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5月に活動を終えるはなし

あけましておめでとうございます
お互い、今年も素敵な一年を過ごせますように。

そんなベタな言葉で新年のご挨拶とさせていただき、活動終了の件につき詳細を待ってくださっている方が多くいらっしゃるとのことで、早速赤裸々にお話をしようかなと思います。

"ですます調"と"だである調"を混ぜながら、いつも以上に自分の言葉そのままを出力できたらと思っていますので、読みづらかったらすみません。

まずは発表の経緯から。

これを読んでくださってる方はご存知の方も多いと思いますが、昨年12月26日Instagramの投稿にて

"きょうりゅうたろうの全ての活動を
2023年5月をもって終了する"

ことを正式に発表させていただきました。


特段、私事で驚かせるつもりはなかったので、自分なりに事前に2回ほどクッションを挟んだつもりでした。1回目はストーリーの一文にさりげなく「残り一年足らずの活動期間の中で」と文章にいれ、2回目は正式発表の内容にほぼ近いものをストーリーで流していました。

それらの時も沢山の反響をいただきました。
そして今回正式発表させていただいた際も、想像以上にみなさんからメッセージをいただけたこと驚きました。そして「寂しい」「やめないで」って、これ以上ない褒め言葉だなと思っています。
本当にありがとうございます。

そもそも、趣味で創作活動をしているただの一般人が、活動の終了をわざわざ"発表"なんて大袈裟なカタチにする必要があるのか。事後報告的に活動終了を伝える「打ち切り」のカタチや、しれっといなくなる「自然消滅」の方法など、いろんなカタチを考えました。
わざわざ大々的に活動終了を発表するよりも、上記のような形の方が、どこか未練から生まれる希望みたいなものもあるんじゃないのかなとか、そもそも誰も僕の活動終了云々に興味すらないんじゃないのかと、たくさん悩みました。

そんななかで大きな転機となったのが"デザインフェスタ"への出展でした。

わざわざ時間とお金を割き会いにきてくださっていること、作品やグッズを買ってくださること、当然当たり前じゃないと知りながらも、すこし自分を過小評価しすぎていたというか、応援してくださってる方にも失礼だなと思ったいい経験になって。

というのも、デザフェスの数週間後に、地元名古屋で"クリエイターズマーケット"というデザフェスの東海地方版のようなものがあり、そちらに出展者側ではなくお客さんの立場で来場して。

日程をわざわざ開けて、事前に入場チケットを購入し、差し入れを買い、交通費を払った上で入場してブースへ向かう。その上でさらにグッズや作品を買ってくださったり、会いに来てくださること。
知ってはいたものの、お客さん目線に立った時に改めてその凄さやありがたさを痛感して、応援いただいている自覚をもっと持たなければ失礼だと身を染みて実感しました。

そこで打ち切りエンドや自然消滅エンドという道は、いいところもあれど、きっと不誠実であると思い、事前に発表するカタチとなりました。
「自分如きが」とかそんなことはこの際どうでもよくて、そんな自分を応援してくださる方と真剣に向き合った結果、残りの時間を一緒につくり上げたいと思うようになりました。

残り時間を作り発表をしたからには、きちんとやりたいことをやって、自分の思い描く最大限の集大成を実現させて、応援していてよかったなと思っていただきたいと思っていますし、実際それに向けて現在着々と準備をしています。

ただ、なんの後悔も未練もなかったら、あまりにも清々しすぎて寂しいので、少しの悔いと未練を残して活動を終わらせたいなと思っています。

行動しなかったら絶対悔いが残るなと思い、とある大好きなアーティストさんにダメ元でコンタクトをとらせていただき、展示への出演の交渉をさせていただきました。たくさんのインスピレーションと影響を受け、きょうりゅうたろうには欠かせないアーティスト様でした。お忙しい中真摯に対応していただき、結果は残念ながら難しいとのことでした。
ただ、ありがたいことに一作家として向き合ってくださったこと、とてもうれしかったです。同時に活動をもっと続けていって大きくなれればもしかしたらお仕事を一緒にできたのかな、という1パーセントの未練も残すことができて…。これからも引き続き応援しています。

