短編小説「雲とブルべ」

 草むらに飛び散った火の玉を写真に収める。仲の良い同級生と麦わら帽子に白いワンピース、手首の小さな時計とビーズのついた髪留め、最後にピースを目に翳せば、ほら、女の子らしい写真の完成だ。SNSのアプリを起動させ、 #夏の定番  とタイプして、みずみずしい写真を投稿する。仲の良い女子たちが囲んで線香花火を楽しんでいるような。こんな具合で瞬く間に二、三件のハートマーク。
 あなたは見てくれるだろうか? 見てくれてもハートはくれないかしら?
 一瞥するとこの子たちもスマホに夢中になっている。カメラに向かって着物姿とポーズをとってそれをネットに上げる。誰かにいいねを押されるたびに、胸の中にできた憂鬱に絆創膏が貼られるのだろう。
 どこにいるネット中毒者もかのようにして日々の不満を晴らしている。どういう不満かと言えば例えば恋をした相手に好きな相手がいたこととか、マンションの上階の馬鹿の足音がうるさいだとか。
 ちょっとしたストレスというのは、くだらないように見えて健康にかかわる重大な要因であるためこまめに消さなければならない。非常に不甲斐ない自分を存分に覆い隠した笑顔の写真を投稿し、ネットの住民に褒められることで駄目な自分を正当化している。バカバカしい理屈なのかもしれないがそれが事実なのだということを彼女らは認めない。
 もちろん他人事ではなく私も認めたくない。そんな自分も全部含めて愚かだと思う。
 認めたくないという気持ちは事実から目を逸らしたい防衛本能として働いているのだ。
 どうにもならない不満とSNSの馬鹿らしさを考えている間にほら、十五件のハートマーク。
 馬鹿だなあ。こんなありふれた写真に反応しようとする輩も投稿する私も。
 線香花火の飛び火がはげしくなってきた。これを見ていると、まるで蝉の死体が足掻いている姿を想像してしまう。夏休みが終わってしまうことに子どもがはしゃぐみたいに。
 それでも私はSNSをやめるつもりはない。承認欲求の外に別の目的があるのだ。だから、自分のことを卑下しながらも、こうして笑っていられるのだ。笑おうと努力できるのだ。
 煌びやかな火を片手にしてスマホを確認する。今日も返信はない。
 あの日邂逅した彼からのメッセージ。毎夜毎夜、横になる度にあなたのことを想起してしまう。そうする度に身が悶えるのを堪えることが出来ない。
 だって私たちは……。
 買ってきた手持ち花火は全て使い終わった。仲の良い友達の呼び掛けに、待って、とついていく。数人で肩を並べて、神社の鳥居を抜けて数段だけの急な石階段を降りて、手を振って別れを告げた。
 ……だけどきっと明日は、明日こそは。
 夏が終わるね、とそんな会話をして、友達に背を向けて歩き出した。途端に背後の彼女たちはなにやら楽し気にはにかみだした。その様子から明日の夜祭の話をしているのだろうということはわかった。
 夜だろう息苦しい気候だから蝉の声が聞こえてくる。やせ腕に露出した腕に生ぬるい気温が張り付いている。
 今、向かってるから。
 軽はずみなステップを踏みながら遊びで疲れた声で歌を口ずさんだ。誰もいない歩道の傍らに並ぶ街灯には黄色い蛾がパタパタと灯のあたりを飛んでいる。
当たり障りのない無謬の夏の景色。
 自然と口角が上がる。夏が大好きだ、と胸の中で腹を抱えながら呟く。
