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身の丈に合った親切論

人の不幸は蜜の味、人の偽善はーー

 善を行う人間の視野が狭いほどその偽善は広く広がるものだ。
 実際、遠くの方しか見ない人間への批判は低予算ゲーム広告並みに目にする。
 社会運動家などを指して、「彼らは遠い世界の悲劇に心を痛める一方で自分の目の前の小さな善行を見過ごしている」などと批判しているのがそれだ。ここでは遠くしか見ていない視野の狭さが批判されている。
 一方で、私たちは手の届く範囲の身近な人に親切にすることに集中するべきで、遠くの人間や関係のない人間のことで騒いでも仕方がない、というような主張は割と広く受け入れられている。

都合の良い手頃な幻想

 ここには「自分の身の丈を知り、自分の手の届く範囲の身近な人に親切にしていくことが世の中を良くする第一歩だ」というお手頃な幻想がある。
 この幻想の優れている点は、人々に一歩目を踏み出しただけで満足感を与え、それ以上のことには無責任でいて良いかのような錯覚を与えることだ(現代人の責任から解放されたい願望など語るつもりはないが)。
 しかし近くしか見ようとしないことは、遠くしか見ないことと同様に愚かである。単に視野角を反転させれば良いという話ではない。
 ここで考えなければならないのは「手の届く範囲の身近な人間」に誰が含まれていて誰が含まれないかということである。
 私たちの社会には分断がある以上、みんなが隣の人とおてて繋げば全世界のみんな手を繋げる、みたいな素人が描いた絵本のようなことになっていない。

排他的親切心

 例えば、ゲーテッドコミュニティ。ゲーテッドコミュニティの内部は安全で豊かだ。入ることを許可された人間以外の侵入を拒否するゲーテッドコミュニティは不審者による犯罪が防止されているし、プールやジムなどの共有スペースも居住者と一部の限られた人間しか使えないため、安心して利用できる。こうしたゲーテッドコミュニティ内では、手の届く範囲の身近な人間への親切はコミュニティ内の信頼と結束を高める結果に繋がる。コミュニティ内では
 身近な人への親切だけを考えるなら、それはコミュニティ内での信頼と結束を高めても、外部で起きる犯罪や問題への無関心を生み出すだろう。身近な人への親切というのは時に排他的になる。
 そもそも手の届く範囲の身近な人間に親切なのはマフィアやヤクザの世界も同じなわけで、手の届く範囲の身近な人間に親切であることはそこから排除された人間に残酷であることと何も矛盾しない。
 また縁故採用やコネ採用なんて露骨な例でなくとも、世の中には見えない形の様々な身内びいきや差別が存在しているし、そういうのも身近な人への親切の一形態ではあるが、外へは広がっていかず排他的になる。
 物理的な分断だけではなく心理的な分断もある。
 たとえ物理的に身近な人間でも「なんか助けたくないな」「こいつは助けてもしょうがないな」と思われた瞬間その人は「手の届く範囲の身近な人間」ではなくなる。
 たとえば、精神疾患を抱えた人はそうでない人に中々理解されないというのは有名だ。これは貧困問題も同じで、貧困状態にない人間は心理的にもリソース的にも余裕があるため貧困から抜け出すなんて簡単なことだと思ってしまうのだ。
 そういう場合も考えれば、身近な人間への善意が広がっていく範囲には限界がある。私たちには身近な人々への親切心も、遠くの他者への想像力も両方が必要なはずだ。

政治嫌いとゲーム化する政治

 環境問題など、現代における問題は個人の力ではどうにもならない大きなものも多い。格差の問題もそうだが、私たちの社会は構造の問題で溢れており、そうした問題は身近な人への親切心ではどうにもならないし、そうした問題で苦しんでいる人もいるのだ。それは国がやればいいと言うにしても国が自動的にやってくれるわけではないし、誰かが声を上げなければ基本的に議員も動きはしないということも多くある。そのために政治はある。
 一部の政治嫌いな人は政治をみんなで可哀そうな人を助けよう学級会か何かだと思っているので、共感はしないが境遇や社会構造を想像した上でなんとかしようとする現実的な視点がない。
 よくリベラルな主張に対して「優等生みたいな綺麗ごとだ」という比喩がよく使われるが、それが正しいかどうかは置いておくとして、少なくとも不良ごっこをしていれば何かが解決するわけでもない。
 無論、一部の政治嫌いな人がこうした政治理解になるのは、社会全体が当事者主義化した結果だとも言える。メディアが当事者の声を届けることに腐心し、大衆が当事者たちに任せておけばいいという政治的怠惰に身を委ねた結果、政治はいつしか当事者性を主張して注目を集めるゲームになってしまった。
 当然、注目というものは承認と同じく奪い合うものなので、当事者の運動はSNSの承認欲求のゲームと区別が付かなくなっていく。もちろんそれは当事者にとっても不幸なことで、ここには社会から疎外された当事者同士が連帯する可能性がなくなってしまい、異なる当事者は注目を奪い合うライバルになってしまったように思う。
 だから、政治を当事者と当事者の利害対立だとしか捉えられないのはたしかに幼稚ではあるがそれなりに理由はあるとは思う。
 いわゆるノンポリが政治を嫌うのは、様々な種類の当事者が増たことで政治的正しさの数が増え、不正解だけが数を増やしていると思っているからで、幸福になるための正解はない時代に間違いだけが増やされていくという感覚があるからだろう。
 遠くの他者への共感を冷めた目で揶揄されながら、身近な人への親切を説かれる背景には、社会を単純化して考えたいという欲望があるようにも見える(だってそうじゃないと疲れるから)。

不思議な人間社会

 しかし残念ながら、人間というものはたとえ直接関係のない他者であっても感情移入をすることもできるし、感情移入ができなくてもその立場を理解し想像することができる。そしてそうしたものが少しずつ社会を良くしていくこともあるはずなのだ。
 そういったことを無視して、自分と関係のない人間に共感するのは自己と他者の境界が曖昧だからだと抜かす人の方が独りよがりな世界観を持っていると思う。幼稚で利己的な人間ほど、自己弁護の為に人間の本性は利己的だということを言いたがるのは世の常ではあるが。
 身近な人への親切が説かれる時、それは本当に言葉通りの意味で捉えてよいのだろうか。テクノロジーが発達し遠くの人間とも繋がれるようになった今、身近な人というのが具体的に誰を指しているのかというのは案外曖昧にされたままこの手の言説は受け入れられてしまう。なぜ曖昧なまま受け入れられているのかと言えば、単に社会の複雑さに向き合いたくないために、社会と関わらずに自分の人生を完結させたいという欲望が関わっているのではないかと思うが、まぁこれを言うと邪推だなんだとうるさいので言わないでおこう。

結語

 ともあれ結論はシンプルだ。身近な人への親切も自分とは異なる他者への想像力も両方必要で、たとえそれが困難でも自分の所属するコミュニティの範囲を超えて広範な社会へ目を向けることも重要だということだ。

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