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京都工芸研究会 ロング・インタビュー #001 竹工芸 小川進(竿頭斎)さん

京都工芸研究会では,ベテランの会員さんに工芸の仕事や今までのあゆみについてじっくりとお話を伺う「ロング・インタビュー」を企画しました。その第一弾として,竹工芸の小川進(竿頭斎)さんをお招きして,竹工芸を志すきっかけや修業時代のエピソード,作り手に求められる資質について伺いました。
小川さんは高校卒業後に石田正一氏(竹美斎 特別会員)に師事し,竹工芸歴55年の大ベテラン。月に1回の「竹編組勉強会(現在はコロナ禍により休会中)」では若い作り手と交流して丁寧な手仕事の楽しさを伝えておられます。
記事は,インタビューを書き起こした原稿に,小川さんが後日あらためてお手紙でコメントくださったものを「後日談」として付記しました。文体に独特の魅力があるので,極力原文のままで掲載します。

小川氏の作品と制作用の型など(竹工芸展より抜粋)

道具と整理整頓への徹底的なこだわり

編:さっそくですが,研究会の中でも小川さんはお仕事の丁寧さで評判ですが,竹工芸のお仕事をされるうえで,心がけていることを教えてください。

小川:「あまり機械化の方向へ進まない。自分の手で仕上げる事を楽しむ。」という心でいますが,ほとんど趣味の範囲を出てないように思えて,毎日竹工芸に取り組んでいる人に対して申し訳ない気持ちがあります。
少し作家活動みたいな事をやりかけた事もありますが,どうも自分の目指す方向ではないと感じて,やめにしました。
お金を稼ぐという面では,大学進学を止めて竹工芸の道へ進む事を決めた時に「貧乏は覚悟の上です」と言って以来,どうもお金の計算はどこか間抜けな所があるようです。学校では算数も数学も得意だったんですが,どうなっているのでしょう……。

 道具については,こだわらない作り手もいますが,やはり良い仕事をするには良い道具が必要だと思います。よく「工芸は技術だけで元手がかからないもの」と思われがちですが,目の肥えたお客さんほど「道具」を見ます。例えば,接着剤を大きな容器から直接使っている人もいますが,手間がかかっても私は少しずつ小瓶に移し替えてから使っています。そのほうが細かい仕事がしやすいし,接着剤も長持ちするのです。小さなことかもしれませんが,上等な道具を使いこなしているか,手入れや整理整頓が行き届いているか,良い仕事にはそれが大切なことだと思います。

道具は吟味され,手作りのものも多い。

後日談:
 石田さん(師匠)は「竹工芸(篭作り)は道具が少なくてすむ」と言わはるのですが,実際はお父さんがもっと有名であっても不思議ではない名人だったので,道具も編み方見本もたくさん残しておられました。趣味でやるぶんには他の工芸でもそんなにたくさんの道具を揃えるわけにはいかないのでしょうが,竹篭作りにおいては少なくて済むのはその通りかもしれません。
 平成18年の4月末~6月初めにかけて,滋賀県の野洲市にある銅鐸博物館で杉田静山さん(竹工芸作家。滋賀県無形文化財保持者。1932〜2017)の作品展があったのですが,竹編組勉強会(※1)のメンバーの朏貴司男さんが「車で行くから一緒に行きましょ」と誘ってくれはったので,連れて行ってもらったのです。その時に道具についてまとめたレポートを杉田さんに差し上げたのです。後日「ボンドを小瓶に移し替えて手元に置いておく」のくだりを「今まで気づかなかった。便利になった。」と喜んでもらえました。さらに「ピンバイス」についてお礼の手紙にご質問が書いてあったので,新しいものを一つ送ってあげたのです。再びお礼の手紙に「色々な道具がある物ですね。便利に使わせてもらいます。」と書いてありました。「何かお礼をしたいけれど……」と書いてあったので,笹の葉で包んだでっちようかんを所望したところ,ここのが一番というものを送ってくださったのです。その後,亡くなられるまで年賀状のやりとりが続きました。
 竹細工の道具とは思えないものが意外と便利だったりするので,ラボフェス(※2)のお手伝いをしてくれた人に,あるとちょっと便利な道具をお礼にしたのですが,先の利くピンセットは朏さんに特に好評でした。
※1 京都工芸研究会の竹工芸会員で月1で実施している勉強会
※2 京都市産業技術研究所のイベント「京都ラボフェス@産技研」