 いけない、いけない。もしこんな姿をあなたに見られたら……。
 あなたが後ろから私の肩を叩いて、笑いかけてくれたら。
 そう想起するたびに私の頬がはにかんでいく。
 駄目よ、こんなこと考えちゃ。
 口を強く結ぶ。あの人に会う時は綺麗な笑顔を見せないと。
 このあたりの街路樹。ひっそりとたたずむ街灯の下の赤い自販機。SNSに投稿された写真で見かけた街並みだとすぐに気が付いた。
 あなたが投稿した写真の景色通りね。
 彼が歩いている姿が想像され、確証もなく見えない足跡をたどる。ふと、他の家々とは違ったベージュ色の塀をもち、中庭に花壇とベンチが置いてある、マンションが目に映った。
 ここだわ。きっとあの階の窓から撮った景色がこの写真の景色なのね。
 駄目なこと、悪いことだと分かっているけど、少しだけ……。投稿された写真と街並みを照らし合わせてみると、これまた頬の部分が温かくなって、足がうずうずし出した。
 その窓から、あなたが見ていたらどうしよう。
 でもその前に一枚だけ、とピースとぎこちない笑みで自撮りする。背後には今彼が生活をしているマンション。するとピンボケの確認を行わず、迷うことなく足早で帰路を踏んだ。
 私と彼の家はそんなに離れているわけではないが、そのあたりの敷地から離れると、さっきは弾んでいた心が冷めてしまったのをメタ認知した。
 スマホを眺めながらだったから家まであっという間だった。玄関の鍵を閉めるとすぐに洗面所に向かう。
 私は健康を第一だと教わったから手をしっかり洗う習慣がある。だって、病気は苦しい。十三歳の時、私は生涯で一度だけ病気になったことがあった。歴史を学んだなら名前を聞けばわかるような、致死率も高い、どこかの国から流行した風邪。
 鏡に映る肌の白い自分。四年前の自分の面影が写る。
 前から私の身体はこんなに痩せていたのだろうか。
 体の細さを気にするなんて、なんだか親にでもなったみたいだ。
 ハンドソープの石鹸の香りをタオルで拭き取って、ベッドにふかんと座り込んでさっき登校したSNSの画面を開いて、リプライのメッセージを確認してほのかに満足する。承認欲求で空いた胸の醜い溝が少しずつ埋められていくような感覚がする。
 ほら、当分体の白さも細さも気にする必要はなさそうだ。
 あの人だって、きっと気に入ってくれる。細い方がきれいに見えるでしょ。白い方が美しく見えるでしょ。写真をもっと見てくれるでしょ。
 歩き疲れた足がうとうとしている。なんだか欠伸をしているみたいにぼんやりする。
 このスマホに打ち込んだ投稿は全てあなたのためなんだ。
 電気を消して、今夜の線香花火の匂いを思い出す。燃え尽きた火の玉の匂いがまだ触れられる距離に浮かんでいる。服に染みついてしまうため決して身にまといたくはないが、夏を感じるあの煙たさ。
 あの人と一緒に過ごせたら。
 心地よい疲労感に包まれながら、体が眠っていくのを感じた。やがて脳も眠くなっているのだろう。
 でも私は満足している。この調子で投稿を続ければ、きっとあの人は見てくれる。
 私のことを思い出してくれる。
 口角が眠気に逆らって笑う。一瞬だけ笑ったあと、力はすっと抜けていった。
 いつでも祈っている。今夜だけはいい夢が見られることを。