そんなかんじの悔いをこれからもきっと、いくつかずつ残しながらただただ走るので、引き続き温かく見守ってください。そして一緒にきょうりゅうたろうの終わりを共に作っていただけたら、何よりも嬉しいです。

むにゅ

さて少し脱線しましたが、次は核となる、終了を決めた経緯をお話ししたいなと思います。
それにはこの活動を始めたきっかけと理念、中の人の性質から全てお話しをする必要があるので、そこから遡っていこうと思います。

2020年3月に大学を卒業し、4月に新社会人として入社しました。これがちょうど初の緊急事態宣言と重なり、いわゆるコロナ世代と呼ばれる世代となりました。

元々幼い頃から何かやりたいことがあるわけでもなく、高校は部活すら(厳密には1年は強制で入ったが速攻幽霊)入らなかった。
そんな中、進路面談で高校教師に「将来の潰しが効く」と勧められた学部に指定校推薦で進んで、その進んだ大学で敷かれていた公務員講座のルートに乗っていたら辿り着いた就職先。
ルートに乗ればある程度の努力は報われる。ルートに乗っていれば不正解ではないはず。だからそれなりに勉強はしたし努力はしたつもり。説明会には何度も参加し、自分はここで働くべきだ、ここに行きたいのだと言い聞かせた。
何のために頑張っているのか、なぜ働くのか、そこからは目を逸らし、ただただ目の前の試験だけを突破した。それゆえ就職先に受かること、それがゴールになっていたのかもしれない。よく面接で、あんなにも思ってもいない言葉をつらつらと並べて、元気よく笑顔を浮かべ、A判定という結果を貰えたなと思う。世の中ってこんなものかと改めて絶望した。

そんな就職先に辛うじて見出していた魅力であった、三ヶ月の合同実務研修はコロナの影響で中止となり、自宅での学習を余儀なくされた。同期とのつながりや三ヶ月集中して実務経験が積めることに魅力を感じていたのに、だ。
映像の退屈な講義が延々と続く日々と、周りの同期との繋がりのなさからくる自分の立ち位置の不明瞭さ。不安はつもるが無情にも時は経ち、研修が終わった翌日には各配属先へ出勤となった。

コロナ禍で例年にはないイレギュラーなタスクがほとんどを占め、それは先輩方も経験のない作業で。うちは教育担当は付かず、ただ1人配属された僕は居場所もなく、ただがむしゃらに流されては、昼休憩は仕事を押し付けられないよう逃げるように会社を離れ、また午後はがむしゃらに流される、そんな日々をすごしていた。

何のために働いているのか、それは働かなければならないから。なぜ働かなければならないのか、それは憲法でそう定められているから。図書館で開いてみた本には、生活のため、生きていくため、そう書かれていた。

そもそも生きたいと思わない。
思ったことがない。

それが一番の本音だった。

ここから少し中の人のお話で、なかなかショッキングで生々しい内容かもしれないので、共感力が強い方は飛ばしながら読んでください。

いつからだろうか、人生だとか、将来だとかそういうものに希望は抱かなくて。いつからというよりかは、そんなことを抱いた記憶すらない。

"自分"というものに生まれてしまった事実に気づいた瞬間に生まれた"嫌悪"。それと共に覚えた"絶望"が永遠に消えない。今も。たしか小学生の4年生ごろの話だったと思う。

死にたい、消えてしまいたいと思わなかった日が果たしてあっただろうか。

普通って何だ、普通なんて本当はない、みんないろんな軸からなる座標に立っていて、その座標は人の数だけあって、グラデーションで。だからみんながみんな違う。多様性から成り立っている世界。
そうとは頭でわかっていながらも、どうしても大まかには括ることができるし、普通に生まれたかった。普通だったらもっと楽に生きられた、生きたいと思えた、普通でない自分は受け入れられない、そう自分が自分を差別していた。

そう生まれてしまった、だから仕方ない。そんな結果論で簡単に割り切れるような人に生まれればよかった。周りの友人を見てそう思うことがある。

なんで自分が嘘をついて生きていかなければならないのか。いや、自分が望んで嘘をついている。騙している。でも嘘をつかなきゃ壊れてしまう。友人や家族の不意な言葉に傷つき、それに嘘で返し、自分で自分を傷つける。でもそれが自分だと言い聞かせた。

