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美しき“貴公子”ディヴィッド・キッド 数奇な運命、たどり着いた京都 連載・ボウイの秘密#3

 デビッド・ボウイが京都に住んでいたというのは、やはりデマだった。ボウイは、同じ名を持つディヴィッド・キッドという人物の邸宅「桃源洞」を訪れていたのだった。表舞台にはほとんど顔を見せなかったというキッドの、流転の人生が浮かんできた。(THE KYOTOライター/文化部編集委員・樺山聡)

 1996年11月27日にニューヨーク・タイムズ(NYT)の美術面に、キッドの追悼記事が載った。それによると、キッドは同月21日にハワイのホノルルで亡くなった。彼の死去は当時、日本の新聞に載ることはなかったが、功績を振り返るNYTの長文記事は、中国や日本の文化に精通し、外国人だけでなく日本人にもその神髄を伝えた道筋を紹介した。

 晩年、彼は季節によって京都とホノルルの邸宅を行き来していた。享年69。死因は、がんだったという証言も記事は伝えている。

 「David Kidd,Lover of Asian Arts,Dies at 69」

 「アジア美術を愛した男」。見だしにはそうあった。

 「それは数奇な人生をたどった人物でした」

 キッドと生前親交のあった人々はそう振り返った。

 ボウイの「都市伝説」を探る目的で始まった取材だが、私はいつしか、謎に満ちたキッドの生涯に引きつけられていた。数奇な人生とは何を指しているのか。そして、どのようにして京都の地にたどり着いたのか。

 キッドの自伝的小説とされる『北京物語―旧中国の崩壊と新中国誕生の歴史秘話』(1989年、世界文化社)があるのを知った。ニューヨーカー誌に短編小説を発表していたキッドがニューヨークで刊行した『Peking Story』の邦訳版という。

『北京物語―旧中国の崩壊と新中国誕生の歴史秘話』の表紙

 その著書に、若い頃のキッドの写真が掲載されていた。それは、中性的な美青年で、どこかボウイを思わせた。

 著書によるとキッドは1926年、米国ケンタッキー州生まれ。ミシガン大で中国文化を学んだ。

 戦後の1946~50年に交換留学生として北京で暮らしたことが大きな転機になる。

 北京で元中国最高裁判所長官の四女エイミーと結婚する。しかし、間もなくして、毛沢東による「共産革命」によって中華人民共和国が樹立された。豪邸に暮らし、召し使いが何人もいる特権階級の一家の没落を目の当たりにする。

 1951年、妻エイミーと母国の米国に渡った。エイミーはコロンビア大で化学を専攻し、野心と並外れた頭脳で新たな道を切り開いていくが、キッドは当時の米国に吹き荒れていた、共産党関係者を弾圧する「赤狩り」にさらされる。以前在籍したアジア研究所で中国美術史を教えたが、共産国で過ごした経歴が疎まれる。

 〈自分の国にいながら追放者のような気持ちを味わっていた〉

 アジア研究所は閉鎖が決まり、職に困った。2人の溝は深まり、キッドは妻と別れ、新天地に日本を選んだ。

 なぜ日本だったのか。

 『北京物語』によると、当時の茶道裏千家家元、千宗室との出会いがきっかけという。戦後間もないクリスマスイブの京都を訪れた場面が美しい情景描写で回顧されている。

雪が降り積もるキッドの邸宅「桃源洞」入り口。ここをボウイも訪れたという 撮影・打田浩一

 〈昭和26年12月24日、薄く雪化粧をした、静かだった町並みの京都で私を温かく迎え入れて、今日庵で『茶の心』を教示頂いた〉

 『北京物語』では、ほかに華道の小原流3代目家元の小原豊雲や大徳寺の塔頭如意庵の住職を務めた立花大亀、大本3代教主の出口直日への謝辞が述べられており、京都文化との深いつながりをうかがわせる。

 しかし、その著書に、来日して以降のことは、ほとんど触れられてはいなかった。キッドはどのようにして「桃源洞」に至ったのか。関係者をたどると、ある宗教団体との結びつきが浮かんできた。(次回は22日に公開予定です)