小川進(竿頭斎)氏 聞き手:京都市産技研 比嘉・竹浪

子どもの頃から”工作好き”

編:小川さんは竹編組勉強会でも,作業だけでなく材料の下ごしらえや設計図に至るまでとても精密なのでいつも驚きます。元々手先が器用だったのでしょうか?

小川:飛びぬけて器用というわけではありませんでしたが,子供の頃から工作は好きでした。道具を買うお金が無かったので,鉛筆削り用の小刀を使って,よく紙工作をしていました。紙ヒコーキは山ほど作りましたね。ボール紙で四角い箱をたくさんこしらえて,西洋のお城のような建物も作りました。

後日談:
 このごろドールハウスを趣味にされている方が多くて,作品展を見たり作品集の図書を見たりすると「とてもかなわないな」と感じることが多いです。
 小さい時に折り紙の馬を作ったり,船を作ったり,それをたくさん並べて騎馬隊の隊長の想像をしたり,艦隊の司令官になったつもりになって遊んだりしました。同じものを100以上作って並べるのですよ,それなりに上手になります。
 世代が違うと「当たり前のことがわからなくなる」というか,今では当たり前だけどもそれ以前は当たり前でなかった事に気がつく事があります。団塊の世代の子どもの頃にはカッターナイフが無かった。接着剤の使い勝手の良い物が無かった。主な接着剤は「セメダインB」の時代で,強く締め付けて乾くまで一晩。乾いても縮んで引きつれてしまう。木工用ボンドはまだ無くて,セロテープは私が小学生の頃に売り出されたけれど,随分高いものだった。しかも使って時間がたつとセロの部分がパリパリになって剥がれてくる。学校工作用のでんぷんのりは「色紙を画用紙に貼る」くらいの役には立つが,ボール紙をくっつけるのは無理。そう言えばダンボールは小学生の頃にはあまり見なかった気がします。
 先日テレビで見たのですが「人間の運動神経は,生まれつき良い人とか悪い人とかが決まっているわけではなくて,小さい時からの訓練とか繰り返しで良くなったり良くならなかったりする」というような事を言ってました。器用,不器用も同じように小さい時からの繰り返しの訓練なのかもしれません。
 ただ,目の見え方(細かいところまで良く見える,とか)と言うのは,目の分解能が人によって違っているような気がします。昔のテレビの走査線より今のテレビのほうが細かいですし,4Kテレビとか8Kとかはさらに細かくなっているように,人によって違っているような気がします。

就職活動の際に自己PRとして製作した「連鶴」。丸い容器の直径は5cmに満たない極小サイズ

竹工芸への入門

編:好きなことをお仕事にされたのですね。工芸には様々な分野がありますが,竹工芸の道を志そうと思ったのはなぜですか?

小川:高校の修学旅行で九州に行った時,鹿児島や別府で竹細工の籠などを見たのがきっかけです。籠やザルなど,ひとつの材料で作れる商品が多いことに魅力を感じました。受験勉強が嫌いだったというのもありますね(笑)。

