持っているもの、それで

先日、中学生の友人と7年ぶりくらいに電話をした。
彼女は昔から落ち着きがあり、どこか大人びている感じだった。
そして勉強もできた。

7年前に彼女から目の病気について少しだけ聞いていた。
その時はどれほどの症状なのかは聞いていなかったし、そこまで重症だと認識ができていなかった。

昨日、そのことについて詳しく聞かせてくれた。
どうやら先天性のものらしく、生まれてからずっと弱視であり、文字なんかもかなり読みにくい状態だったのこと。
学校での勉強なんて、殆どが文字によって情報を得て学んでいく中で、そのストレスはどれほどのものだったのだろう、と自分では遥か想像もできないものであるのは承知の上で、とても苦しいものであることを想像した。

自分が同じ状況だった時、投げ出さずに勉強を頑張れただろうか。
人は自分が生まれ持ったもので何とかしていくしかない、そう僕は思って生きているし、彼女の話を聞いた後でもそれは変わらない。
しかし、彼女の話を聞いた時には不思議な気持ちになった。

僕はどういう感情を抱くのが正解だったのだろうか、と悩んだ。
僕よりも大変な状況で…なんて思ったりもした。
でもそう思うことに意味はあるのだろうか。

君はそういう背景があるんだね、尊敬するよ
この感情と言葉で十二分ではないだろうか。

憐れまれたくない、それは僕だって同じだ。
でもどこかでディスアドバンテージを背負った中で私は、僕は頑張ったんだって、そういう姿も認めて欲しい気持ちがあるんじゃないだろうか。

少なくとも僕はそうだ。
憐れまれたくはないが、自分の逆境での頑張りは認めて欲しい、そんな少し我儘な願望がある気がしてならない。

面倒だなと、君は思うだろうか。
僕にはとっても自然な欲求に思える。

僕は君を憐れんではいない。
人は皆、自分が生まれ持ったものでなんとかやっていくしかないからだ。
それでも、君のこれまでの行いや、頑張りには、尊敬の念を抱かざるを得ない。
それは、僕もこれまでの僕を君に褒めて欲しいのと同じなんだ。

僕はこう伝えたいな。

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