 あの人と幸せに暮らせる夢を見られることを。


 蝉の声で目を明けた。これは不味い、とすぐにクーラーをつけて、目の乾燥を潤すために洗顔をした。ここ最近、よく眠れない。眠気を残したまま目を覚ます。
 今朝もあいにく青白い鏡に映った自分の顔に向かって言いかける。
 そんなの彼の所為に決まっているじゃない。
 独り言ではあるのだが、なんだか付き合いたてのテンションみたいで恥ずかしくなった。
 連絡をチェックする。非通知にしたつまらない学校のグループも新規のメッセージがどれくらい増えているのかは一目瞭然だった。メッセージをもらえると、自分の為に誰かが送ってくれたのだろうとほんのり嬉しくなる。だから、あなたからメッセージをもらえた時は……。
 今日の夜、祭りがある。花びらが数枚重なったクチナシが散った紺色の浴衣でいつものメンバーと一緒に行く。それも捨てがたいことだ。世の中の男女は祭りにそういった意義を見出し、夏の終わりを惜しんで楽しんでいるのだろう。だけどあなたは変わってるものね。だからきっとそういった楽しみ方で喜びはしないでしょう。
 ハンガーに掛けてある純白のワンピースに目を移す。お小遣い三か月分を躊躇なく投資してネットで購入したお気に入り。
 私はたった一人で夜祭に向かう。浴衣を着てりんご飴を片手に持ってる他の参加者にとっては少し目立つかもしれないが。この格好で屋台の道を歩くことにした。水ヨーヨーでも買って、手にぶら下げて。浴衣で賑わった人の波を抜けて、誰もいない神社の椅子に座って、昨日よりもっと大きな花火を終わるまで見つめる。
 変わったものが好きな、ちょっと変なあなたなら反応してくれるはず。
 あなたに会うため。
 考えるだけで、思い浮かべるだけで、ただですら暑いのに炎天下にいるみたい。あなたの笑顔を思い出すだけで、今日が良い日になるって確信してしまう。
 ふと窓の外を眺めてみる。そこには和装を着た小学生に上がったばかりらしい子供とその母親が歩いている。今日も暑いね、なんて話しているのだろうか。親子の背中を目で追っていると、続いて学校のジャージを着た二人組の中学生が自転車で通り過ぎた。部活動にでも行くのだろうか。学校名の描かれた大きな鞄を見届けると、今度は思春期のカップルが手をつないで二人肩を寄せて歩いてきた。彼が何か話しかけ、彼女がそれに笑いかけて楽しそうに日の下を歩いく。
 それを見ていると心臓が縄で巻かれて縛られたみたいに苦しくなった。同時に、希望を見出したりした。いつか彼とあんな風に話せることを妄想する。
 あなたが振り向いてさえくれれば、機会さえ作れればすぐにでも! 早く夜が来ればいいのに、夕日が沈んでくれればいい。
 自分自身を急かして時計を見ると針はぴったり6時を指していた。大きい針と小さいが上下に背伸びする時間帯だ。
 ……なんだ、まだ6時か。それにしても、ずいぶん早起きしたものだ。
 いつも私が起きる時刻は8時だ。確かにアラームの音も聞き覚えはない。6時に上がる朝日はこんな朱色をしているのだろうか。まるで夕日みたいだ。
 ……あれ? 方角が!
 異変に背中をぞっとさせながら、私はスマホの画面を確認した。もちろん、画面上部に表示された時刻の部分を。
 18:01。
 花火が打ち上げられるのは7時ぴったりだったはずだ。しまった。祭りは疾うに終焉に向かっている時間帯だ。
 考えることもなく私は入浴の準備を始めた。
 嘘でしょ。まさかこんな時間帯になっているなんて。
 一体どれだけ眠っていたのだというのだ。シャワーで眠気を覚ます。
 花火の破裂音が一つ上がるころには現地に着いていたいものだったから、6時半くらいには家を出る予定だったが、これではゆっくりしていられない。
 一心不乱に準備を進める。その間ほとんど無意識だったといっても過言ではなかった。ゾーンとか呼ばれるやつに入ったのではないかと思う。入浴を終えて、体を乾かして、髪の毛を解かし、白いワンピースに着替えて、腕時計と白い帽子を身に着け、サンダルを履いて家を飛び出した。
 扉を閉める瞬間、消し忘れたテレビのニュースの音が気にしている暇はなかった。僅かに聞こえた内容から推測するに、病死した少女の話らしかった。
 この期におよんで縁起が悪いと思いながら、私はせみ時雨の中サンダルで走った。