社会に出てから、学生って身分はすごいなと思う。特別何も考えなくてもただ毎日を過ごしていれば身分が保障されていたのだから。
そりゃあもちろん考えなしになんて過ごしてはいなかったが、それでも学生時代だってずっとずっと辛かった。自分が嫌いで嫌いで仕方がなくて、自己肯定感が低かった。
外面は良かったが家庭内では思春期という言葉では片付けられないほどに荒れに荒れた。特に中高生は酷かった。説教で父親に頬を叩かれ、打ち所が悪く出血した血を腹いせに壁になすりつけてやったこともあった。自分というものから離れたくて、衝動で警察のお世話になったこともある。迎えにきてくれたときの両親の顔は忘れられない。

そんな自分にとって誰かのために何かをする瞬間だけは大切だった。誰かに頼られたい、必要とされたい、そうすれば自分が今ここにいる意味があるのかもしれない、次第にそんな思いで誰かに尽くすことが増えていった。頑張って誰かが喜んでくれることで、承認欲求が満たされ、そのときだけ少し自分のことを許せた気がした。
そうして世間の目を気にする、八方美人で面白みのない都合のいい人間が出来上がった。そんな自分は嫌いではなかったが、演じるのにも体力が必要だった。

社会人一年目、仕事を進める中でもその気持ちはかわらず、迷惑をかけたくない、役に立ちたい、気の利く人でありたい、そう思い過ごしていた。でもやはり新人だからそりゃわからないことだらけで。自分の在り方が次第にわからなくなっていった。
長男に生まれ年下の面倒を見るのが得意だったし、頼られることしか経験がなかったから、歳上に対して上手い甘え方がわからない。歳上からは褒められてなんぼで、可愛がられる距離感なんてわからなかった。自分がつくってきた自分に首を絞められた。

そして仕事内容も自分にとっては厳しいもので、わからないながら努力しても、仕事柄、怒られたり睨まれることばかりだった。もちろんそんな仕事だと事前に知っていたし、仕事は仕事と割り切れる自分だと思っていたが、実際にはそんなことはなく、休みの日も仕事のことをぐるぐると考えていた。努力に対して自分の欲している結果や反応が返ってこないことが次第に辛くなっていった。

職場の悪き風習やコロナによる影響も重なり加速していくばかり。新人は朝一に職場につかなければいけないから出勤時間の1時間前には着かなきゃいけなくて、職場までは片道1時間半以上ある。新人が率先して帰るわけにも行かないから周りの様子を見ながら頃合いを見て帰って、家に着いたら体力が持たずすぐ寝て気づいたらまた朝が来る。
気が狂いそうだった。そうして日々の希死念慮は拍車をかけて深刻な状況になっていった。

小学生からの根深いそれは日に日に増していくばかりで。今までの人生、"生きていてよかった"と思ったことは何度かあれど、"生まれてよかった"と思ったこと一度もない。

「生まれたくなかった」と親の目の前で言って、「よくそんなことが親に向かって言えるね」と言われて、「勝手に産んだのに被害者ヅラするなよ」「理想の家族ごっこできて楽しかった?俺は苦しかった」と返したこともあった。
「息だけしていてくれればいいから生きて欲しい」とか言うけど、息をするのにもお金がかかる。お金は湧いてくるわけじゃない。じゃあお前はおれが息ができるよう養ってくれるのか?その覚悟があっての発言なのか?無責任な発言はするな、と親身になってくれた友人に八つ当たりしたこともあった。

反省はしているけど、残念ながらどれも本音で。

当時は常に仕事のことが頭をよぎり、食欲はなくなり体重は46キロまで落ちてしまった。職場を休職する直前は、全く集中できず頭が回らないし、同じ文章を何度なぞっても頭に入ってこなかった。
あまりの自分の不甲斐なさにトイレの個室に駆け込み涙が溢れ止まらず、嘔吐もした。常に動悸がひどく、職場の最寄駅が近づけば帰りたいという言葉で頭がいっぱいになった。朝からうまく声が出なかったり、昼には職場にいると業務外にも関わらず電話を取らなきゃいけなくて丸々休みが潰れてしまうから職場を飛び出し、雨の中、公園のベンチに座りおにぎりを頬張りながら泣いたのを覚えてる。

