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供養002

 三二〇年もののケプラー産ボランジェを、ジェシカの結婚式で初めて口にした時の高揚感を三日ほど引きずっていたことと、朝食に何気なく作ったフレンチ・トーストがとても美味しかったことが挙げられる。ああ、私が地球と言う人類発祥の星の、ホッカイドという土地に降り立った理由の、複数の要因のうちのふたつね。とにかく、私は先月会社に四週間の「やむを得ない事情での有給制度」の手札を、社会人人生で始めて出した。だってもう、ぜったいに地球に行こうって決めていた。誰にも止められはしなかった。雨の日だった。総務の(今年で四十二歳になる)男が、鋭利な黒縁眼鏡の奥で「やれやれ」と言いたげな表情を浮かべた。けれども、次の瞬間には「楽しんでこい」と、目尻に皺を寄せて不器用に笑ったものだから、私もうおかしくなって、総務に、「そういう顔はね、めったに出さない方が良いですよ。こういうところでね、出すんです。そうです。それで、少なくとも私をふくめた誰かの命は救われるし、遠くで宇宙開拓事業を行っている開拓者の皆さんにも、その尊さが伝わるんです。そして今降っている雨も夕方には止む」と、口走ってしまった。決して、四十を迎える筋骨隆々なスーツの男が、たまに見せる朗らかで困ったような、ふにゃっとした笑顔が好きだとは言ってない。総務はまたいつもの厳しい顔に戻って、眼鏡のテンプルを右手の人差し指と親指でつまんで顔を背けて、左手でしっしっ、と私を追いやった。骨ばった白い手。薬指には鈍く光る結婚指輪があって、より一層私は嬉しくなった。あの総務のパートナーさんとは、総務から得られる眼福のすべてについて、ゼフェレリ海の上をティーガーデン星が七巡するほどは語り合える自信が湧いた。


 そうして、月面街標準暦で四週間(地球時代で言う一か月)が経って、いよいよ私は、セントクレア・ティーガーデン系宇宙港発、ホッカイド・シンチトース太陽系宇宙港行きの、バーバンク四〇二に搭乗する。
 ワープホール移動での振動が五回、それに伴う宇宙酔いを誤魔化すために、設備のひとつであるバーでビールを飲んだが、ほどなくしてそれは便器の中で悲鳴をあげた。
「お嬢さん、可愛い顔がゲロで台無しだ……」
 にじりよってきた男にゲロまみれの投げキッスを投げかけて、求愛に応えた。自室で口をゆすいで、ベッドに寝そべりながら、部屋に備え付けてあった紙製の本をぺらぺらと捲る。(物珍しかった)
 シャワーを浴びて、ナイトケアを済まし、到着までの八時間のうち、六時間ほどを睡眠に費やすべくベッドにもぐりこんだ。このベッドってやつは、私らの祖である様々な民族たちが、それぞれのかたちで受け継いできた素晴らしい発明品だそうな。何度も彼らは地球と言う小さな島の中を踏み荒らしながら争い合ったと言うが、ベッドだけは全人類の共通点だったと言えよう。ああ、酒もか、けっして忘れてはいないよ。などと考えるうちに、意識は深いところへと沈んでいって、過去の記憶とこれからの恐れが形を成して脳内を練り歩く映像を、体感三十分見せつけられることになる。夢と言うやつだが、これに関してはいまだにわかっていないことばかりだそうだ。地球のどこかでイエスと呼ばれたひとりの青年が死んで、もう五〇六七年経ったが、それでも我々人類は、自分のことを理解しきれていないようだ。