後日談:
こういったご質問には「高校の修学旅行で九州に行った時,鹿児島や別府で竹細工の篭を見て」と答えることが多いのですが,人生の選択の中でも随分重大な選択がそんなに簡単に決められるものでもありませんので,もう少し掘り下げて考えてみますと,まず第一に大学の受験勉強がうまくいかなかった事があります。浪人必至の成績だったし,浪人しても受験勉強がうまく出来るとも思えなかったのです。勉強が嫌いなわけでもないのですが,科目に好き嫌いが多かったり,コツコツやるとかが性に合わなかったりで,失敗が目に見えていたのです。しかもその後,会社勤めなどを思い描いていても破綻することが目に見えていたのです。何か自営業と考えても,規則正しい生活と無縁の自営業など想像できません。一番出来そうなのは,手仕事を自分のペースでやる事くらいでした。
 私は色覚に難があって(今は差別用語扱いされているかとも思いますが,自分のことだから構わないでしょう)手仕事ならなんでもというわけにはいきません。竹篭作りはあまり色覚を問題にしないのです。もちろん「全然関係なし」という訳にはいきません。説明して「色付けはできない」のは納得してもらっていました。時々失敗もしました。何かのかげんで赤味の出た竹が混ざっているのに気付かずに,編み上がってから「それ何や!えらい赤い竹が混ざってるな!」と怒られたことがあります。怒られても,どこに赤い竹が混ざってるのか,さっぱり分かりませんでした。
 団塊の世代の頃には,まだ大学進学率は今ほど高くなくて,高校へも行かずに就職する子たちが,地方から都会の就職先へ一斉に国鉄に乗りやって来る様子が春の風物詩としてマスコミを賑わしたものです。当時,中学卒業生たちは「金の卵」と呼ばれていたのも今の世代の子達には想像できないでしょうね。

編:てっきり京都の竹工芸がきっかけなのかと思っていました。京都に来る修学旅行生にも,小川さんが体験されたような出会いがあるといいですね。どのように弟子入りされたのでしょうか?

小川:昔の時代でしたので,電話帳から調べて,学校を通じて京都の工房5件ほどに直接問い合わせしました。

後日談:
「竹篭作りを目指す」と決めて,まず父から京都に住んでいるいとこに話してもらって,電話帳から5ヶ所程,竹工芸をしている所を抜き出して知らせてもらいました。それを高校の就職担当の先生に渡して,学校から問い合わせの手紙を出してもらいました。「採用するつもりはあるか?勤務条件は?給料は?……。」5ヶ所出したうち3ヶ所から返事が来ました1ヶ所は「採用の予定が無い」と言うものでした。返事の来た片方が石田正一さん(石田竹美斎)のところ。もう片方が東洋竹工さんでした。勤務条件は当時,次のようなものだったと記憶しています。
 石田さんの条件は,住み込み5年間,1日13時間仕事,第1・2・3日曜が休日,祝日は仕事。月5千円の給料(こづかい),など。
 東洋竹工さんの条件は,通勤で日曜祝日は休み。8時間労働で給料は2万円と,普通に会社でした。
 その返事を学校からもらって,一人で石田さんの所へ行き,様子を見,話を聞き,「ここに決めよう」と思い,次は母親を連れて行き,細々とした段取りを決めて帰りました。卒業式を済ませ,ゆっくり休んだ後の3月13日(日曜日)が住み込み初日になりました。

編:石田さんに弟子入りした決め手は何だったのでしょうか?

小川:お手紙の字がとても綺麗だったので,魅力的に思ったんです。弟子入りした後に,その手紙は奥様が書いたとわかったのですが(笑)。

後日談:
 (時代の情景)団塊の世代が子どもの頃には,住み込みで働く事は珍しい事でもなく,地方の若者は都会に住む親戚の家に住まわせてもらって,学校へ通ったり(習い事をしたり)勤めに通ったりはよくある事でした。私が小学2年から高卒まで住んでいた大阪の家は狭い借家でしたが,父の弟,岡山の従兄弟らが次々と同居してました。
 そもそも,父が信州で仕事をしていましたが,その仕事がうまく行かずに大阪へ職を探しに行った時に,子供4人と信州に残された母が京都の姉の家にころがり込んで3年家族共々同居させてもらったりとか,住宅事情が悪かった事もありますが,一緒に住むことへの抵抗は少なかったようです。今でも「手仕事の希望者を住み込みで修業させる」事が行われたりしますが,住み込み用の部屋が別に用意されていて,親方家族と同居というのは無いようです。

住み込み修業時代

編:お弟子さんだった頃のお話を聞かせてください。

小川:住み込みで,1日13時間ほど働いて,休みは月に3日でしたが,とても大事にしていただきました。

後日談:
朝7時頃起きて,仕事場の掃除。8時過ぎに家族,先輩らと一緒に朝食。食後,新聞を少し見て仕事を始め,12時頃昼食。食後1時迄昼休み。1時から仕事。3時におやつが出て6時まで仕事。親方は6時過ぎに銭湯へ行き,帰ったらまた仕事。6時から夕食。夕食後少し新聞を見て仕事。11時頃片付けの掃除をして就寝。風呂は夕食後,9時頃に親方の許可で。先輩と2人で銭湯へ行き,帰ったらまた仕事。そのへんの決まりが,なにか不思議だった。

編:高校を卒業したばかりですと,遊びたい盛りの年頃だったと思いますが,もっと休みがほしいとか,遊びに行きたいとは思いませんでしたか?

