1.fieldアイリッシュセッションの始まり Part1
現在、Irish PUB fieldが休業を余儀なくされている中で、1987年の”field”創業以来の、過去の様々な資料や記事に触れる機会がありました。
学生時代(2009年)に初めてfieldに足を踏み入れた店長の私もこれまで知らなかった、どのような人々によって、”field”は、京都初のIrish Pubとして、その軌跡を描いてきたのか、このnoteという媒体を通して紐解いていきたいと思います。
noteから得られる皆様のサポート(投げ銭)は、field存続のために役立てたいと思っています。
さて、”field”のnote初投稿は、field オーナー洲崎一彦が、ライターのおおしまゆたか氏と共に編集発行していたメールマガジン、「クラン・コラCran Coille:アイルランド音楽の森」(2001~2011年)に寄稿した記事をご紹介いたします。関西アイルランド音楽黎明期の雰囲気がお楽しみいただけると思います。
※現在「クランコラ」は、「ケルトの笛屋さん」hatao氏によって引き継がれています。(Irish PUB field 店長 佐藤)
↑アイルランド音楽界の大御所ドーナルラニー氏を迎えてのセッション風景。左fieldアイ研ぶちょー氏、右洲崎、3人の胸三角バッジは当時のfieldアイ研部員バッジである。2000年9月撮影
fieldどたばたセッションの現場から 1(2001年7月)
私は京都で field というアイリッシュ・パブを営んでいる。本来ならこういう場所に登場することができる資質など持っていないのだが、昨年ドーナル・ラニーが京都を訪れてウチでセッションになった折、居合わせた大島さんがたまたま当セッションに注目していただいた縁で、この度、皆様の末席に加わらせていただくことになった。
正直に白状すると私のアイリッシュ・ミュージックの認識は初心者はおろか入門希望者という所にとどまっているレベルだと思う。実際、私がたまたまアイリッシュ・ブズーキを演奏している事から、「すごく知ってる人」と思われがちな事に日々弱っている。
なぜブズーキなのかというのも深い意味はない。最初はアイリッシュ・ギターを弾こうとしていたのが、たまたま手にしたブズーキという楽器が非常に面白かったのと、アイリッシュ・ギターで多用される特殊なチューニングを覚えるなら新しい楽器を始めるのも同じだと考えたに過ぎない。
これ以上ボロを出すと方々から「なんでお前みたいなのがここにおるねん!」とお叱りを受けるかもしれないので、ここらあたりにしておくが、そういう私が現在アイリッシュ・セッションを主宰している事のデタラメさをこの際皆様に笑っていただこう、というのが今回ここに登場させていただいた主旨だとご理解いただければ幸いだ。
私は、アイリッシュのセッションというものの存在を初めてヒトから聞いた時の驚きと憧れを今でも良く覚えている。
私のアイリッシュ音楽歴は、1990 年頃より細々とCDを聴き始め演奏にもトライして来たのだが、ただ内輪で遊んでいただけで、情報を意欲的に収集するなんてこともせずにだらだらと時間ばかりを浪費していたような内容に過ぎなかった。
それが99年初頭にたまたま自分の参加していたアイリッシュ・ バンド(アイリッシュ・ミュージックを演奏するバンドというだけの意味です)でライブをした時、過去にはあり得なかったぐらいにお客さんが集まった事に仰天した。それは『リバーダンス』と『タイタニック』の影響だったわけだが、そんなものが流行っている事すら私は認識していなかったのだった。
客席に友人以外のお客さんが居る事自体にビビってしまうような有様だった。その客席にたまたま金子鉄心氏がいた事がその後の私のアイリッシュ人生を一変させる事になるのだった。
金子鉄心氏の名前は以前から知っていた。以前関西からデビューしたロックバンド「おかげさまブラザーズ」のメンバーだったからだ。その金子氏がおかげさま解散後ソロ活動をしながらアイリッシュ・ミュージックに手を染めていたことは全く知らなかった。
後日、彼は当時私の経営していたカフェギャラリーに何度か足を運んでくれた。それまでの仲間以外の一般の人と初めてアイリッシュ・ミュージックの話をした記念すべき出来事だった。
1999年の春頃だったか、私に、セッションというものがあるんだよ、と教えてくれたのは、この金子鉄心氏だったのだ。セッションというのは酒場に三々五々ミュージシャンが集まってきて夜な夜な凄い演奏を繰り広げるもので、それはジャズやブルースのジャム・セッションよりもずっと自由で開放的、もちろんライブなどでは断じてありません。
なんて聞くと、それは凄い!と目を輝かせてしまう私だった。ウチは一応お酒も置いている店なんだから、ソレやろう、すぐやろう、是非やろう、と非常に短絡的にセッションをやることに決定してしまったのだった。
最初のセッションの夜、集まったのは、当時私が参加していたアイリッシュ・ バンドのメンバー数名と金子氏、それと金子氏のアイリッシュ音楽の先生として紹介された大阪の原口トヨアキ氏(この時は原口氏が関西を代表するアイリッシュ・バンド、シ・フォークのメンバーであることすら知らなかった)。
原口氏は昔の編み機のケースのようなものを持っておられたのだが、まさかその中に生まれて初めて見るイーリアンパイプが収まっているとは思いもよらなかった。
開口一番、私は原口氏に尋ねた。「セッションのやり方を教えてください」
今思うと何というアホな質問か!。この夜の私たちの稚拙な認識と演奏に付き合って下さった原口氏の暖かい眼差しには何度感謝しても過ぐるものではない。
その夜は私たちのバンドのレパートリーをひととおり演奏する事で とりあえずのセッションは終了したが、その時点では私はセッションで演奏 されるポピュラーな曲というものがあって、それをセッションに参加するミュージシャンは常時100曲も200曲も覚えているものなのだ、という事実す らまだ知らなかった。ましてアイリッシュ・ダンス・チューンが何千曲単位で存在する事など思いもよらなかったのだった。(以下次号)
<洲崎一彦:京都のIrish PUB field のおやじ>
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