 そうして地球。ホッカイドの大地へと降り立つ。グラグラする。酔ってる。
 シンチトース=地球圏宇宙港に到着したときは、地球・ジャパン標準時で十時を回っていた。私は空港の売店で、この土地の食用牛の肉を使用したと謳っているギュカツ・サンドと、太陽系のみで流通しているという銘柄のペリエを買った。なんにせよ、ティーガーデン星系から出たことがなかったので、どれも新鮮だった。
 空港内のベンチに座り、ペリエをひとくち。いいね、口の中が洗われる。今世紀最大の舌鼓を打つ。ギュカツ・サンドもなかなかイケる。今世紀で二番目の舌鼓を打つ。
 空港を後にする。すごく寒い。身を縮める。いくら技術と医療と科学と脳が進歩しても、人類はやはり毛のないサルらしい。
 それにしても、青空には白い汚れがひとつもなくて、地面だと思って足を踏み入れると、ずっと下に落ちていくのだろうな、と思えるほどの晴天だった。濃紺のカシミアコートと、白いカシミアマフラーがなければ、きっと今頃、その寒さのせいで泣いていた。そして、頭の上でずっと遠くまで続く、永劫に明るい孤独の淵を思って死んでいたし、その魂はティーガーデンに帰ることなく、地球に沈んでいたのだと思う。これは憶測なのだけれど、さっきほんのちょっとの間に吹き付けて、私に寒い思いをさせた罰当たりな風は、たぶんだよ、たぶんなのだけど、私をあまり歓迎していないんだろうなってことが伝わった。
 それはさておき、いくつもの理由が私を地球へといざなったのだけれど、最大級の理由を言い忘れていた。まあ単純に、私が一方的に将来を誓ったり、私に大事なことを教えてくれたひと(私のすべてと言えるひと)が、この地球にいるという。突然ゆっくり降り出して、硬い土を柔らかくしていく小さな雨粒たちみたいにもたらされたその些細な情報は、私のこころをほぐしていって、そうして私は地球へと降り立ったのだ。


 私を産み落としたはずの親たちがどこにもいないことに疑問を持った八歳の夜。トウモロコシ畑の真ん中に建つ、私だけでは少し広く感じる木の家に住んでいた。日中は面倒を見に来てくれる、畑から少し離れた区画に住むおじいちゃんと一緒に畑仕事をしながら、害虫を潰し、鳥たちを追い払いながら育った。
 生命の循環とトウモロコシとキャベツしか知らなかった私にとって、祖父の友人の娘で、今日からお前の面倒を見ると嵐みたいにやってきたそのひとは、本当に、もう嵐みたいに私のこころの作物を全部だめにした。目を奪われるという言葉があるが、きっとその語彙を当てはめるのが妥当だろう。
 パスタみたいにうねうねした真っ赤な髪の毛に、焼き立てのパンみたいで美味しそうな小麦色の肌。長い睫毛、大きな目と真っ青な目で、私を見るなり「かわいいね。私はクレスラ・サウレリディス。よろしくね」と、聞いたことのなかった、綺麗な声に私はすべてをささげると誓った。たぶんこれは動物としての本能だったのだろうと、今になっては思う。
 クレスラは、文字の書き方とか笑い方とか、走りかたとか、ヒトを簡単に死なせる技術とかを教えてくれた大事なひとになった。十年一緒にいた。
 そして、十八歳になっていくらか過ぎたある日の朝、突然いなくなった。ふたりだけの誕生日会が、まさか最後になるなんて思わなかったし、その日の朝に訊きたいことがあったし、今日の朝、何食べたいって聞かなきゃって、寝起きの吐息が好きで、その唇から漏れる、色はついていないけれど、真っ白な息を吸うための口実に、くちづけを交わしたいと思っていたのに——!
 いない。とにかく。そのひとは本当に、突然、びっくりするくらいに音もなく消えた。でも私には、収穫期を追えて、畝に残渣を埋めたりして土を整える作業をしなければいけなかったから、悲しみに暮れる暇なんてなかった。

