見出し画像

人を喜ばせる為に自分が嫌なことに耐える癖をやめる

親を喜ばせるために、嫌な事を敢えてしていた。そういう事、ありますか?

私はあります。

記憶の中ではっきりとそれをしていたのは、幼い時に男の子っぽくする事で姉と差別化を図ったり、母が喜ぶ気がしたり、意図的に男の子っぽくしていた面があります。本当は女の子らしく可愛いくしたかったのですが。

これは、親に責任はないと考えています。子どもなりに、自分で考えて生存戦略として選んだ事だからです。例え親の期待があったとしても、自分の要求を突き通す選択も出来るからです。また、親が期待していること自体が子どもなりに考えた事で、親の要求を正しく理解できていない場合もあるからです。

ただ、その影響なのか、私は大人になった今でも相手がこう答えて欲しいだろうと思う事を断る時に、息が詰まりそうになることがありました。

その為に、自分の本当の気持ちを伝えられなかったり、時には本当にしたい事と逆のことをする事になってしまったりして、自分が苦しくなることもありました。

(逆に相手の意図が予想出来ていないと驚くほどストレートに相手の予想を裏切る事を言ってしまう事もあるのですが。。。)

まずは、その癖を治して、自分が安心できて、相手の気持ちにも配慮して、自分の気持ちを伝えられるようになりたいです。

また、子育てをする身としては、過度に子どもにどうなって欲しい、こうなって欲しくない、という思いを持たないことが大切かなと思います。

ただ、そうは言っても親はいろいろな期待を子どもに対して持ちます。また一律にこういう期待の仕方がベストですと言えるものでもなく、子どもの能力や興味関心に合わせてバランスよく適度な期待を持つことは簡単ではないです。

また、親自体の能力にも差があるので、期待のかけ方が上手な親と下手な親がいますし、親子の相性によってもそれが簡単な場合と難しい場合があります。

また、そもそも親子関係だけが子どもの居場所であることは、親の影響が強すぎるというリスクがあるので、もっと広い人間関係が必要だと思います。

関わる大人が少ないと、その少ない大人たちの期待が子どもにとって大きいものになってしまいます。

例えば、親の期待に応えられないと死ぬ。。。みたいな事です。(大袈裟ですが、親の期待は子どもにとってはそれくらいの重みがある場合があります。私が予想した他人の期待に反したことを言うと息が詰まりそうに感じるのはこれに起因していると思います。)

逆に、いろいろな大人が生活の中で普段から子どもに関わってくれると、子どもの中で、まず依存先が広がります。

母、父、おじいちゃん、おばあちゃん、先生、おじさん、おばさん、近所の人、、

そうすると、子どもへの期待も広がります。

例)
母の期待 男勝りな私
父の期待 生活習慣をきちんとする私
祖父の期待 大人に迷惑をかけない私
祖母の期待 幸せな私
先生の期待 勉強を頑張る私
おじさん 特に期待はないけど温かく見守ってくれる
おばさん 特に期待はないけど、お話をしてくれたり、ご飯を食べさせてくれたりする
近所の人 特に期待はないけどお菓子をくれたりイタズラをしたら怒ってくれたりする

この人に認められなくても、他に認めてくれる人がいる状態になります。そして、いろんな人がいろんなレベルの期待を自分にかけてくれると、一つの枠に自分を当てはめなくても生きていけるようになります。

以上、まとめると、自分の例から、幼少期の間違った思い込みや考え方の癖は、大人になっても自分を苦しる事があります。

その時間が、もったいないな、初めからなるべく偏りない考え方を獲得していたら、楽しく幸せに生きられる時間が増えたのではと思います。

その間違った考え方の癖が、親子関係に起因する場合があります。また、こどもが家庭という狭い人間関係の中にいる事も原因の一つかもしれません。

これから生きる子どもたちが、より幸せであるために、より多くの人が普段の生活から子供に関わり育てていく社会にしたいです。

その価値観を広めたり、またその事に対して何かできる事はないか考えたりしていきたいです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?