自分の「わるいところ」は「いいところ」でもあるんだってお話
性格における「わるいところ」っていうのはすべて言い換えれば「いいところ」になるんだと思う。
私のわるいところは、言葉がストレートすぎるところだ。
オブラートに包むこと、なんとなくごまかすこと、相手に伝わりやすい言い方を考えることが私にとっては難しい。私の言葉は聞く人によってはとても鋭利に感じたり、心に痛みを伴わせてしまうことがある。
これは物心がついたときからそうで、親にも言われ先生からも言われ、通知表には書かれるし懇談会でも三者面談でも散々に言われてきたことだ。
子どもの社会はとても残酷だ。
調和を乱す子はその輪からのけものにされる。
それゆえに私には長い学生生活の中で、特定の友人がいたことやグループに入っていた試しがおよそ記憶にない。
卒業アルバムなんて見返したくない。
隣の子と明らかに不自然な隙間があるから。
何度も改善を試みたけど、やっぱり何度も何度も繰り返してしまうことにすごく悩んだ学生時代を過ごした。
高校1年生のとき、私はグループから仲間はずれにされた。
名前を出さず仲間内でならわかるような言い方での私への悪口や脅しがSNSに書き込まれ、それを仲間同士が拡散し合い、最終的には担任の先生も巻き込んでの話し合いがなされたが、私の名前を出していないが故に最後までシラを切られ、
もちろんクラスの他の人が助けてくれるはずもなく、見て見ぬふりをされ、私は長いこと学校に行けず、ふさぎ込んでいた。
理由はシンプルだ。
私の一言一言が気に入らなかったのだ。
傷つけてしまったことは申し訳ないと思うが、それでも私1人対6人では明らかに不利だった。
ちなみに話し合いの後、表面的には解決したものの仲が戻ったわけではなく、部外者のクラスメイトにはバレないように目の前で嫌味や悪口を言われることはその後クラス替えのない3年間の間に何回も経験することになる。
そんなとき、私が学校に戻れるきっかけとなった子がいる。彼女を以下Aちゃんとする。
Aちゃんは私よりずっと前からクラスでずっと孤立していた女の子だった。
学校に行っても彼女と一緒にいれば孤立することはない。
そう、つまり私は彼女を利用したのだ。
もちろんその後の3年間で彼女といて楽しかったことはたくさんあるが、
基本的に彼女は物をはっきり言う私とは真逆で、物静かで声が小さく、あまり自己主張をする子ではなかったため、性格が合うと思ったことは一度もなかった。
高校卒業後も彼女には1度しか会っていない。
そんな彼女のTwitterの趣味アカウントを数年ぶりに見つけた。
すでにフォローもしていない昔のアカウント。
最後の更新は1年前で、投稿もそれ以前からほとんどされていないようだった。
少し遡ると3年前にこんなことが呟かれていた。
自分が仲間はずれにされたからって都合よく利用してきたクラスメイトと思われているに違いない。
勝手にそう思い込んでいた。
そんなことを思っていたのは誰よりも私自身だったのに。
自分をとても恥ずかしいと思った。
私の本質を理解して認めてくれる人が本当はもっと早くに近くにいたことに気がついていなかったことに。
私を本当の意味で慕い愛してくれていた彼女に対して、私の心が全く向き合えていなかったことに。
社会に出て3年目となり、私も私自身をとりまく環境も大きく変わった。
社会に出てようやく私は私のままでいられるようになった。
私は今「わるいところ」を「いいところ」として認めてくれる人に恵まれてる。
私のいいところは、言葉に裏表がなくて真っ白なところだ。
機嫌取りのようなごますりや過大評価も、逆に過小評価もしない、たとえ自分が不利になる可能性があっても嘘をつかないで、誰にでも公正で平等であるところだ。
本当に私はラッキーだと思う。
自分のありのままを愛し、そのままを信じてくれる人たちに囲まれて仕事ができていること、むしろそれを信用に一緒に仕事がしたいと言ってくれる人がいること。
どうやら私の持つ感性と他の人が持つ感性には大きな隔たりがあるようだ。
嬉しいと思うこと
悲しいと思うこと
美しいと思うこと
嫌だなと思うこと
正しいこと思うこと
間違ってると思うこと
その多くが周りの人と少し食い違っていることがあるということに気がついたのは本当に最近のことだと思う。
そう気がついた時、そんな私が人の立場に立って考えることが難しいのは半ば当然なのかもしれないと、少し楽になれた気もする。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?