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我が子の発達障害と母にとってのアイデンティティーと。

我が子が我が家から自立した。

さんざんやり切ったからこそ、ふと、あー寂しいじゃんねぇって思う1人暮らしの家からの帰り道。

でも、本当に終わった。

まさかこんな形で自立していけるなんて、まったく思いもよらなかったそんな日々よ。

そもそも、一人暮らしなんてできるのか?そう思っている日々だったから。

でね。
私にとっての本当の子離れってなんだろうかと思った時。

出てきたのはね。

「この子は発達障害だから」というある意味私自身が美沙に対してずーっとかけていた眼鏡をはずすこと、なのかもなぁ。


まだまだ小さかったころ。診断すらされていなかったけれど、この子は発達障害なんじゃないだろうか。どう見ても普通の教室でみんなと一緒に過ごすにはきついという、そんな日々を見ているとね。

「この子は発達障害という世界で生きている」
出来ないことがあったり、困ったことがあったりすると「この子発達障害だからね」って思っちゃう。

なんならそれ無理ですーって、美沙が思う前に思っちゃう。

「発達障害」という言葉を通して、いろんな角度から娘を見てきたのだけれど。

まだまだこの状況が受け止めきれなかった頃。
もしかしたら、この子はまわりの子とは違う、そこに「発達障害」という言葉が加わったことによって、あーよかった。
美沙のできない、わからない、みんなと違うそんな理由が「発達障害」という言葉で納得できること。
なんでわかってくれないんだろう。
うちの子「発達障害」だから大変なんです。

母として、いろんな局面でそれを持って戦ってきた日々もあったから。

なんなら私を守る盾とすらなっていた、そんな美沙の発達障害。

そうかそうか。
私の育て方が悪かったわけじゃない。
そう思えたことも大きかったし、発達障害という言葉があったから迷わず選択できたこともあった。

ある意味「発達障害」という言葉にどれだけ救われて、前に進む原動力をもらってきただろうかと思ったわけ。

美沙が持って生まれたもの。
1人の人間が生き育っていく、めちゃくちゃ逞しいものをそんな視点から得てきたからこそ。

まさにこれは、自分で発達障害を持っているって表明したおかげでいただけた恩恵。↓

なんなら私も、そんな面を持ってるよねぇ。
自分がそんな子どもだと思ったからこそ。

なーんだ。私が悪かったわけじゃなく、そうか、こんな視点があったから苦しかったんだなぁって納得できたことが本当に大きかったんだわ。

でもね・・・
もちろんそれは本当に大事な視点だったし、必要な視点だったからこそ今があるんだけど。

ここまで育ってみると、ほんとにそこなのかな?と思う自分もいるのです。

え?わざわざそれを「発達障害」だと声高に言う必要なんてあるのかな?

単純に、困ってるから、じゃ、どうしたらいいかなって言うだけでいい場合が往々にして世の中にはあったりするし。

そこにわざわざ発達障害ってつけなくてもよくない?
わざわざ線引きする必要なんてなくない?

イヤ・・・困るんだよ。
ほんと、場所によってはね。
美沙が困ってることはある。

だから何が言いたいってさ。
それは発達障害ですって思う、決めるのはその当事者でいい。ってことかなぁと。
さんざん我が子を見て、そういう世界があるんだな・・・は、結局わが子のパターンでしかなく。
そしてそんな私にできるのは、見た雰囲気で困ってる人がいるなら、何かお手伝いしましょうか?と聞くことくらいなのかなぁと。

え?こんなことで?と思わないことなのかな。

純粋に、単純に「困っている人」だけでいいんじゃないのかなって思うのです。

目の前の人をあれ?この人特性出てるけど・・・という視点を自分の中で言い訳にしないこと、なのかなぁと。

そしてその困っている人が、本当に深くて大事な世界をその視点でみてるということに敬意を払うことなのかな。

ほんと、美沙が発達障害だというもので見ている私の視点は愛にあふれたアイデンティティーだったのよ。
だから、それを手放すことが本当に寂しいものだったんだなぁと思うこの数日。

でも、私が持っているそのアイデンティティーはもういらないほどに、美沙は美沙で自分の世界をたくましく生きている。
まさかそんな日が来るなんてねぇ。
思いもよらなかった、あの頃想像すらできなかったそんな今。

美沙はパラリンアーティストと堂々と名乗りながらも、できないことはできないと障害を言い訳せず、でも時にそんな力を借りて、いろんな人に助けてもらいながら自分のできることは頑張ってやっている。

できることもできないこともあるからこそ。

そして、それは私自身もきちんとそこをしっかりいろんな方の力を借りながらやり切れたことだったのかなぁと思ったりする。
とてもじゃないけど、1人じゃ成し遂げられなかったことだから。例えそこでうまく分かり合えなかった人がいたとしても、そんな人ですらもおかげさまで今がありますと言えることになるのだから。

だからこそ。
我が子の発達障害で悩んでいるというお母さんがいたら、どんどん表にそれを出してほしいなと思うのです。

1人で頑張る必要は、ないの。

その葛藤こそが、先々の自分のゆく道を照らしている、そんな力強い原動力となっているはずだから。

そんなあなたは本当はめっちゃ逞しくて伸び代のあるお母さんなんですよ。

過去の私がそうだったように。

そんなお母さんが世の中増えたら、変わっていくだろうし、子どもの選択肢ももっともっと増えると思うのです。

一緒に成長しませんか?

こんなYouTube撮りました。
よかったらみてみてね。

いろんな方向からお母さんを語り合う人。
発達障害という概念をお母さんという存在から語る人。
大変をいろんな角度から語る人。

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