 6時47分、花火大会が始まる13分前。屋台は奥行き長々と並び案の定浴衣を着た男女たちがうじゃうじゃと混雑の音を成している。すぐにあの人の服を探した。
 あの人はここに居るはずだ。絶対にそうだ。
 画面の外側から何度も見てきたあの服を探すように首を横に振る。
 私にはわかるんだ。SNSでも確認したのだから。
 行列に並んで振り返ったり、射的に並ぶ人を眺めるがどれも知らない背中だった。
 いない。
 いろんな人間がいる。軽装の者もいれば本腰を入れて和装を決めている者、片手にはりんご飴をもって、もう片方は手を握っている者。
 この人たちは今、何も考えていないのだろう。考える暇がないくらい、誰かとの距離が愛おしいのだろう。
 幸せそうな顔を見ていると、胸がびりびりする。
 ああ、そうか。これが心の痛みなんだな。と私は一人思い、反芻する思考とこの場所で息も出来ず溺れていく。通り過ぎる子持ちの家族の視線がまち針みたいにチクりと突き刺さる。
「ねえ、あのお姉ちゃんなんで一人でいるの?」「いいから早く行くよ」
 幻聴だとわかっていてもどこか本当にそう言われている気がして頭痛の重みが増していく。夜の暑さが服を通り過ぎて皮膚に熱を添える。
 一人で祭りになんて来るものじゃないんだ。
 私は数時間前にあの子たちと同行しなかったことを死ぬほど悔やんだ。
 もう少し進めば屋台が途切れる場所がある。傍らに地蔵が置いてあるからだ。地蔵の背後に隠れた小道を抜ければ石階段があるはずだ。そこを昇って行きさえすれば。
 小さい腕時計の時刻は6時58分。針がずれて59分になった。
 このままじゃ花火が始まってしまう。
 慌てて前に注意できないでいると、突然肩に誰かとぶつかる衝撃がはしった。
 高音にした笛のような音が上がっていく。
 顰め面のままぶつかった人物の方に振り返った。すると私の目は見覚えのある姿に反応した。
 赤色の光が夜空を照らし、人々が口を開き始めた。
 すべてを忘れてしまったみたいだ。昨日の線香花火さえ。自分の存在さえ。この暑さの夏でさえ。目先の着物が画面の中にあるみたいで。
 彼の目の中に自分が写っていて。
 破裂音が空に響く。
 次々と昇っていく花火に人々は歓声じみた会話を初めて、やがてそれが雑音に塗れていく。綺麗だ、そんなことが聞こえたに違いない。
 逃げなくては。
 立ち尽くしてはいられないと本能が声を上げた。逃げるように地蔵の後ろにある小道へ走り出す。
 両側の林の隙間から花火の赤い光が漏れ出て足元を僅か流れに照らす。
 発熱する頬に両手を当てた。
 信じられない、信じられない信じられない!
 胸の心臓が生き物みたいに鼓動を打ち続けている。どくどく、どくどくと。
 足はサンダルを履いているのに走ることを辞めようとしない。引っかかりそうになりながらも体は全身を進ませる。
 びっくりした表情でフリーズしている彼の姿を思いだして、かわいらしいな、なんて思い返して。脳味噌は思い出すことを一心に拒絶していても。
 困惑した顔で無意識に手を伸ばして、まるで幽霊でも見たみたいに顔が固まっていた。
 何段も重なった足を滑らしたら転げ落ちてしまいそうな石階段を、一足ずつそれでも軽い足取りで昇っていく。
 やっと暗い空が広がって、そこに咲いた花の火が目に焼き付く。暗闇に塗れていた視界がぱっっと明るくなった。
 自分の右肩に触れる。彼の綺麗で立派な腕とぶつかった肩の温度を確かめた。
 まだ温かいな。と、私は急に込み上げてくる笑みを堪えられなくなった。
 理性では一人で何やってんだよ、と叱責されながら私は腹を抱えて声も出さずに一人悶絶している。階段を昇り終えた丸く広がる石煉瓦の上で。
 あなたがいた。あなたに会えた!
 観客のいない舞台の上で踊る道化師のように足元はおぼつかない。止まない花火が足元をスポットライトみたいに照らしては散っていく。
「これが恋なのね」
 予定立てていたベンチに座って、一呼吸おいて彼の顔を思い出す。凛とした麗しい。また頬っぺたが温かくなる。
 疲れた足を休ませたかったけれども、足は自分の意志で立ち上がった。
「魔法みたい」
 壊れたようにあの一コマを思い出す。胸の高鳴りが静まっては消え、消えては浮かんでくる。
 あの人と会えただけなのに、私はそれだけでこの夏を一生忘れないだろうと確信した。

