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1985年生まれ

なんとなく35歳の話

35歳になった春、彼は自分が既に人生の折りかえし点を曲ってしまったことを確認した。いや、これは正確な表現ではない。正確に言うなら、35歳の春にして彼は人生の折りかえし点を曲ろうと決心した、ということになるだろう。

村上春樹の短編、「プールサイド」の冒頭である。
中学校から大学卒業までをトップクラスの水泳選手として活躍した男が、35歳の誕生日に突然に涙を流すという物語である。

彼は求め、求めたものの多くを手に入れた。努力もしたが、運もよかった。彼はやりがいのある仕事と高い年収と幸せな家庭と若い恋人と頑丈な体と緑色のMGとクラシック・レコードのコレクションを持っていた。これ以上の何を求めればいいのか、彼にはわからなかった。
         (回転木馬のデッドヒート収録「プールサイド」,P73)

35歳までの彼の人生は決して不幸ではない。むしろ人よりも幸せな人生を送っている。それでも突然に、35歳の誕生日に彼は涙を流してしまう。泣く理由など何ひとつないのに。

僕は考えた。ひとの生は、なしとげたこと、これからなしとげられるであろうことだけではなく、決してなしとげなかったが、しかしなしとげられる《かもしれなかった》ことにも満たされている。生きるとは、なしとげられるはずのことの一部をなしとげたことに変え、残りをすべてなしとげられる《かもしれなかった》ことに押し込める、そんな作業の連続だ。ある職業を選べば、別の職業を選べないし、あるひとと結婚すれば別のひととは結婚できない。直接法過去と直接法未来の総和は確実に減少し、仮定法過去の総和がそのぶん増えていく。
 そして、その両者のバランスは、おそらく三十五歳あたりで逆転するのだ。その閾値を超えると、ひとは過去の記憶や未来の夢よりも、むしろ仮定法の亡霊に悩まされるようになる。それはそもそもがこの世界に存在しない、蜃気楼のようなものだから、いくら現実に成功を収めて安定した未来を手にしたとしても、決して憂鬱から解放されることがない。                                                                (クォンタム・ファミリーズ,P28)

上記したのは、この村上春樹の短編を多くの場面で引用する東浩紀の小説「クォンタム・ファミリーズ」の一節である。35歳の主人公が「プールサイド」を読み、考えたことである。

当たり前の話だが、人はひとつの人生しか歩むことができない。ある職業を選べば、もうひとつの職業は諦める必要がある。ごく当たり前のことだ。
そうして選ばなかった、選べなかった事柄たちが、亡霊となり、蜃気楼となる。人生の可能性は年齢と共に収斂されていく。その分水嶺が35歳である。亡霊や蜃気楼に惑わされるのは、決して限られた一部の人だけではない。35歳を越えるすべての人が、等しく抱えるものである。幸せそうなあの人も、落ち込んでいるあの人も、亡霊を抱き抱え、蜃気楼に惑わされる。


退職したばかりで、今はまだぼんやりとしている、僕の亡霊や蜃気楼たち。

5年後にはどんな姿かたちをして現れるだろうかな……などと近い未来を想像しながら、今は日々の些末なことに追われています。





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