小川:修業中はお金もないし,時間があれば仕事をしていました。まず技術を身につけることが第一です。師匠からは褒められることはあまりなかったのですが,元来器用だったせいか,仕事はいろいろ任せていただきました。でも,勘に頼った仕事だと「なぜできたのか」がわからないので,次にやっても同じものができないこともありました。勘が良いのも考えものですね。失敗を繰り返した方が,良い物ができるのです。

竹工芸展での作業風景実演の様子

後日談:
 手仕事の修業は,出来ない事を繰り返しの積み重ねで少しずつ出来るようになっていくのが普通の事なので,仕事時間が短い所では,自分の意思で休み時間に練習するようでないと一人前にはなりません。ですから仕事時間が長いのは気になりませんでした。
 ただ「第1・2・3日曜日が休み」という事で,そのように休みをもらったのですが,親方と先輩は趣味が魚釣りという事で,平日休みにして2人で魚釣りに行かはるのです。平日に一人で仕事をすると言っても「何をどうしたらよいのか」さっぱりわかりません。日曜休みを親方らと同じ平日に替えてもらいました。始めのうちこそ親方の家で休みを過ごしていましたが,2ヶ月もしないうちに,休みの前日の仕事終わりに(遅い時間ですが)大阪の実家へ帰り,大阪で休みをとって,夜,親方の家へ戻る形になっていきました。
 私が修業していた頃は竹工芸の仕事がたくさんあって忙しかったです。与えられた仕事とか,先輩の仕事の手伝いとか,次々に言われる仕事をしていました。自分で「不出来だな」と思う仕事が納品されていくのは,ちょっと心苦しかったです。
 親方から「次はこれをやってみ」と言われた仕事を必死になってやって,なんとか格好がついてホッとして。しばらく間を置いて,同じ仕事をまた「やれ」と言われて,やったら今度はうまく出来なかった時,親方から「この前はできてたやないか」と叱られたりすると「なんとなく出来たりするのは良くない」と思うのです。小器用に出来ない方が大事なのではないかと思います。

編:センスだけだと身につかない,愚直な繰り返しが大切,というのは工芸全般に通じるかもしれませんね。小川さんがお仕事をするにあたって,他にも心がけていることがありましたら,お聞かせください。

小川:気合を入れ過ぎない,ということですね。以前,息抜きに川島織物で手織り体験に参加したことがあるんです。他にも参加者がいたのですが,みなさん気合を入れて糸を張りすぎたり,筬(おさ)を強く叩き過ぎたりして,出来た織物が縮んでしまったのです。私は教わったことを守ってマイペースでやったので上手くできました。気合いを入れ過ぎないほうが身につくこともあるのです。

後日談:
八幡へ転居した時に,大工さんを頼んで仕事場の棚を作ってもらったことがありました。作業の様子をジャマにならない所からずっと見ていました。部屋の寸法を測って棚の寸法を決めると,柱にする4~5cm角の材木(樹種が気になったので尋ねたら「タモ」だという事でした)の4面を電気カンナできれいにした後,1本1本にスミ付けを始めていかはったのです。朝からお昼を過ぎてもまだスミ付けが続きます。ここで切り落とす印,横の棚板を受ける桟のはさまる場所など,一面に印を付けるだけでなく曲尺を使って4面に正確に印付けをしていかはります。私が木を切る時などは印ひとつ付けて後は鋸でまっすぐに切るだけだったので,丁寧な印付けにびっくりしました。プロの大工さんがこんなに印付けを丁寧にするのかと驚きでした。もちろん自分の仕事に取り入れて真似した事は言うまでもありません。