 胸に優しい破裂音が止みはじめて、ようやく私の心は落ち着いた。
 どれくらい狂っていたのだろう。
 誰もいない神社で一人熱に浮かされていたのだ。誰かにさっき上がっていた花火の色を全て教えてくれと言われたのなら答えられなかっただろう。
 快晴の日に昼寝をして夢を見て、それが白昼夢だと気がついた時のような開放感に浸った。それだけあの人への熱が異常だったのだ。神経の運動が徐々にゆるまっていく。
 ベンチに腰を掛けて、反射的にSNSの投稿を検索する。起動中に真っ暗になる画面に映る自分の頬が少し赤かった。幸せなのだろう。今、幸せなのだろう。
 ベンチに腰を掛けて、子どもが寝始める時間帯になっても鳴く蝉の声を聞いて、はっと自分が犯した最大の失敗に今更になって気がついた。
 どうして逃げちゃったんだろう。
 馬鹿なことをした。あれだけ願っていたことが叶ったというのに!
 すぐにベンチから足を下ろして、石階段と対面しているところに向かって、下を見た。
 あの人の着物が見つからない。
 往々にして流れる人々を見つめていても無駄だということがわかった。
 ここまで昇ってきた石階段を下っていこうとした。この急な階段は気をつけなければならないのに、私は彼に必死だった。最初の一歩、下るための薄青い足を通したサンダル。
 踏み外してしまった。大きく踏み外して、私の身体は軽々と宙に浮いた。真っ暗になり、音を置き去りにする。
 石階段に落ちる。襲ってくる騒音に目を閉じる。暗闇に包まれて、次の瞬間灯りがまばらに散らばった街の景色が広がる。花火が上がっている間気にもしなかったが空が晴れていて、星が見えた。毎夜曇っていようが晴れていようが街の灯りに埋もれてしまう星の灯りが目の前にあった。朦朧とする意識で感嘆し、気がつけば私の身体は空中に浮いていた。
 わあ、というよりは、ああ、という挙動を頭の中で呟いた。
 自分がどうして空中に身を浮かせているのかわかったのだ。
 あの人に会えない理由。あの人に声を掛けても聞こえない理由。
 どう足掻いても直接会えなかった理由。
 最近よく耳にする物騒なニュースが頭の中で再生された。
「病死した少女」私の中でそのことだけが胸の中で反芻されて。
 嫌というほど頭を痛めて。
 病気になったことが一度しかないのも、その一度の経験を恐れて健康に過ごそうとするのも。
 死んでいるからだったんだ。
 他人事のように考えて、視界に帳が落ちる。
 眠れないままみる夢のように。


