いつまでそれをダメだと、できないことだと思い続ければいい?
勉強ができるできないって
ほんとそれ
どっちでもよくて。
知りたいことは
どうあっても
自分で調べるし、
読めなきゃ
これ使うと読めるんだよって
勝手にアプリ引っ張って読んでる。
あるいはなんとなくなニュアンスで
勝手に読んでるけど
案外そのほうが
らしい読み方してる気がする。
書いたら子どもっぽい字でも
それでいいと思えば
平気で大人が
それも保護者という名のつく
大人向けに読むものに
書いちゃってるし。
もっときちんと書けば?
と思う大人の私より
いやそれ
デザインだよねぇって
思っちゃう本能の私がいるのよ。
って、
こんなこと
こんなやり方
誰も教えてないし。
それをなんとか
できるように
みんなと同じに
できるようにって
考えてあげることは
本当大事なことだけど。
それを本人がやりたいのか
やりたくないのか
興味があるのか
興味がないのか
それはまた別の話という
気がしてるんですよ。
ただそうあることを
それでいいねと言ってあげるだけで
その子はちゃんと
自分の持っている本能で
あれこれ掴み取っていく
そんな強さは持ってるよ。
やり方なんて構わないで
いいぞいいぞ
それ、そうやりたいなら
いいんじゃない?
本能でグイグイと
枠にとらわれなければ
いくらでも
その子がやりたいと思うことって
できるんじゃないかな。
美沙が小1の頃、
指を使って計算していたんだけど、
その指の動きが綺麗でね。
それを直されちゃった時
お母さん、指使わないで
できるようになりましたよ!
と言われて、
ああ、成長したんだなって
ニコニコしながら聞いたけど
心の中では
えーーー。
あの指の動き
もう見れないのかって
めっちゃがっかりしちゃったこと
ふと思い出した。
今見てるできない現実は
その子にとっての
最高潮の成長というひとときで
また何か自分にとっての
刺激を見つけたら
そこからまた
自分を成長させるために
あーだこーだという
どうでもいい外野の声なんて
届かないところで
ちゃんと成長していくんじゃないかな。
誰かの声に押されて
やったものより
自分の声で
やったものの方が
その人らしさって
ちゃんと
出るものなんじゃないかなって。
私はこれまで書いてみて
作ってみて
そこがわかった気がするし、
それは娘の眩しい成長を
こんなにも
日々容赦なく
見せつけられたからこそ
それが私にとっての刺激となり
私自身の成長となった気がするの。
全くもって
みんなと同じように
学校では評価されなくても
ちゃんと自分の居場所は
自分で時に戦いながら
自分に負けることなく
勝ち取って行ったもの
なんだよね。
でもそれは
そんな評価という
基準がある学校という世界を
知ったから、
なんだよね。
できないこと
わからないことを
いつまで下に見ればいいんだろ。
もっともっと
大人がその視野を
考える時が来たんじゃないのかな。
大人がそれやらないから
子どもは生きづらくなるってより、
大人を生きやすくするために
子どもはそれを
大人がつけた発達凸凹って
わかりやすいラベルで
それやってんだよって
思うのよ。
だからこそ。
大人はどうなんだい?
それ、ちゃんと自分で考えて
出した答えなのかい?
誰かの答えを
いつのまにか
みんなはそうだからと
それを
自分が出した答えだって
思い込んでないかな?
常にそう言われてる気がするの。
発達凸凹って
そんな簡単に
まとめてんじゃないよって。
人はそんな単純な世界
見てないんだよって。
もっともっと
すごいデザインで
それぞれ人は
自分の人生生きてるんだよってさ。
ハンデがあろうとなかろうと。
子どもだろうと大人だろうと。
勉強の出来不出来以前に
その人が持ってる頭脳以上の
本能がそうさせるんだよ。
ええ。
私が今走らせてるこの指。
文章を書くってこと、
手縫いであれこれ縫うってこと。
これもまさに本能で
やっちゃってることだし、
やればやるほど
研ぎ澄まされていくわけで。
ほんとはさ、
文章書くなら
体裁整える、
人に伝わるように、
そう思うと
きちんとした形を知ったほうが
いいのかな、と
ふとよぎるんだけど、
んまぁなんせ
何かで習う、
そんな枠に入れるとどうしても
その枠ばっかり見て
大事な本能置き去りにしちゃうから
やらないほうがいい。
書きたいように書いたらいいさ
という結論にやっと
辿り着きましたの。
でさ、
こんなこと言えないって
自分はダメなんだって思ってる、
そんなぎゅっと握りしめてたもの、
それ=本能がやらせることが
案外自分の魅力だったりするよね。
自分を強く突き進ませる
そんな武器だったり
原動力だったりするんだよ。
ってものを今見せてもらってて。
本能ってすごいんだよ。
無意識な本能=感覚と
自分でできると思ってることが
乖離してりゃ
そりゃ戸惑うんだよ。
自分が思ってるほうが
絶対って思っちゃうからね。
だから、そんな本能に
名前つけてあげりゃいいのよ。
私その本能で
ずーっと生きてきたって
気づいたらもう最強よ。
ってわけで最近
大きなお友達と
小さなお友達ができました。
小さなお友達は本能のまま
ばりっばりに生きてる
私のお手本のような子です。
だから友達に歳なんて関係ないよ。
この子、友達いないんです、
あるいは
この子の先行き心配ですなんて
思わなくていいよ。
お友達になってくれる
そんな大人がすぐ隣に
いたりするんだよ。
もっともっと
大人がそれを
一生懸命考える。
ほんとにそうなのかなって。
私の本能って
なんなんだろうかって。
わからなかったら
人を頼ったらいいよ。
この人の言ってること
なんとなくわかるなぁって人がいるなら
聞いてみたらいいよ。
専門家じゃなくてもいいんだよ。
そんな中の1人に
私はいます。
いろんな人と
お話ししたいのです。
こんなお話もどうぞ。
今日もここまでお付き合いくださり
本当にありがとうございました。
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