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空腹があるから満腹をしあわせに感じるんだなと思った

徳川家光がある時言った。
「何か旨いものを食べたい」

そのリクエストを聞いたのは、沢庵和尚。二つ返事で了承し、自分の寺の茶室に招いた。
旨いものへの期待でいっぱいの家光。
待てど暮らせど、和尚は現れない。腹は減るばかり。空腹が耐え切れないほどになった頃、ようやく和尚がやってきて、お椀と二切れの黄色い菜を出した。

家光はかき込むようにそれを平らげ、おかわりを所望。ようやく、腹が落ち着いた家光は、「美味じゃ。して、あの黄色い食べ物は何であるか?」と問う。

そう、黄色い食べ物の正体は沢庵漬け。

空腹な時に味わう、粗末な、それもたった二切れの沢庵漬けが、どんな贅沢な食べ物にも増して、おいしい。そういう教訓を物語っている。

もっともっと。
満たされたい。あれもこれも欲しい。そういう気持ちは、どこまでいっても終わりがなく、満たされることはない。

臨済宗国泰寺派全生庵住職 平井正修(ひらい・しょうしゅう)の書籍より


_世の中にある便利なものを「便利」だと感じられるのは、ナイ時代を知っているから。


例えばインターネットも、「ない時代」を知っている人は 「便利だー!!」と感動することができるけれど、インターネットが当たり前に、生まれた時からそばにある人は、便利かどうか、ありがたいかどうかも考えもしないかもしれない。

わたしはスマホとかインターネットとかを、とても便利だと感じられる。
それはない時代を知っているから。

でも、洗濯機、冷蔵庫、テレビは意図しないと、便利だなぁありがたいなぁとは思えない。他にも水道や、電気、ガスその他のライフライン。

当たり前にある。と思った瞬間に感謝ができない。


そういう生き物なんだと思う、人間ってやつは。

今のおじいちゃんおばあちゃんも比較的「ある」時代を生きていきた人たち。もちろん中にはとても苦労した人もいると思うけれど、もっと昔の人たちに比べたら比じゃないかもしれない。

もちろん、現代を生きる私たちは比べることもおこがましいくらい「ある」時代を生きさせてもらっている。


_「ない」と認識するのを卒業する


10代〜20代の頃は、自分には何もなくて、見つけなくては!見つけなくては!と焦っていた。タチの悪いことに、焦ってないふりして、大丈夫なふりして焦っていた。

それの何がタチが悪いかって、心の中で思っていることと、行動が一致していないから何も解決しないこと。何も解決しないまま時ばかりが過ぎ、それは宿題として30代後半になっても残り続けていた。


でも、すでに「ある」


と体感で染み入るように感じられるようになった。39さいのなう。


頭ではずっとわかっていた。
健康だしね、歩けるしね、目も見えるし、家も布団もある。
明日の暮らしにも困ってない。子供にも恵まれて、家族もみんな健康で。


そんなことはわかっていた。

でも全然「思えて」いなかった。


頭でわかることと、体感でわかるは雲泥の差。
まさにその感じ。


自分の心を言葉にしていくことや、自分にとってしあわせ・心地よさをトコトン考えた。考えるだけじゃなくて、書いて書いて書きまくった。

何も感じていないと思っていたわたしの心は、無限の色彩を持っていて、細やかに機敏に繊細にいつも感じていた。

そんなことをしていたら、いつの間にか当たり前にある目の前のしあわせに気づき、自分でじんわりと心を温めることができるようになった。


20年溜めてきた宿題をやっと終えることができそう。



もっとこうしてほしい
もっとこうありたい
もっと、もっと・・・・にはやっぱり終わりがないと思う。


「ない」ものに目を向けている時って、自分の中がなんか、ネズミ色のような、名前もつかないようなどよ〜〜んとした色になっている気がする。

反対に「ある」ものに目を向けているときは、黄色オレンジピンクがグラデーションになったようなふわ〜とあったかい色になっている。


何が正解なんてわからないし、正しさなんて人それぞれ。

だったらわたしいつ瞬間も、黄色オレンジピンクのあったかい色でいたいと思う。「ない」ことで気づけることにありがとうと感じて、「ある」ことにもありがとうと言えるひと。そういう人でありたい。


「ない」と感じることはなんですか?
反対に「ある」と感じることはなんですか?






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