交流で向上する技術

 修業中の事ですが,まだ一人前はおろか半人前にもなってない頃の事です。京都竹工芸研究会(※3)は年に1度竹工展を開催していましたが,ものたりない思いの日展作家の田中篁斎さんや東竹園斎さんらが発起人になって,京都竹芸家クラブ(だったかな?)を立ち上げて,10数人の職人さんらが勉強会を始められた事があります。1年に1回だったか,展示即売会をしたり,集って話し合われたりとか,飲み会とか。何年間か続いてやめられましたが,忙しくなってやめられたのか,ヒマになってやめられたのか分かりませんが。
 それから随分経ってですが,京都竹工芸研究会と京都金属工芸研究会(※4)が一緒になって「金竹衆(こんちくしゅう)」という勉強会のようなものを金工の小泉武寛さんが「やろう!」と呼びかけられました。私は,竹工研究会の方から誰も参加しなかったら体裁が悪いと思って参加することにしたのです。はじめ小泉さんが代表の衆長となり,その後何人か衆長を代えて随分長く続きました。勉強会として見学に行ったり,展示即売会を開催したり,色々な課題を決めて皆で取り組んだり。普段別々に仕事をするのがあたりまえなので,会って話したり,作品を見せ合って批評したり,仕事の話を聞いたり。「参加する度に有意義なことがいっぱい」という訳ではないですが,時々良いことを聞いた,良い物を見せてもらった。時々あれば充分なのです。

※3 竹工芸研究会:1959年12月に設立。
※4 金工芸研究会:1959年9月に設立。2015年3月に,竹工芸研究会と京都工芸研究会(1948年10月設立)とが統合し,現在の京都工芸研究会が設立された。

後日談:
 仕事の要領とかを文章にして書き残したりするのですが,あまり役に立たないようです。初心の人には「何を言ってるのだ?」と意味が理解できないし,経験を積んだ人には「そんな事は知ってる」という風になるのです。「今,その事が知りたい」という人に「ピッタリ」とはなかなかいかないものです。よく「教えてもらう」のではなく「見て盗む」のだと言ったりしますが,親方や先輩方にも自分の仕事があるので,そんなに弟子や後輩の面倒ばかりを見ていられないのです。実際のところ,親方や先輩の仕事を見ていると「あの時あんな風にしてはったな」と何とはなしに分かる事が多いのです。どうにも分からない事は,手の空いたときに尋ねると教えてもらえる事が多いのです。
 日展の作家で後には伝統工芸展の方に移って作家活動をされていた東竹園斎さんは,石田さんのお父さんと親しかったのか,よく石田さんの店に来られて色々お話を聞かせてくれはりました。私を話しの聞き手にするのではなくて,親方や先輩と話をされるのを横から聞いているだけなのですが。ご自宅が山手の方にあるらしくて,京都の町中に用事がある時には自転車で坂を下って来はるのですが,用事を済ませて帰られる前に石田さんの店でしばらく休まれてから坂道を登って帰らはるようでした。ある時の話です。やはり作家活動をしている方らしいのですが,弟子が何人もいて,その作家の技を「自分のものにしたい」と修業をされているそうです。どうもその先生の仕事のひとつが独特で,皆の興味もその一点に集まっているそうです。ある時先生の仕事がまさにその技に差し掛かった所で「今日はここまで」と仕事を休んでしまわれたので,皆が「明日はいよいよ!」と意気込んでいると,その夜の遅くに皆が寝静まった頃を見計らって起き出した先生が,その肝腎の部分を仕上げてしまわはるのです。「見られたらわかってしまうし,真似されてしまう。弟子も辞めてしまう」のがその「心」だとか。
 東京12チャンネルのテレビ番組に「YOUは何しに日本へ」というのと,その発展番組「世界!ニッポン行きたい人応援団」というのがあります。八幡に住んでいた時には生駒の電波が入るのか,テレビ大阪配信で見ることが出来ました。今は11階建ての集合住宅で共同アンテナの力なのか管理会社のサービスなのか,テレビ大阪の番組が普通に見ることが出来ます。番組では「日本へ行って何々を勉強したい」人を招待して,その道の専門家の元で勉強させるのです。番組の事ですからせいぜい数日,長くても一週間位の勉強なのですが,番組で探した専門家が結構本気になって教えてあげているのです。商売上の秘密の部分などを「『ここは秘密だから』と番組では伏せて」内証で教えてあげたり。「自分の良く知っている事を,本気で学びたい人には話したい,伝えたい」というのがあるようですね。

