コミュ部公開会議 議事録:「だれも取りこぼさない」ってどういうこと?


こんにちは!
コミュ部のまきをです🐻
今回は先日インスタライブで配信した、「コミュ部公開会議!」の様子を議事録としてシェアします。

「コミュ部公開会議!」参加者
まきを・味岡・いくみん・ザッキー・森 さん(サブリーダー)・清水 さん(ベニューリーダー)・つくし さん(サブリーダー)・オンラインメンバー


コミュ部公開会議


議題は「だれも取りこぼさない」ってどういうこと?です。
 
年齢や出身地、使用言語、趣味、仕事や学んでいることなどなど…
フェスティバルスタッフさんにはいろんな人がいらっしゃいます。
 
コミュ部はこれまで「だれも取りこぼさない」ということをルールに活動してきました。
しかし、「だれも取りこぼさない」とはどういうことなのか、どうすればそれを実現することができるのか、実際に考えてみるとなかなか難しい......
 
ならばこれをイベントにしてしまえ!
ということで、みんなでこの抽象的だけど大事なルールについて語り合う場をつくりました。
コミュ部やKYOTOGRAPHIEスタッフ同士の関係性について考える、有意義な時間となったので、ぜひその様子を覗いてみてください!


「だれも取りこぼさない」ってどういうこと?

まきを:以前、味岡さんがコミュ部のディスコードに投稿してくれたコメントがあって、このコメントがきっかけで、私自身もこのルールについてちゃんと考えなければいけないと思いました。味岡さん、そのメッセージを読み上げていただいてもいいですか?

味岡:メッセージを読み上げる

味岡メッセージ

まきを:「だれも取りこぼさない」ということを考えるときに、つい自分のことを忘れがちですが、自分を含めみんな誰も置き去りにしてはいけないし、されていい人もいないと思います。コミュ部でディレクション班に居たりすると、自分のことを忘れがちですが、自分もちゃんと置いてかれてると思ったら言える権利があるということを改めて確認させられたコメントでした。

「だれも」って誰?


味岡:「だれも取りこぼさない」っていうのがちょっと抽象的な表現だから、そこから見直してもいいのかなって。例えば、「ひとりひとりと向き合う」みたいな。
 
ザッキー:「ひとりひとり」という表現がとてもしっくりときた。「誰も」って対象が曖昧で、結局誰でもない感じになってしまう。主語が大きくなると、余計に対象がぼやけてしまう気がする。
 
まきを:「偏見」ではないけど先入観をもってしまう理由は、人間が情報処理できるキャパが限られていて、そのままの情報量を取り入れると人間の脳はパンクしてしまう。それを回避するために先入観とかラベリングしてしまう、といったことを聞いたことがあります。だから、使い様によってはいいものなのかもしれないですが、ときに人を傷つけたり、あまりにも間違った固定観念を抱いたりしますよね。
 
まきを:「ひとりひとり」と向き合うという考えでやっていると、どうしても大変な時があるように思います。

味岡:人間ってどうしても区別してしまう。なんかその方がやりやすい。でも時間をかけなきゃその人の事を理解できないって分かってから、区別しないことができるようになった。
 
味岡:世の中にははいい人ばっかりじゃないよ。悪い人もいると思う。だけどその人が本当に悪いことしようとして悪いことしてるのかはまた別の話だと思う。
人にはそれぞれにバックグラウンドがあり、それを想像するんですよ。例えば自分に何か嫌なことを言ってきても、「この人は何かいやなことあったんじゃないか」と思ったら、その人のことを嫌いにならず理解しようと思う。
だから基本的に僕は嫌いな人とか苦手な人がいないんですよ。嫌いだと思った時は自分が理解していない時と解釈するから。
 
ザッキー:理解さえすれば、本当にどんなどんな人も嫌いにならないの?
 
味岡:理解すれば、行動に対しての理由がつくじゃないですか。その理由が悪であったとしても、まあそれはしょうがないかと思う。
 
まきを:あ、性善説のような感じかなと思ったんだけど、行為の理由が悪くても大丈夫なんですね…
 
味岡:誰かのことを嫌っている自分が嫌いということでもありますね。僕はめちゃくちゃナルシストだと思います。笑


 
 
 
まきを:私たちが意識しない間に抑圧してしまっている人がいるのかもしれないと思います。「思っていることがあるなら、何か言ってよ」みたいな感じでみんなに意見を求めてしまって、言えない状況に立っている人がいるかもしれないのに、意見を出さなかった人たちの存在を無しにするというのは「だれも取りこぼさない」とは言えないのではないかと。
 
味岡:でも、ずっと言えない人っているよ。
 
まきを:だからこそ、そこで「ひとりひとり」が生まれるんじゃないかな。意見を出せないことと何も考えてないことは同意ではないかもしれないから。
 
味岡:ちょっと寄り添って「どうした?」っていうことが大事ってことでしょう?それはそうだね。
まきを:人によって話しやすいスタイルが違うから、組み合わせてできたらいいなと思います。
 
