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家康家臣団のゆかりの地をたどる② 洛中洛外を(もっかい)(一人で)あるく・その陸

 2009年4月から1年間、京都新聞市民版で連載した「中村武生さんとあるく洛中洛外」。京都在住の歴史地理史学者の中村武生さんが、京都のまちに残る秘められた歴史の痕跡を紹介する内容だった。連載当時、中村さんと京都のまちを歩いた担当記者が、今度は一人でもう一度、興味のむくままに歩いてみた。

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家康を支えた二人の忠臣

 松本潤さんが徳川家康を演じるNHK大河ドラマ「どうする家康」。16日に放送された第14回では、織田信長(演・岡田准一)の最大の危機ともいわれた「金ケ崎撤退戦」に至る過程が描かれました。義弟・浅井長政(大貫勇輔)の裏切りで過酷な状況に置かれた信長。

 そして撤退戦に向けて結束を強める家康の家臣団。 ドラマの大きな魅力のひとつとなっているのが、この個性あふれる家臣団ですよね。今回は前回に引き続き、京都に残る家康の家臣たちの足跡をたどってみましょう。

 この項では、家康の家臣たちの、ドラマではまだ描かれていない人生を紹介しています。いわゆる「ネタバレ」にあたると感じられる方もおられるかと思いますので、これより後を読まれるにあたっては、そのあたりをご理解いただきますようよろしくお願いします。

徳川四天王・酒井忠次と京都

 「どうするー」では、大森南朋さんが演じる酒井忠次(左衛門尉)。「徳川四天王」にも列せられ、側近中の側近として家康を支えました。家康が小牧・長久手の戦を経て、豊臣秀吉に臣従した後、忠次は家督を息子に譲り、京都で隠居します。眼病で視力が衰えていたといい、隠居の折には秀吉から、屋敷と滞在費と身の回りの世話をする女性を用意されたといいます。その屋敷が、「京都桜井屋敷」でした。

 忠次が隠居したのは1588(天正16)年秋とされています。この年の春に後陽成天皇が関白・秀吉の聚楽第に行幸しました。聚楽第周辺には、有力大名らの屋敷が立ち並んでいましたから、家康第一の忠臣たる忠次の屋敷も、聚楽第と遠くない場所にあったと思われます。そこで、地名を調べてみると、上京区に「桜井町」なる地名があります。現在の五辻通を下がった智恵光院通沿いにあります。

桜井町周辺(京都市上京区智恵光院通五辻下ル)

「桜井」と「首途八幡宮」の伝承

 現地を訪れてみました。公園があります。その名も「桜井公園」。「桜井」の地名は、かつてここに「西陣五名水」のひとつ「桜井」があったからだと言われています。公園の奥には、その由来に沿ってでしょうか、井戸が再現されています。

桜井公園。割と広いです

 公園の南側には、「首途(かどで)八幡宮」というお社があります。もとは宇佐八幡宮から勧請された八幡宮だったようです。平安時代末期、源義経が奥州・平泉へと赴く際に、案内を頼んだのがこの地に屋敷を構えていた商人・金売吉次かねうりきちじでした。義経は屋敷内の八幡宮に、旅の安全を祈願したといいます。この伝承から、首途八幡宮の名称があるようです。 

首途八幡宮の参道入り口

 せっかくなので、八幡宮をお参りしてみましょう。鳥居をくぐって奥へと進むと、石段があります。上がっていくとお社があります。周囲は平地なのに、お社のある場所だけ高まりとなっているのが興味深く、まさに「旅立ちの神」らしさを抱かせてくれます。

周囲の状況からすると自然地形ではなさそうですが、
こうした地形にテンションが上がるタイプです

 酒井忠次は、この辺りにあった屋敷で生涯を終え、京都市内で埋葬されました。

墓所は家康ゆかりのあの寺の塔頭

 酒井忠次の墓所は、知恩院塔頭の先求院せんぐいんにあります。知恩院は、京都市東山区にある浄土宗総本山です。浄土宗の信徒だった家康は、亡くなった母・於大の方の永代菩提寺を知恩院に定めました。家康、2代将軍・秀忠、3代・家光の治世に、現在の寺域が定まりました。知恩院は京都における「家康の寺」と言えなくもありません。徳川四天王筆頭の忠次がその塔頭に眠るのもうなずけるというものです。

