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道徳教育押し付け打破のために

 学習指導要領に沿って道徳授業を行えば、当然、徳目を押し付ける授業となる。このような授業形態は、戦前の教育には適していたのだろう。正しいことはお上が決め、下々の者はそれに従うのが正しい道徳的価値とされたからである。学校では先生の権威が絶対であり、先生の言う通りにふるまう児童が『ヨイコドモ』とされた。

 しかし、戦後の教育民主化により、戦前の価値観は否定された。そして、内心では戦前の価値観の復活を望む人々といえども、民主主義を否定することはできなくなった。これは、差別意識をもっている人でさえ、公には人種差別や身分制度を肯定することができないのと同じで、人類の進歩と共に真理とされたものだからである。

 これこそが彼らの最大の弱点であると考える。官邸であれ、文科省であれ、正面から真理を否定することはできない。本心ではないにしても、「価値観の押し付けはいけない。子どもを主体として、考え、議論することが大切。」と言わざるをえない。
 我々は堂々と「価値観を押し付けない、子どもを主体とした、考え、議論する道徳」を行えばよい。教師も生徒も本当に「おもしろい」と感じるような道徳授業を行えばよい。生徒たちも本当は、自分の頭で考えた自分の意見を言いたいのである。姑息にも教師が価値観の枠を決めて誘導するのではなく、本当に「考え、議論する道徳」を行えば、必ず指導要領が目指す価値観からはみ出した議論になる。本音の意見の応酬、そして本当に子どもたちのためになる授業を行えば、指導要領が目指す価値観に収束するわけがない。

 自分自身の良心と日本国憲法に従うならば、指導要領に沿った授業はできないというのが私の結論である。「指導要領に則った授業をすると憲法違反になってしまう」と私は考えている。
 教育は基本的人権の1つであり、企業や政府の役に立つ人材を育成するために行われるのではなく、一人一人の子ども個人の権利として与えられるものでなければならない。よって教師は、(本来は当たり前の話だが)「指導要領に沿っているか」ではなく、「この子たちの成長のためにはどんな授業をするべきなのか」を考え、授業を構築しなければならない。つまり、「あなたの授業は指導要領に沿っていない」と言ってくる指導主事や管理職の方が憲法に違反している。

 とはいえ世の中の動きは「正しいか、正しくないか」ではなく、力関係で決まっていく。職員室で「指導要領は憲法違反だ」と声高に叫んでも現実は変わらない。そこでまずは自分自身が確信をもち、ブレないこと、そして誇りをもって教育に当たることが大切だ。
 あとは道徳教科化の背景にあるものを、少しずつ地道に拡散していかねばならない。「なんとなく道徳教科化はヤバイ気がする」というイメージだけではなく、根拠をもって「これは違憲である」ということを伝えていきたい。

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