森(サブリーダー):私も、小学生とか中学生の郊外学習にボランティアで入ることもあるんだけど、やっぱりグループの数を3・4人ぐらいにすると割とみんな話してくれるんだよね。だけどやっぱ大人数になるとやっぱそこでは言えない子もいる。だから、少人数のグループをいくつかつくって、その中で意見を出してもらったりとかしてコミュニケーションをとるのもいいのかもしれない。
 
まきを:それで言うと、今年はコミュ部が班分けされていますよね。それが結構いいのかなと思います。全体で見ると、みんなの意見を聞くことが難しいですが、班単位の話し合いだと、いろんな人の面白い意見が出てくるような気がします。
 
まきを:みんなの意見を聞くということは、逆に言うと、自分の意見が聞いてもらえることですよね。これは、「ここにいていいんだ」という気持になることができると思っています。自分がチームに対してちゃんと影響力があり、みんな平等にその力を持っていると実感できる。そういうことが大事なのかなと思います。
 
森:本当に突拍子もないこと言ったり、すごく変わった子もいるんですよ。でも3・4人のグループだとそれぞれが意見を言えて、突拍子もないことを言っても「面白いよね」っという感じで周りがなんかこう受け入れられていたりしますね。
 
味岡:僕は変わってるとよく言われるから。それを良いように捉えてます。話の流れの中で、自分が突拍子もないことをやってるんだっていう自覚はしていると同時に、それが良い影響をあたえているんじゃないかと思っています。
 
森:本当にいろんな意見の人がいて当然だし、それこそが面白いんだと思います。


反対意見を言うことは、誰かを取りこぼしてしまうということなのか


味岡:僕は、信頼している人には辛辣なことを言います。この人は別に仲良くないなって言う人には肯定だけしています。
それは、自分が信頼してる人だからこそ言葉を受け止めて広げてくれるかもしれないし、僕は喧嘩したいんです。そういう理屈で、嫌なことや「それってダメだよ」みたいなこと言わない相手を信頼していない。
 
味岡:自分の中で人と深い話をしたいときに、前提として人を傷つけないように言葉を選んでいると、絶対深いところにはいけないと思います。
 
まきを:反対意見を言うことが、「その人を取りこぼす」とイコールではないし、すべてを「いいね、いいね」と肯定することがが取りこぼさないっていうわけではない。でも確かに、反対意見を言われてへこんでしまう気持ちも分かる。もちろん誰しもそうだと思うんです。それがすごく難しいなあと思っていて。
 
まきを:ただの反対意見だけど、自分自身を否定されたように感じてしまう人が多分いると思うんですよね。それは、伝え方なのか、、、難しいなって思います。
 
まきを:賛成反対はいいけどジャッジはだめみたいな話もよく話されるテーマだと感じます。

 つくし(サブリーダー):違いが難しい。

清水(ベニューリーダー):例えば、私はジュースが好きで、もう一人はお茶が好きだとしたときに、「お茶が好きはないわ」と言ってしまうのはジャッジしている、相手の意見は価値がないものとして抹消してしまっているということですね。
 
いくみん:賛成反対とジャッジは違うものだと思う。でもその線引きは難しい。
 
まきを:始めに話していた、先入観もジャッジの一因になるのかなと思います。「これは若い人の意見だから」という理由でその意見を無いものにするのはジャッジなのかなと思っていて、「若いから聞かない」みたいなことは取りこぼされているなと感じます。

「だれも取りこぼさない」って…


まきを:仮に「誰も取りこぼさない世界」ができたとしても、それは時がたつにつれて誰かを取りこぼす世界になると思います。それは、私たちが作った世界だから。私たちより後に生まれた人のことは考えて作られていないから。
 
まきを:常にコミュ部やKYOTOGRAPHIEのスタッフさんたちの中で共有されている「当たり前」みたいなものが何かということを考え続けないといけないのかなと思います。その「当たり前」や「みんな」の中に自分の存在が認められていないという人がいるという状況は望ましくなくて、その状況を生まないためには「ひとりひとり」と関わっているんだという意識を持つことが重要だといったことでしょうか。


まとめ


今回の公開会議では「だれも取りこぼさない」ってどういうことかについて考えていくうちに、「先入観」や「ジャッジ」などのテーマに話が移り、全体として「ひとりひとり」と向き合うことが大切だということを共有できたように感じます。
 
ライブ終わりに味岡さんは「この問いの答えはでないけど、だからこそ考え続けることが大事だ」と言っていました。
これからも、そしてコミュ部としての活動が終わった後も、きっと何度もこの問いに衝突し、答えを迫られるようなことがあるでしょう。
その度に、私はこの会議を思い出すと思います。
 
当たり前を疑って、考え続けることの大変さと大切さを再確認した会でした。
 
 
ここまでお読みくださりありがとうございました。
次回の投稿も是非、お楽しみに~!

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