 日中の作業が終わって、土だらけになった体を、井戸から汲んできた水で洗い流す。水たちは、私の真っ白な髪の毛を滑り落ちる。肌を伝って、最近少しだけ生えてきた毛で、大人への知らせを告げた私の性器を濡らして、地面に落ちるのを見た。そして私はたくさんうろたえた。十年分うろたえて、息が出来なくなるまで泣いたし、いかり狂った。あの人から、九歳の誕生日にもらったテディベアの腹から綿がはみ出たし、ホワイトアッシュの丸椅子がひとつダメになった。(ホワイトアッシュは固い木材で、それが自分の暴力によってダメになってしまったということがこわくなって、さらに震えたのを憶えている)もうめちゃくちゃになった。そして、ずっと裸のままで夜を越した。夜になると少し肌寒い季節(秋というらしい)だというのに、家の真ん中で涙と鼻水と汗でぐちゃぐちゃになったまま寝そべって、あのひとの夢を見ずに起きた。そしてしばらく体調を崩した。おくすりが欲しかったけれど、時折やってくる行商の老夫婦は来なかった。(その老夫婦から、生活に必要な物を仕入れていた。老夫婦はいつも大きくてうるさくてぼろっちい大きな車に乗ってやってきた)そのときのラインナップに、“おくすり”があった)その時はそういうことが当たり前だと思っていたけれど、後にやってくる男に、ようやくトウモロコシ畑の外の世界に連れ出されて、私はこの世界の広いことを知ったし、同時にあのひとがこのめちゃくちゃに広い世界のどこかにいるのがこわくなった。トウモロコシ畑でかくれんぼをした、あの暑い日々(夏というらしい)をこの世のすべてのやいばというやいばをかきあつめて、そのひとを刺し殺してやりたいと強く願った。願ったけど、その人は次の日もそのまた次の日もやってこなかった。私はこころの中のすべてのむなしさをかき集めて、ダメになったホワイトアッシュの椅子をぐーで殴った。そんな中でも、そのひとに教えてもらった、数多の大切なものごとのうちのひとつである、「明日を信じること」を、ちゃんと実践した。畑に萵苣を植えなければいけなかったから、立ち上がらなければいけなかった。でもやはりさみしくて、いつか、どこかで崇められていた大昔のかみさまに祈りながら、いくつもの夜を通った。相変わらず、夜空には月のまねごとをしている人口天体が鈍く光っていた。東の空にはこの季節に登ってくるラップトップ座が見えた。

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(その後の展開:地球へ降りたった私は、ホッカイドを旅しながら、クレスラの住む屋敷を訪れるまで、眩い日々と、その光で産み落とされた影の断片を繋ぎ合わせながら、回想を続ける。——”私”、クレスラ、総務の男、おじいちゃん、ジェシカ。それらすべてのひとが絡んだ、クレスラをめぐる因果を考えていくうちに、頭が痛くなったのであきらめた——クレスラは他惑星の、地球発祥人類ではないという設定がある。総務の男は、かつてティーガーデン星の宇宙開拓局の職員だった。地球から見て、みずがめ座方面にあるトラピスト1-gという惑星のテラフォーミング事業の過程で、クレスラを保護する。クレスラは、極寒の星・トラピスト1-gの生命体だった。彼女の正体をめぐって、ティーガーデン星宇宙開発局、月面街中央政府が絡む。——私は頭が悪いし、争いごとのすべてが理解できないので、その辺が書けない——そして、”私”が住んでいたティーガーデン星の正体も明らかになる。そこは罪人と、その末裔が住む汚れた星だった。おじいちゃんは、月面街で多くの人を殺した罪人だった。そしてティーガーデン星に流刑となった。そんな中、月面街でまっとうな人生を送っていた自分の息子夫婦が離婚する。母親に委ねられた”私”は、ヒステリックな母と奇妙な共同生活を送るが、やがて母は「犯罪者の血を引く女」として”私”を見て、私を高所からつきとばし、事故に見せかけた殺害をもくろむ。私は一生分の運を使い果たし、偶然やわらかいところに着地し、一命を取り留める。そして母のもとへ帰ると、母は泣きながら警察に取り調べを受けていたところだった。
「あの子が、うう、しぬなんて……」
「かあさん」
 警察と母は私を見る。まもなくして母の罪は明らかにされ、母はティーガーデンに流される。私もついていくと言ったが、世間が許さなかったので、私も人を殺した。最近ずっと仲良くしてくれた女の子だった。女の子の血のせいで前が見えなくて、気付いたらティーガーデンにいた。母は錯乱して留置所で頭を打ち付けて死んだ。私は母に会えなくて、女の子を殺した意味を探した。動悸が激しくなって、ついに私も頭が痛くなった。
 気付くと、私のおじいちゃんだと言うの家にいた。そこから、おじいちゃんとの共同生活が始まる。トウモロコシ畑を、大きな機械を使って、何年も手入れした。行商の老夫婦と仲良くなった。そんななか、クレスラに出会う)

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