空回りせずに熱くなる性格

 ついつい長い話をしてしまいましたが,そんな体裁の良い事ばかりではなく,知られてはならない黒歴史や(そんな言葉があるのかどうか)赤歴史もたくさんあります。

編:うまく作ろう,という気持ちが空回りしてしまうことはよく分かります。気合を入れ過ぎない,というのは簡単なようで難しいですよね。それもひとつのセンスかもしれませんね。

小川:でも一方で,熱くなりやすい性格なんですよ。「箱入り娘(※5)」という有名なパズルがありまして,本をちらっと見て,自分でこしらえて自分で解こうとしたのですが,なかなか解けない。躍起になって解いた後に答えを見たら,パズルの問題自体を間違えて作っていて,普通より難しいものになっていたんです(笑)。

編:それでも解けちゃったのですね!。「情熱を持ちつつ,気合を入れ過ぎない」ということが肝要なのだと思いますが,努力で身につけるのはなかなか難しいことですよね。私なんかはつい「血筋」だとか「生まれ持った性質だから」として諦めがちですが,小川さんのご家族も工芸に携わっておられたのですか?

小川:いえ,竹工芸の仕事に就いたのは私だけですが,私の叔父が満州から戻って家電製品の仕事をして,扇風機の設計図を作っていたそうです。残念ながら完成を待たずに亡くなってしまったのですが,私が六つ目編みの編組図面の本(※6)を著したときは「叔父さんの無念を晴らしたぞ」という感慨深い気持ちになりました。

これからの世代に伝えたいこと

編:最後に,これから竹工芸を志す若い世代に向けて一言お願いします。

小川:技術的な事なら,力になりますよ。でも,うーん……やめといたほうがいいよ(笑)

編:(笑)。

後日談:
 若い人は「あんな物を作ってみたい」という気持ちが一杯なのだと思いますが,仕事にすると思ったものを作ってばかりではいられません。生活の事もありますし,客の注文をこなす必要もあります。「家業を継ぐ」というのでなければ,まず定職について,自分の生活をしっかり確立してから趣味でやるのが良いと思います。人生八十年が普通になっている時代ですから,始めるのが少々遅くてもじゅうぶん時間はあります。しかしながら,若者がこんなぬるい話に心を動かされるはずがない事もじゅうぶん承知しています。唐突ですが,おしまいです。

編集後記

 小川さんはその訥々とした語り口のとおり,誠実なお人柄の方です。生真面目な中にも独特のお茶目な雰囲気があり,多弁な方ではありませんがその代わり筆まめで,竹編組勉強会では毎回直筆のお手紙を郵送でお送りいただくのですが,そのユーモアあふれる文章には事務局一同,毎回癒されています。今回もインタビューの後に追加のコメントを2回も直筆でいただきましたので「後日談」として挿入させていただきました。
 竹編組勉強会では私も参加させていただいており,小川さんのご指導で砥いだ竹のペーパーナイフでお手紙の封を切ろうとしたところ,お送りいただいたお手紙の封筒がピッチリと一分の隙も無く糊付けされていたため、ナイフの刃先すら入らなかったことに,小川竿頭斎の仕事の徹底ぶりを垣間見ました。 

現在は、買いためていた飛行機のアンティークプラモ作りを楽しんでいる(この模型も全長3cmほどの超ミニサイズ!)

取材日:2021.6.24(木)京都市産業技術研究所にて

※5 箱入り娘:木製の駒をスライドさせて,特定の駒を外に出すパズル。

※6 『竹編組模式図集・六つ目編』 発行:京都竹工芸研究会・京都精華大学美術学部(2000年3月)

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