両親も流石に気付き心配をしてくれて、第三者の見解を仰ぎたいと思い、急遽クリニックの受診に至った。結果はもちろんうつ病と診断された。

そんな時期、大学の友人とご飯に行き、何気ないやりとりでInstagramのアカウントを作ることになった。それがのちのきょうりゅうたろうとなる。
ことの経緯は、仕事しんどいよなとお互いに話している中で、何か新しいことができないか、そんなひょんな流れでイラストのアカウントを作るという話になったのだったと思う。

その初投稿が2020年9月3日。

言葉にできないマイナスな感情を絵で表現するためにキャラクターを作った。それがいまの"がお"。

「なんで恐竜なんですか?」とよく聞かれる。
実は正直な話、そんなに真面目にきちんと決めたわけではない。当初からこのアカウントでは人間を描くつもりはあまりなくて、それは人間のキャラクターだと感情表現が簡単だから、表現の幅が狭まりそうだと思い、一つ縛りを設けたっていうのが建前。本音は、上手い下手が露骨に出てしまうから。

そこでキャラクターの対象は動物に絞られて、マイナスを主に描くならギャップが生まれる獰猛な動物がいいと思った。候補はライオンやサメだった。そんな中で思い出したのが『おまえ うまそうだな』というティラノサウルスとアンキロサウルスの関係を描いた絵本。

https://www.ehonnavi.net/sp/sp_ehon00.asp?no=3735&spf=1

恐竜をモチーフに持ってきた大きな所以はここからきている。特段恐竜が好きだったわけでもなく、そんなこんなで選ばれたのがただ恐竜だった。

きょうりゅうたろうという名前は、"う"で韻を踏める、ひらがなが好き、○○たろうという名前をよくニックネームで使っていたことから。
よく聞かれるけど本名は太郎ではない。
サインを書くと"う"がポイントとなり、それはありがたいことに褒めていただくことが多い。

そんなこんなでゆるりとはじまった、きょうりゅうたろうとしての活動。
活動当初は高校時代から変わらない手法で携帯のアプリで指描きをしていた。当時は通勤時間に描いていたものだから、ざっくりとしか作っていなかったキャラクターデザインも描けば描くほど洗練されていき、恐竜なのに口がなくキバもない、表情に乏しく難しいキャラクターが出来上がった。

きょうりゅうたろうという活動を始めて一ヶ月後の2020年10月8日、朝起きたら体が動かなくなり職場を休むという選択をとり、そこから長い休職生活を経て、昨年2022年の5月に退職に至った。

休職して2週間は38度を超える高熱、一ヶ月は1日中寝込む生活が続いた。コロナの抗原検査、PCR検査はともに陰性だった。体が悲鳴を上げてくれたから一歩踏み止まれたのかもしれない。ただこのままいっそと思ったのも事実だ。

休職をしてからは自分と向き合わざるを得ない時間が増えた。なにせ日中やることがない。なぜ生きているのか自問自答を繰り返す日々。
「幸せについて考えはじめたら幸せになれない」
と誰かが言っていた。

気持ちの浮き沈みは激しく希死念慮も波のように押し寄せて、「クローゼットでの首吊りは家の資産価値が下がるからしない」「飛び降りもマンションに迷惑がかかるから同様」「電車や車への飛び込みは他人への迷惑やなにより家族に損害賠償がいくから却下」そんなふうに理由をつけてはできるだけ死から遠ざかるよう意識していた。我ながら偉い。でも自死事態が否定されるのはどうなのかなとは思っている。時間が経つにつれ、考えを放棄するために睡眠に逃げることが増えた。

ただ、休職して、退職してよかったこともある。
事実上社会からドロップアウトしたことで、世間体への諦めがついた。あれだけ田舎の親戚からチヤホヤされた肩書きも何もない。"やらない後悔"よりも"やる後悔"の方がいいなと思えるようになれたのはきっと良いことだったと思う。そのスタンスできょうりゅうたろうの活動も進めることができた。

私生活で何をするわけでもなく、ただ残された居場所となったきょうりゅうたろうという人格は、次第に自分にとって核となるような立ち位置となる。

それと同時にきょうりゅうたろうとしての活動イメージもだんだん湧いてきて、俯瞰して見たときに、いちプロジェクトのように見えるようになった。このときからいつか"おわり"が来るんだろうかとなんとなく感じていた。