 彼と出会ったことですべてわかってしまった。
 私が今までずっとあなたと会えなかった理由。去年の夏に今日と同じ日に同じ場所であなたに会えなくて、だから白いワンピースにして……。わざと目立つ格好をした。
 ニュースに出てきたあの名前。江戸時代とかそういう昔に流行った風邪にかかった少女のニュース。
 あれは私のことだったのだ。
 どうして自分がこんなに痛い思いをするのだろう。どうして誰も目を向けてくれないのだろう。ひたすらに空想してきた世界は誰の目に留まることもなく消えてしまう。やがて私の存在さえ消えて行ってしまう。ただ怨念を一つ残して。あの夏に会えなかった人へ。どうか気づいてくれるように必死に願っていた。あの墓石に戻りたくない。あなたに思いを伝えられずにずっと眠ってしまうなんて、いやだ。
 何も聞こえない、何も見えない空間で記憶が込み上げる。私は一つずつそれを繕っていく。
 去年は浴衣を着ていった。紺碧の袖にボタンが散らばった浴衣を慣れないのに着て、あの人に好かれようとして行ったんだっけ。
 常に最新の投稿を監視するために携帯を手から放さなかった。
 花火のカウントダウンで恋に落ちた。画面越しであなたを見続けて。
 心が全く落ち着かなくて。
 「偶然」を探した去年の夜祭は会えなかった。投稿であなたと一緒の場所にいたことを知ったのは花火が疾うに止んでいたときだった。
 なら、服装を変えてもっと目立つように来年こそは!
 だけど来年、今年の夏には私は死んでいた。
 あなたのことを知りたくて投稿を検索し続けた。苦痛も罪悪感もなかった。
 けどこんなのはストーカーみたいじゃない。
 こんなのは怨念だ。成仏できない。貴方の笑顔が恨めしくて。あなたと一緒に入れない自分が悲しくて。
 いきなり目の前に鏡が現れる。鏡に映った自分の姿がひどく白っぽかった。肌だけじゃない。地層が無いように氷でできた人形のように瞳すら白かった。
 しかし、鏡にすら映らなくなった。
「続いてのニュースです」
 ニュースが流れる。あの少女の話だ。
 途端自分がどこに生きているのか分からなくなった。サイダーの泡のように消えていく肌の感覚。何もかも空中に浮いているみたいに体の力が消えた。
 自販機で買ったサイダーに毒でも入っていたのではないかと思うように。
 SNSを使えば彼の居場所がわかる。昼下がりの木漏れ日のような柔らかい笑顔からあの人が今何をしているのかだってわかる。
 でもSNSでわからないことがある。
 あの人の居場所がわかっても行動がわかっても。
 あなたが私をどう思ってるのかわからない。
 あなたの全部を知りたくて。全部をわかりたくて恋をしているのに、どこか羨ましく思うのはどうしてなのだろう。
 手が届くのに触れられなくて、会いたいのに声を掛けられなくて。
 気がつけば一生、声なんて出せない体になっていた。
 恋をしたかった。理由は答えられない。だけどあなたを見た時から好きだと思えたから、あんなに好きだと思えたから。恋をして一緒に、蝉の声を聞いていたかった。
 コップに汲んだ水すら飲むことが出来ない体になって、暑さすら本当はわからなかったけど、日差しを見ているだけで温かいんだってわかってしまう。
 笑われてしまうかもしれないけれど夏の雲や祭りや花火を想うだけで胸がざわめいてくるから。
 そんな日々をいつものメンバーと一緒にはしゃいで、遊びに行く妄想を繰り返していた。
 虚構だとわかりもしないで写真を見ているふりをして、あの人への憧憬に心だけが追い付いた。
 人々にとっても、仲の良かった昔の友人にとっても、大切なあなたにとっても、私というものは存在しないものだったんだ。
 思い知るたびにお腹から乾いた笑いが込み上げてきた。笑う体も全部嘘なのに。皮肉にもあの祭りの時と同じような気分になった。道端でかすかな歌声をあげながらスキップする狂人みたいに狂っていた自分。
 ほんとう、滑稽だ。
 今頃、ニュースではどんなことが報道されているのだろうか。ある祭りで目撃された白い肌の女のことでも取り上げて、花火の轟く空の下で踊り狂っていた姿を気味悪がられたりしているのだろうか。その女とぶつかった男性にインタビューして。
 怨恨と呼ばれるものなのだろう。強い未練を残して亡くなった幽霊だったと言われてはいつか忘れ去られていくのかもしれない。
 ……だけど、あなたはそんなひどいわけないわよね。
 あなたは関係がないのに、私のせいで怖い思いをさせちゃったかもしれない。
 彼の方がずっと不快な思いをしているはずなのに、目が温くなって震える。この期に及んでなんて我儘な体だ。
 ふと体の重さに疑問をもった。今どこに足をつけてるのかも知った事ではないが、元から細い体がじょじょにほんの1ミリグラムずつ軽くなっていることに気が付いた。
 炭酸水をコップに注いだ時に机に泡が散るみたいに少しずつ足先からなくなっていくような気さえした。
 そっか、
 諦めるべきなんだ。
 未練を残した罰を受けなければならない。
 でも、その前に。謝らないと。


 あの日、祭りで見かけたあの子。皆が浴衣姿でにぎわう中で一人だけ白いワンピースを着ていたあの子は彼が何年か前、近い過去に画面越しで見かけた女の子にそっくりだった。
 家の窓を開けると、どっと蝉の声が溢れ出す。寝起きに何となく晴れた空の下に並ぶ街々の景色を眺めながら彼はそんことを思いだした。
 それがあの女の子じゃなかったのなら彼はあの祭りの日などただ良い思い出として思い返していたのだろう。
 あの子は……。
 昨夜から彼はSNSの投稿を見返している。あの頃の写真を探すみたいに。しかしどれだけ探してみても彼の頭に花火のような光を与える、記憶を彷彿とさせる写真は見つからなかった。
 ただの偶然か? そう思った時に目にしたニュースの画面には、少女の遺体の発見を告げるテロップとその女の子の生前の写真が映し出されていた。
 途端、彼の脳内に電流が走り、その時のことを思い出した。
 堕ちていく夕日と絵の具を混ぜたような境の綺麗な水平線。その写真に映った全てが彼の記憶中に飛び交う一つの疑問を収束点へと導いた。
 瞬時に彼は外出用の白いTシャツを頭からかぶって、袖を通さないまま家の鍵をポケットに入れて、ハンカチとティッシュを確認しながらマンションのドアを飛び出した。背後で乱暴に閉まるドアの音を聞いてすれ違った住民はフリーズしていたが、彼は構わず走り続けた。危なっかしい階段を降りて、夏のいたいほど暑い日差しを髪の毛に受けながら、蝉しぐれの中走り出した。


