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洛中洛外を(もっかい)(一人で)歩く 「六波羅探題」って?

 2009年4月から1年間、京都新聞市民版で連載した「中村武生さんとあるく洛中洛外」。京都在住の歴史地理史学者の中村武生さんが、京都のまちに残る秘められた歴史の痕跡を紹介する内容だった。連載当時、中村さんと京都のまちを歩いた担当記者が、今度は一人でもう一度、興味のむくままに歩いてみた。

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その弐 六波羅探題ってなんだ?

 NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が佳境を迎えている。20日に放送された第44回では、3代将軍源実朝襲撃事件直前の様子が描かれた。今後は、小栗旬さん演じる北条義時と、尾上右近さん演じる後鳥羽上皇が激突する最大のクライマックス「承久の乱」へと突き進んでいく。

 承久の乱とは一般的には1221(承久3)年、後鳥羽上皇の朝廷方が北条義時追討を目指し挙兵したものの、義時率いる幕府軍に敗れ後鳥羽はじめ3上皇が配流された戦乱であり、武家と朝廷の関係性を考えるうえで、武家政権盤石の基礎となったと理解されている。

 承久の乱をきっかけに鎌倉幕府による朝廷監視と西国統治のための出先機関が設置された。それが六波羅探題だ。六波羅探題は「北方(きたかた)」と「南方(みなみかた)」の2人が任命された。任命されるのは北条一門の有力者で、地位は政権トップの「執権」、その補佐人「連署」に次ぐポジションだ。

 初代の六波羅探題は、「北方」が「13人」では坂口健太郎さんが演じる北条泰時、「南方」は瀬戸康史さんの「トキューサ」こと時房だ。泰時は義時の息子、時房は義時の弟で、泰時と時房は甥と叔父にあたる。承久の乱において2人は大将軍に任じられ、19万騎ともいう大軍勢で上洛。朝廷方に大勝した結果として、戦後処理と京の統治を行うことが当初の役割だったのだろう。

六波羅探題はどこにあった?

 「六波羅探題」はどこにあったのか。答えは簡単。六波羅である。じゃあ六波羅ってどんなところなのだろう。一般的には、六波羅とは現在の京都市東山区の一部で、南北は松原通(かつての五条通)ー六条通、東西は東大路ー鴨川を囲むエリアと考えていいようだ。このエリアの東側には当時の葬送の地だった「鳥辺野」が広がっていたため、平安期には寺院などが建っていたらしい。

  さて、現地を歩いてみよう。まずは六波羅探題跡の碑を訪れる。これは六波羅蜜寺の境内に建っている。六波羅蜜寺といえば、念仏信仰の先駆とされる空也上人の創設で知られる。歴史の教科書の図録で誰しもがインパクトを抱いた「口から仏像を飛ばすお坊さん」の像でおなじみだ。

六波羅蜜寺境内に建つ六波羅探題跡を記す標柱

 近くには「あの世」へと通じる「六道の辻」がある。東に坂を上ると、地獄の入り口があるとされる六道珍皇寺に至る。もちろん、葬送地・鳥辺野はその先だ。「死」や「あの世」を身近に感じさせる。幽霊子育て飴のお店もあるし、老舗の町中華もある。六道の辻、飽きさせない。町中華で昼食をいただくことにした。

 なんとも趣のある店内に入り、メニューを見る。六波羅丼なる料理を見つけた。頼まざるを得ない。ほどなくして運ばれてきたのは、ご飯の上に、甘めの餡をからませたタマネギやニンジン、エビや肉の乗った丼。パンチの効いた味付けで、うまい。大満足である。

その名も六波羅丼。閻魔様もびっくりのボリュームだ


西国支配の重要拠点

 六波羅蜜寺のホームページによると、広大な寺域を有していた同寺に平安後期、平忠盛(清盛の父)の軍勢が駐屯し、屋敷を構えたことをきっかけに平家一門の屋敷が広がっていったという。往時には、本堂を取り囲むように5200もの平家の屋敷があったらしいのだが、いわゆる「平家都落ち」の折に本堂もろとも焼失したという。

 平家滅亡後、朝廷から源氏に下賜された六波羅の地。鎌倉幕府はここを足掛かりとして「京都守護」という役職を設け、朝廷との結びつきを強めていく。ちなみに京都守護には義時の父・時政や平賀朝雅などが任じられている。「鎌倉殿」源頼朝が上洛した折に宿泊する邸宅も、六波羅に建てられた。

 そして先述のように承久の乱を経て、「京都守護」は「六波羅探題」へと役割を変えて、北条一門による西国支配の本部として機能した。だが、1333(元弘3)年、後醍醐天皇による挙兵鎮圧のために派遣された足利高氏(後の尊氏)の寝返りで、炎上。その歴史を終えた。

優秀な人材は向こうから仕事がやってくる

 といっても、鎌倉幕府における西国支配の最重要官庁だったのだから、そこで働いていた官僚や在京の御家人たちは有能だ。「六波羅探題 京を治めた北条一門」(森幸夫 吉川弘文館)によると、後醍醐親政(いわゆる「建武の新政」)や、その後の室町幕府などに設けられた組織でも、六波羅探題で働いた人たちが採用されているのが確認できるという。新政権の要として、まずは有能な官僚がリクルートされたのだろう。仕事ができるに越したことはないのは、今も昔も変わらない。かくありたいもんである。ではでは、次回にまたお会いしましょう。


佐藤知幸

かつての連載を書籍化した「中村武生とあるく洛中洛外」はこちら