 さて、先求院を訪ねてみましょう。東大路の知恩院前交差点から古門前通を東に進むと、先求院はあります。門前に酒井忠次の墓所がある碑がありますが、非公開となっているようです。仕方がありません。一礼をして、次に向かいます。

酒井忠次の墓所を伝える先求院門前の碑

親子二代で家康に仕え、忠義に殉じた将

 続いては、同じく東山区にある養源院を訪ねます。養源院は、豊臣秀頼の母・淀殿の創建で、父・浅井長政の供養のために創建しました。近くには三十三間堂や法住寺、京都国立博物館、豊国神社、智積院などがある歴史エリアの一画にあります。ここにゆかりがあるのが、鳥居元忠です。

 鳥居元忠は、ドラマ「どうする家康」では、音尾琢真さんが演じています。イッセー尾形さん演じた父・鳥居忠吉と二代にわたり、家康に仕えた忠義者として知られています。

 元忠は「徳川十六神将」にも名を連ね、数々の戦いに参加、家中での存在感を高めていきます。が、厳しい事態の対応に迫られる時が訪れます。1600(慶長5)年6月に家康が、上杉景勝を討ち取るために奥州へと出立、元忠は伏見城の守りを命ぜられました。

 家康は自身が上方を離れることで起こりうる事態を予測していたのでしょう、出発直前に元忠と酒を酌み交わしながら、少しの兵しかあずけられないことを元忠に詫びます。その際に元忠は「もし何かあったら、城を枕に討ち死にするほかない。多数の兵は無駄になります」と答えたといいます。ちょっと、もう泣きそう。

血に染まった伏見城

 不安は的中。家康が上方を離れた約1カ月後、石田三成率いる大坂方が挙兵します。狙うは徳川家康の首。大坂を発った軍勢は伏見城を取り囲みました。関ケ原の前哨戦・伏見城の戦いです。元忠は伏見城に籠城し、大坂方の攻撃を防ぎながら10日間にわたって持ちこたえますが、そこは多勢に無勢、大軍勢の勢いに吞まれるように伏見城は落ちました。

 元忠の最期は、敵方の鈴木重朝(紀州・雑賀衆)に打ち取られたとも、切腹して果てたともいわれます。城兵数百人も果て、城は焼亡したといいます。落城後の城内は、討ち死にや自死した兵の死体で満ちていたそうです。彼らから流れた血は、城の床板を染めました。

 そうした床板は、供養のために寺院の天井板として用いられたのだそうです。それが養源院などに残る「血天井」です。伏見城の「血天井」と呼ばれるものは、京都市内にも数カ所の寺にあるのですが、養源院のものが最も有名かもしれません。

養源院の本堂。血天井が貼られている

 養源院の本堂に入ります。俵屋宗達や狩野山楽が描いた障壁画や血天井について、寺の職員さんが丁寧に解説をしてくれます。「元忠が自害した痕」なども認められ、本当に武士たちの血痕ならば、すさまじいものだなあとの感想を抱きました。なお、養源院が参拝できる日は限られています。同寺のインスタグラムで告知されていますので、訪れたい方はチェックをおすすめします。

 元忠の首は大坂城の京橋口にさらされましたが、親交のあった商人が、葬ったとあります。現在の墓所は、「百万遍」で知られる知恩寺(京都市左京区)内です。塔頭・龍見院に葬られたとされ、知恩寺北側にある墓所を、訪れることができます。ちなみにこの墓所には、ほかにも著名な方が眠っています。調べてみるのも良いかもしれませんね。

知恩寺にある鳥居元忠の墓。以前の連載で「鳥居だけに鳥居がありますね」なんて話していた

 元忠の墓は、墓地内に入って突き当りを左に行きます。すると、鳥居と囲いを備えた大きな墓が目に留まるでしょう。ここに、元忠は眠っています。以前の連載でも、中村武生先生と訪れたのを思い出しました。

 今回は、京都にゆかりのある家康の家臣2人を取り上げましたが、今後も家康の家臣たちと、京滋のかかわりについて、機会があればご紹介したいと思っています。それでは、また次回。


佐藤 知幸

前回、鳥居元忠の墓を訪れた際のお話は、これに収録されています


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