本格的に活動を始めるようになったのが2021年5月ごろの軽美術部の面々との出会いと、同年8月のいなげくんが名古屋で開催した『あおいな展』が大きかった。どちらも表現したものを他の人にも見て欲しいという気持ちを大きくさせてくれたとても大事なポイントだった。

きょうりゅうたろうを通して作家の友人も増え始めたとき、当初は会うことはないとよく言っていた。顔にもコンプレックスがあったし、何より自分が嫌いだった。でもやがて、それを通り越して会いたいと思える人たちに巡り会えたし、オフラインで作品を見てもらえる嬉しさや憧れは次第に大きくなっていった。

そうして徐々に展示に出展するようになり、去年の5月の退職を機に、利益の発生する活動ができるようになり、より活動は本格化していった。きょうりゅうたろうというコンテンツやプロジェクトを進めているという感覚が強かった。

ただ、きょうりゅうたろうはイラストレーターではなく、あくまで表現者であり作家。名刺にもイラストレーターではなくイラストレーションと記載している。感情から生まれる、言語化できないものの表現をただ絵に出力しただけ。別に絵が特段好きなわけではない。もちろん楽しいと思うときもあるが、今後描けなくなったとしても別に困ることはない。文章を書くことも好きだし、話すことも好きだ。動画や写真も好む。
要は感情を表現すること自体がきょうりゅうたろうの活動の核であり、絵は一つの表現手段にすぎず、言語化できないもの、書けないものを描いている、ただそれだけのツールでしかなかった。
それが周りの作家仲間らとの一番の差だった。そしてギャップやプレッシャーの一つにもなっていった。

自分には勿体無いほど魅力的な作家仲間に恵まれている。こんな自分と同じ場所に立って話してくれる。ありがたいことに活動の規模が大きくなるにつれて、趣味とは言えない額が動くようになり、自分の作品に自信が持てなくなり怖くなった。プロとして、イラストレーターとして活動する彼らの作品としてのクオリティや意識の違いなども様々な場面で感じるようになり、自分にとっての活動がわからなくなってしまった。

東京・名古屋・大阪と展示をし、デザインフェスタに出て、自作のプロデュースグッズを2度オンラインにて販売したり、サンプル止まりだがぬいぐるみも作れて。ありがたいことに貴重な経験ばかりすることができた。
ただそれは嬉しいと同時に、趣味ってなんだろうと自問自答することが増えた。
趣味と言って逃げているだけ、怖いだけ、もしかしたらそうなのかもしれない。これ以上はきっと抱えきれない。大した規模感じゃないことなんてわかっている。でもおれのキャパシティはそう広くない。応えられない。

きょうりゅうたろうといえば、"がお"というキャラクター、ありがたいことにそう結びつけていただけている。
やはりイラストでの表現活動から始めたから、どうしても絵から離れられない。でも自分の作品は絵を勉強してきたわけではないから技術が伴っているわけでもなく、あくまで感情の掃き溜めに過ぎず、誰かが共感してくれたり、誰かの代弁者になれたらいいなとは思っていたが、お金が発生するとどうしても絵として良し悪しを評価されてしまうことが精神的にしんどくなってしまった。

それと同時に、この体たらくの生活も2年となる。
最近は良くも悪くも刺激がなく、なにかを表現したいという思い自体が欠けてしまった。

きょうりゅうたろうのガソリンは感情。
ガソリンがないともちろん動くものも動かない。そしてその感情もマイナスなものからが多かったが、最近はそれを絵に表現するというところまでは気持ちが追いついていかなくなってしまった。
がおというキャラクターは、頬に絆創膏をしている。心の傷を隠すためのキーアイテムとしてキャラクターデザインに取り込んだ。
がおにいままでいろんな想いを託し、いわば僕の代理人のような存在としてみんなに愛してもらえるキャラクターになった。ファンアートを描いてもらえるなんて、とても嬉しいことで。
そんながおを作品において無意味に描いたことはない。感情がのっていないがおは存在しない。

ただかわいいだけの、なにも感情が注がれていないきょうりゅうたろうが描くがおが、これから見たいですか?

