人や知人との別れ。
縁あって出会い、関わらせていただいてきた、大切な利用者様との別れ。

最期の瞬間は、いつも怖い。
幾たび、看取りを重ねても、決して慣れることはない。
大宇宙の海原に投げ出されたような無力感と。何か壮大な存在に対する畏怖と。悲しみを超えた喪失感と。
その方の人生の最期に、立ち会わせていただけたことへの深い感謝と。

別れを重ねるたびに。
生きることの意味を考えるようになった。
自分はどう死ぬのか、どう死にたいのか。考えるようになった。

思いがけない別れが続いて。言葉にできない喪失を重ねて。
それが大切な人や、同世代の友人であれば、なおさら。
心にたちこめた深い靄の中で、沈んだまま浮かび上がれないような気持ちになった時。

歳を重ねた人生の大先輩方との会話や、その生き様に、いつも救われている。
「老い」も「死」も、誰にでも平等に来るからいい。と。

わたしはまだまだそこまで悟れていない。
「死」は怖いし。「永遠」はもっと怖い。

いつも「死」について、「終わり方」について、考えている。
別れはいつ訪れるかは、誰にもわからない。
会いたい人には会っておかないと、行きたい場所には行っておかないと、と思いながら。
今の世情の中では、そうも言えず。
日々を生きることの意味を考えている。

どのように死ぬかは、どのように生きるか。
死ぬことを考えるのは、生きることを考えるのと同義だ。

尊厳死を考えることは、尊厳生を考えることだと思う。

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