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歩きながら考えよう 読書記録28

私は大阪の下町に生まれ育ち、高等学校を卒業して建築の仕事を始めたわけですが、建築についての専門教育を、じつはほとんど受けていません。
というのは、家庭の経済的事情と学力的な問題もあって、大学進学は断念せざるを得なかったからです。
女手ひとつで祖母に育てられて大きくなったのですが、その祖母にある日、将来について相談をしました。
「学歴がないけれど、建築の仕事がやりたい」と。
「人に迷惑をかけない。責任を持って約束を守る。あきらめずにやりとげる。この三つが守れるのならどうぞ」
意外と自由にやらせてくれたんですね。
そこで「じゃあ、やってみよう」と、建築の道に進むことを決意したわけです。

世界を放浪した二四歳

二四歳のとき、今度は海外の建築をめざして旅に出かけました。一般の海外渡航が自由化されたのが一九六四年で、その翌年。いわば決死の覚悟です。
まだガイドブックも何もなかった頃で、まわりに外国へ行った人など誰もいません。周囲の人たちに挨拶に行くと「もう帰ってこられない」と思われ、水杯を交わしました。
みんなが「餞別」をくれるのですが、餞別といっても「この石けんを持って行け」とか、「タオルはやっぱり五本くらい持って行け」とか、「歯ブラシは五本持って行け」とか。今では考えられないようなことですけれども、もらった石けん、歯ブラシをリュックサックにいっぱい詰めて持って行きました。それと読みたい本を何冊も入れたので、荷物は結構な重さでした。
横浜からナホトカまで船で行き、そこからシベリア鉄道でモスクワへ。当時は飛行機がまだ一般的な乗り物ではなく、目的地のフィンランドへ辿り着くまでに九日ほどかかりました。
最初に驚いたことは、初めて見る水平線です。海の上をどこまでも続く水平線。次にモスクワまで大陸を移動する鉄道の中で見た地平線に驚きました。
この風景を目にして「地球はひとつなんだ」と実感しました。もちろん言葉では、水平線も地平線も知ってはいましたが、実際にそれを見ると、とにかく感動し、「やっぱり、物事は体験しなければわからない」と思いました。
同じ知識でも、実際に体験するのとしないのとでは、その理解の度合いはまるで異なってくるものです。

ひたすら歩き、建築を考えた

最初に向かったのはフィンランドで、五月の頃、白夜でした。太陽が沈まないので夜も明るく、だから寝る時間以外はほとんど一日中、一五〜一六時間は歩いていたと思います。
バスになんか乗らない。お金もなかったですから。ホテルの宿泊代も入れて一日五ドルで過ごそうと思っていました。一ドルが三六〇円の時代ですから、一八〇〇円ですよね。
ひとつの建築を見たら、また次の建築まで二時間かけて歩きました。
歩いている間は、前に見た建築のことを考え、そしてこれから見る建築のことを考え、頭の中にずっとそれを思い描きながら歩くわけですよ。途中、スケッチなんかもしながら。
やっぱり「若い」っていうのはいいです。体力もありましたし、夢もありました。一番のエネルギーの素は「夢」ですよね。何かをしたい!という。
私は事務所のみんなにもよく「歩け!」と言っています。夜中、飲みに行って終電がなくなったら「歩いて帰れ」と。
事務所は大阪ですが、以前は京都大学の学生が多かった。夜の一一時、一二時の前になったらみんながそわそわするので「どうしたんだ?」と聞くと、「最終電車がそろそろなんで⋯⋯」「それやったら京都まで歩いて帰ればいいじゃないか」「えっ、歩いて帰れるんですか」とびっくりしていたけれども、みんな歩いて帰っていましたよ。八時間くらいかかったはずです。
暗い中を歩いていると、ゆっくりと太陽が昇ってくる。「生きている」という実感が得られるんじゃないですか。
歩いていると自然に何かを考えるわけです。自分の人生はこれでいいのか、ということも時には考えますからね。
今は新幹線や飛行機に乗って便利に移動できますから、そんなことを考える間もなく着いてしまいますが。
数年後、その彼らに会う機会がありました。
「学生時代の一番の思い出は、一晩かけて大阪から京都まで歩いたことです」
と言っていましたよ。

古典建築から、近代建築までを見学

フィンランドからフランス、スイス、イタリア、ギリシャ、スペインと辿り、これはやっぱりアフリカまで行ったほうがいいだろうと思い、南仏のマルセイユから貨客船でアフリカに渡って象牙海岸を巡り、ケープタウンまで行きました。
ケープタウンからマダガスカル、それからインド洋を船に乗ってボンベイ、今のムンバイですね。それからインドを放浪し、アジアの地を歩いて香港、台湾に渡り、日本に帰ってきました。

大学の建築学科に行っていた友人たちが、建築を勉強するなら、はるかローマ時代につくられたギリシャのアクロポリスの丘のパルテノン神殿を、ぜひ見ておくべきだと言っていましたので、ともかくこれは行かねばならない、と足を運びました。
初めてパルテノン神殿を前にしたときは、迫力に圧倒されはしたものの、正直その偉大さがよくわかりませんでした。それから後、別の機会に二回、三回と見ているうちに、少しずつそのすごさがわかるようになりました。
勉強をして、建築に対する理解が深まるにつれ、その魅力を肌で感じることができるようになったのです。

ローマの古典建築から近代建築までを見学する、という熱い思いを抱えてスタートした旅でしたが、人間は面白いもので、建築にかける思いが持続したのは途中まででした。マダガスカルからインド洋を船で渡って、ボンベイまで一週間ほどかかります。赤道直下を進んでいくんですが、三六〇度、見渡す限りすべてが海の風景でずっと変わらない。「海は大きい、地球は大きい」とひしひしと感じていました。
私が乗っていたのは運賃の一番安い船底の部屋でしたので、食事は毎日、豆とパンばかり。こんな状況が続くと「日本のラーメンが食べたいなぁ⋯⋯」とか、食べモノのことばっかり考え出すようになるんですよ。
この頃になると、もう建築のことを考える余裕なんてない。あれも読みたい、これも読みたいとたくさんの本をリュックに詰めてきたのに読む気にもなれず、また、その暇もありませんでした。

わずか一〇ヶ月の期間でしたが、この旅においては建築だけでなく、人間の欲望や、大自然の風景を間近に見て、貴重な体験を得たと思います。
じつは海外へ出かけると決心をしたとき、祖母は「お金は蓄えるものではない。自分にいかして使ってこそ、価値があるものだ」と言って、気持ちよく賛成をしてくれました。
自分で貯めた六〇万円を所持金に強行したこの二〇代の旅は、祖母の言葉通り自分にとってかけがえのない財産となりました。

一年のうちの半分を旅するための資金作り、残りの半分を旅の期間にする。100万円貯めて世界見る。やる。

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