それが僕からの問いであり、その答えがきっと活動終了へのアンサーです。

もちろんこんなことを描きたいなというものは未だにいくつかあってカタチにはしていきますが、それもすでに限界が見えていて。

前向きな話をするならば、がおに絆創膏が必要なくなりはじめていて、きょうりゅうたろうの存在意義が揺らいできたんです。

新卒一年目で駆け込んだ心療内科は、診断を急いだため第一候補ではない場所で受診をし、そこから場所を変えず隔週で通う日々でした。
ただ、もう診断から2年以上経つことと、半年後の5月で退職から1年経つということで、「生きるため」には何か前向きにならねばと、両親の後押しを受けて、この年末に当初第一希望だったクリニックにセカンドオピニオンとして診断しました。

前の心療内科では、急遽診断結果が欲しかったのと心の準備ができていなかったがゆえに、仕事の話しか話せず、それゆえにその情報のみをベースにした治療が続いていて。今更改まって何かを話す気にはなれなかった。
今回のセカンドオピニオンでは、勇気を振り絞って、墓場まで持って行こうと思っていた、いままでの全てをありのままお話しさせていただきました。あくまで仕事云々はトリガーでしかないと思っていて、20年近く抱え込んだものが山積みになっていた結果だと思うという話を。
結果、薬の改善案や定期的なカウンセリングの処方等を勧められ、受診自体が好感触だったため、次回の受診から"転院"というカタチで今回新たな一歩を進みだすこととなりました。

生きてもいいな、少なくともそう思えるように、そして、社会に復帰できるように。復帰ってなんだ?とは思いますが、ゆっくりまたここから一歩ずつ動いていきます。
そして両立することは得意ではないので、これを機にきょうりゅうたろうの活動からは綺麗に足を洗おうという運びとなりました。

中途半端に活動を続けることが性格上できなかったこと、いちプロジェクトとしてここで終わりと決めた方がきょうりゅうたろうという存在を自分自身が愛せるということ、それ故に活動の終了を決めたこと、どうかご理解いただけますと嬉しいです。

もちろん自分が一番きょうりゅうたろうを大切にしているという自負があります。
その証拠に、自身で作ったグッズや名刺などは、販売分とは別に必ず一つは自分用に持っています。例え余分にお金がかかったとしてもです。きっとそこまで徹底している人はなかなかいないんじゃないかな。いつか個展をするときに、それらも作品の一つとして展示したいなという想いもありました。
最初の最初からスタンスは変わっていないんです。
それだけのこだわりとポリシーを持っています。

こだわりゆえのおわり。
はじまりがあればおわりがある。

終わりを自分で決めれるってすごく贅沢な話で、志半ばで活動を終えたり、気づいたらいなくなっていたり、そんな人が多くいるなかで、自分で自らピリオドを打てるのだからありがたいことで。
ここまで応援いただいたおかげできちんと終わらせることができます、ありがとうございます。

そんなぼくのわがままでした。

みんなに理解されるとは思ってないです。
勿体無いとの言葉、僕は褒め言葉として受け取っています。5月まで、僕がきょうりゅうたろうとして伝えたいことを形にしていきますのでどうか受け取ってください。
そして活動終了後も"がお"を誰かが描いてくだされば生き続けることができると思います。音楽と似たようなものです。聞いてくれたり歌ってくれたりする限りは残り続けます。

あと、質問をよくいただくのですが、アカウントは削除すると思います。万が一、凍結されて消えてしまったら心外ですから。

その代わりにできるだけ全てをまとめた一冊の本を作りたいと思っているので、ぜひ製作できた際にはみなさんの本棚に一冊、きょうりゅうたろうが生きた証を残していただけたら嬉しいなと思います。

そして3月10・11・12日には東京原宿で6人展。
4月8・9日には大阪で5人展+個展を行う予定でいます。大阪を皮切りに名古屋と東京でも4月と5月にグループ展と個展をしたいと思っているので、ぜひ会いに来てください。そしてお力を貸してください。

こんなかんじで、大まかではありますが、活動終了の決定に至ったご説明とさせていただきたいなと思います。
大変長く読みづらい文章でしたが、ここまでお読みいただいた方ありがとうございました!

改めましてこれから半年、どうか"きょうりゅうたろう"と"がお"をよろしくお願いします。

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