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河童淵

暗い橋の下に、いつも河童がいた。

他府県から流れてくる支流が合流して、海へと流れていく大きな大きな河。

いくつもの鉄橋が横たわり、時には鉄道を、ときには自動車を、右へ左へと流していく。

その橋の下。

葦やススキが鬱蒼と生い茂り、年がら年中乾くことのないケチな湿地。

河童は、迷い込んでくるウミネコや百合鴎を日がな一日見つめていたり、天気のいい日にはコンクリートの堤防に物を干している時もあった。

もしくは、頭の上を過ぎ去るトラックの轟音を、うるさがるでもなくただ聴いていた。

河童が最も活発に動くのは黄昏時から夜が本格的にふけるまでの時間だ。

夜は独特な音を持って昼間の視力を吸い込んでいく。一度だって澄んでいたことのない一級河川に漂い、誰の視線も気にせず息をするためには、死にかけの夕焼けが川面を反射し、次第に群青の淵へと引きずりこまれていく宵の口はちょうどよい時間帯なのだ。

淵。

河童がよく口にする言葉だ。

お前らは、生温い水の湧く噴水のどんどんど真ん中に蹲っているんだと。

俺は、その噴水の淵に普段は腰掛けていて、たまに淵を見回りに来る巡査に追い立てられると、噴水の住民には見えないところまで隠れにいくのだと。

淵に立って歩き始めた瞬間に、水の中に落っこちてビショビショになったり、淵から足を滑らせて怪我をするかもしれない。お前らはそんな薄ら寒い想いなどついぞしたことがないのだろうな。

河童のそんな言葉に言い返してみる。

「だけど、噴水のど真ん中に蹲ることだって忍耐がいるし、何も努力しないで居続けられるわけじゃない。経験とか、技術とか、情報とか、そういうので押し流されないようにしてるだけだ。」

河童は鼻で---嘴の上にあいた小さな二つの穴---笑った。 

その大層な経験と技術で、どうして押し流されることのない、残酷な淵もない、いつまでも漂っていられる湖を作ってくれないんだ?

何層にも重ねらせた毛布の中で、世界の輪郭がわからなくなるくらいに耳を塞がれていりゃあ、冷たい水を浴びることも、体の痛みを経験することも、全くもって想像できないかもしれないけどな、

でも、そこにあるんだよ。

身体を包む毛布は燃えやすくて、もしかしたら綻びがあるかもしれない。突然暴力的な誰かがやってきて、その毛布を剥ぎ取るかもしれない。もしくは、身体を刺す嫌な虫やネズミが、足元から少しずつ、布切れを奪い去っていくかもしれない。

朝起きたら、まるであの暖かな日々は夢だったことがわかって、今や寒空の下雨に打たれた自分しかないことに気付くかもしれない。

その経験とか技術とかってやつは、永遠にそこにとどまることを許す錨とおもってるかもしれないが、その実、隣り合うやつ同士で手を握っているにすぎないだろう。誰も錨なんか下ろしちゃいない。一人流れに攫われたら、お前ら全員やられるぞ。

その時は、俺たち淵の住人もただでは済まないが、まあ巡査が押し流されたしばしの間は、むしろ平穏が続くだろうよ。

「河童は、そうなることを望んでいる?世界がいつか溢れかえって、僕らを支えることができなくなることを?」

別に、望んじゃいないさ。ただ、生身の体を持つ生き物がこれだけ大勢生きていかなきゃなんないこの世界で、役にも立たない大層な嘘をわざわざ積み上げて、場所を取ってる奴が多いなってだけのことさ。その場所をちょっと譲ってやるとか、馬鹿馬鹿しいその噴水を取り壊すことくらい、できそうなもんなのにな。

***

夜の淵はますます深まって、もう河童の表情など見ることはできない。僕は、自分が腰を下ろしているコンクリートの堤防の冷たさを体の芯に感じながら、

---今、世界が壊れてくれたら、この居た堪れない気持ちを感じなくても済むのに

と、情けないことを考えていたのだった。

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