 見上げれば青い空に乾いた雲が漂っている。亡くなった私の墓の前にはいろんな色の花が、数本ずつ二つの花瓶に別れて供えられていた。一本だけひまわりの短い花が目立っている。
 体温をいくらか和らげてくれるそよ風を待ちながら彼は待っていた。
 午前12時。真昼の時間帯だ。同時に一番息苦しい気温になるころ、彼は何も水分を摂らずに何時間も……、待ってくれたんだ。

 聞こえるかな?

 海岸線が見える。ギザギザと不気味な形をした岩のオブジェと風景になって、いつからかイラストを描いては仲間内で見せ合いっこをしていた年があったなあ。
 綺麗なものを書きたくて。お金にならないのがわかっていても誰かに見てもらいたくて。

 初めまして、とは言わなくていいかな。私はあなたを知っているし、あなたは私が知っていることを分かっているはずでしょうから。
 だからこそ、ごめんなさい。

 白シャツからのぞくほっそりとした綺麗な腕。羨ましいな。あれが健康的な腕なんだ。
 夏が恨めしい。この暑い季節をもう二度と生きられないことが悔しい。

 あなたに不快な思いをさせてごめんなさい。重苦しかったわよね。私は夏を楽しみたくて、あなたの姿に恋をしたとんでもない怨念なの。ゴースト、って言われるかもしれない。

 1mくらいあるひまわりが墓地を囲むように咲いている。太陽に向かって。風に揺られて頷くように、笑うようにしているのが、どこか羨ましくて。

 画面でしか見たことないのに恋をして、いつか会えたらって願っていたら、あなたの夏を観察していた。これじゃ、正真正銘のストーカーだわ。

 言い切ってあの日のように笑い込み上げる。思いっきり笑ってみせた。にっこりと、頬を刻んで。
 足を滑らせた石階段のときのように体が軽くなってきた。日差しが目に眩しくて、落ちついた表情で何か呼びかけるあなたの声が聞こえない。太陽で目が枯れなかった。これだけ暑くてまばゆいのに。

 亡霊になっても、この暖かさは本物だよ。体は冷たいけど、恋の温かさは本当だよ。

「僕には伝わったよ。君のぬくもりが」
 よかった。

「ブルべ、ブルべ」

 あなたが叫んでいる。こんな私の為に駆けつけてくれた。

 ありがとう、恋をさせてくれて。
「忘れないよ!」

 体が急激に軽くなる。風呂に沈んだコルクの栓が浮かび上がるように青い空に体が舞い上がる。
 視界が彼から離れていく。
 でも、後悔はしない。あなたは名前も分からない私のことを呼んでくれた。
 ブルべ、青白い。
 ……まるで私の、今年の夏みたいね。にっこり笑ってみせる。

「君が恋をしてくれたことを、僕は忘れないから」

 かすれた声が消えかける。

 ありがとう。

 青白い夏だった。私にとってはこの青白い夏が一生のように思えた。一生の恋をした気分になれた。
 今も花火の破裂音が聞こえる。あの綺麗な花火に照らされたあなたのことを思い出している。

 私も、忘れないわ。

 空は今日も青い。私はその下で彼との別れを成し遂げた。
 忘れないわ。私があなたに落とした恋を。
 夏の終わり、八月某日。今日も鳴き止むことを知らない蝉時雨の合唱と一緒に、夏に見る蒲公英の綿毛のように、サイダーの泡のように少女はほろほろと天に舞い上がっていくのだった。
 その温かい恋を彼の胸に残したまま。

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