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読書という荒野 読書記録33

頭で考えれば、死をそんなに怖がる必要もないのかもしれない。死ぬことは自分が生まれる前の状態に戻ることを意味する。時間という概念自体、人間が勝手に言葉で決めたものだからだ。本来、世界はどこから始まってどこで終わりを迎えるというものでもない。単に連続するフイルムのように、場面が移り変わっているだけなのかもしれない。
そのなかで僕は、映画の登場場面みたいに、一瞬何かの役で出演し、再びいなくなるだけだ。奈良時代にも、大正時代にも、自分はいなかった。そのときに何の苦しみも感じなかったと考えると、自分がいない時代に戻っても、実は苦しむことなど何もないのかもしれない。
と、頭ではわかっていても、やはり死ぬのは怖い。だから、せめて救われるために、死の瞬間に「自分の人生はまんざらではなかった」と思って目を閉じたい。とはいえ、まったく後悔せずに死ねることはあり得ない。おそらく死の間際に、「あれをやりたかった」「これをやりたかった」と後悔すると思う。しかしその後悔を少しでも減らすために、早朝に起き、身体を鍛え上げ、休息なく働き続けているのだ。

「夢」や「希望」など豚に食われろ

自分が選びとった言葉を突き詰めることはこれほどまでに苛酷なことだ。
それに関していえば「夢」「希望」「理想」「情熱」「野心」「野望」について熱っぽく語る人間は嫌いだ。これほど安直な言葉はない。
僕のところにはいろんな若者が会いに来るが、「社会や人の役に立つのが夢だ。だから起業したい」と言う人がいる。結果が一つも出ていないで語るそんな言葉は豚の餌にでもなればいい。悪戦苦闘して匍匐前進している人たちは決してそんな言葉を口にしない。何かを目指す者は「地獄」と「悪夢」を身をもって生きたらいい。結果はそこからしか出てこない。
夢や希望を語るのは簡単だ。語り始めたら、自分が薄っぺらになる。野心も同じだ。自己満足でしかない。そんなものは捨てたらいい。そんなものと無関係に生きようとしたとき、人は匍匐前進の一歩を踏み出している。日々を自己検証しながら圧倒的努力で生きる。やがて結果が積み上がる。目指していたものに手が届く、実現する。そのとき、静かに噛み締めるように、これが自分の夢だったんだと語ればいい。

僕が親しくしている起業家たちは、会社を成長させる過程で、夢や希望をむやみに語らず、圧倒的努力で現実と格闘していた。
楽天の三木谷浩史は創業間もないころ、2日に1足、靴を履き潰し、楽天に出店してくれる個人商店を探し回った。サイバーエージェントの藤田晋も、デジタル広告を出稿してくれる会社を探すため、毎日100軒、飛び込み営業を行った。
GMOインターネットグループの熊谷正寿は、黎明期のインターネットビジネスに着目し、競合に先んじるため、数日間ほとんど睡眠を取ることなくサービス・システム構築に専念した。ネクシィーズグループの近藤太香己はベンチャーという言葉もない時代に、高校を中退して50万円を元手に19歳で起業して営業に明け暮れた。いつ眠ったか覚えていないと言う。Avexの松浦勝人は上大岡の貸レコード店でアルバイトをしながらユーロビートを聴きまくり、世界のダンスミュージックに日本中の誰よりも詳しくなっていた。彼らを見ていると、現実と格闘している最中には、夢や希望を語る暇などないことがよくわかる。

同様に「成功」という言葉も大嫌いだ。「成功」とはプロセスとして、そのときの一つの結果にすぎない。「成功」かどうかは自分の死の瞬間に自分で決めるものだ。それまでは全部途中経過だ。貧しくても惨めに見えてもいい。自分が最期の瞬間、微かにでも笑えるならその人の人生は「成功」なのだ。
「僕は成功したい」と言う人に対しては「君は成功をどういう概念で捉えているのか。何が成功なのか。君の言葉でちゃんと説明してごらん」と言うと、大体の人は答えられない。
言葉はそれほどまでに重いものである。夢や希望や成功という言葉を使えるだけ、自分は考え抜いているか。そのことを問い直し、もし考え抜いていないと思ったら、思考する言葉を手に入れてほしい。それは読書を通じて手に入れられるはずだ。

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