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『ひかりの歌』公開記念 往復書簡4(杉田協士)

宮崎大祐さま

宮崎さんから届いた手紙がとてもおもしろくて、読みながら声を出して笑っていました。宮崎さんが反抗の火柱として燃え上がっていく過程が、どうしてこんなにたのしく読めてしまうのかを考えていました。書いている宮崎さんが歳を重ねてすこし弱ってきて、そのことを受け入れているからでしょうか。映画をつづけるのが、意地と食い扶持のためだと言いきる宮崎さんが書く言葉だからこそ、私には響くのかもしれません。

『ひかりの歌』の撮影は主に3人で進めていました。撮影の飯岡幸子さんと音響の黄永昌さんと私。ふたりは私のひとつ上で、ほぼ同い歳に近いメンバーで現場をやっていて、空いた時間に話すことは体力や集中力の衰えについてでした。黄さんはそのことを受け入れながらも、衰えをやわらげるために体幹トレーニングを自分に課していて、札幌で合宿をしているときは、みんなにやり方を教えてくれたりしました。私もそのときだけは一緒にやってみましたが、合宿所が閉じるときにはそれも終わりました。宮崎さんも新作『VIDEOPHOBIA』の撮影で大阪に滞在していたとき、黄さんから教わることもあったかもしれません。自分たちが下り道の途中にいることを感じながら、諦めながら撮影していたのが『ひかりの歌』でした。宮崎さんほどではなくても、あのころに燃え上がらせた火柱は、今後も弱っていくだけなので、それに合わせて無理なく映画と付き合うしかなく、思えばそれは普段の生活とも同じで、走れば間に合う電車に乗らずに、ホームを出ていく車両を見送ったあと、ベンチに座ってペットボトルのお茶を飲むような日々です。私たちはきっとボブスレーを選べる体力も持っていないかもしれません。せめて『クール・ランニング』の4人のジャマイカ代表選手のようにソリを担いで、彼らよりは遅くても、ちょっとずつ歩くくらいはできるといいです。

正直なことを言いますと、宮崎さんが返してくれた手紙に感動してしまって、もうここでこのやり取りを終えてもいいのではないかと思いました。でも、それだと1往復半しかしないことになり、往復書簡とは呼べない気がするので、宮崎さんの火柱で体をあたためながら、焚き火を囲んで話すくらいの元気でお返しをできたらと思います。

自宅が東京の西側の多摩にあるのに、恵比寿や新宿のTSUTAYAに通った日々のたのしさとか、『牯嶺街少年殺人事件』の前後編VHSがやっと借りられたときのよろこびとか、先輩たちから叱咤された言葉とか、宮崎さんが書いた記憶と自分の記憶が混じり合うようでした。私が最初の手紙に書いた如月小春さんは、まさにセゾン文化の中心にあったスタジオ200で劇団の旗揚げ公演を開いた人であり、私の長編第1作『ひとつの歌』の音楽を作ってくれたのは、スタジオ200での勤務歴がある柳下美恵さんでした。もう言ってもいいと思いますが、閉館まで残り数日だったシネセゾン渋谷で、支配人のやさしさで、深夜に内緒で『ひとつの歌』の試写会を開かせてもらったことがあります。私のわがままのような集まりに付き合ってくれた友人知人たちには、ロビーの冷蔵庫からコロナを自由に取ってもらいました。お酒を飲めない人にはコーラを。私のなかでの、シネセゾン渋谷での最後のささやかな祭りでした。終映時間には表の入り口は閉まっているので、みんなで静かに裏口から出て、電車もないので朝までつづきのビールを飲んだのでした。

世界に対しての恐れが宮崎さんの映画のなかのあらゆるまなざしを生んでいるというお話。それにつづく『ひかりの歌』のなかのまなざしについてのご質問がありました。狙いを持って演出していたかということですが、そこへの明確な意識はありませんでした。『ひかりの歌』に登場する人たちは、恐れのなかにあったとしても、それを受け入れながら日々の営みを大事にしている人たちかもしれないと、宮崎さんの言葉ではじめて気がつきました。『ひかりの歌』では、脚本がまだない時点で撮影場所と出演者を決めていました。どの章にも、たとえば第3章の写真店のように、実際に存在している場所と、そこで暮らしている人が登場します。協力してもらえることが決まってから、ではそこではどんな映画が生まれるのだろうと、はじめて脚本について考えはじめていました。ですから、そこでのまなざしも、撮影に入った時点から私が演出して生み出したものではなくて、すでにそれがある場所に、私たちがお邪魔したということになります。ではどうしてその場所を選んだかといえば、私自身がそこにいる人たちの持っているまなざしに、映画以前に惹かれていたからだと思います。できることは、そのまなざしをどのようにしたら映画として写し出せるかを考えることでした。『ひかりの歌』はそのためにあったのかもしれません。私にとって映画のカメラは、いつまでも、どこかの場所にお邪魔して置かせてもらうものとしてあります。カメラというものがこの世界に存在しなかったとしても、すでにそれはあって、たまたまカメラという道具があるから記録できる、かもしれない。そういったやり方で、世界に対しての恐れと向き合っていく元気をもらえているのかもしれません。

宮崎さんが最後に書かれた、居なければ居ないで寂しいもんですねという言葉に触れて、なにか込み上げてくる感情がありました。この往復書簡は、もしかしたら宮崎さんと私が、同じ輸送機をいつか見ていたこともあるかもしれないと想像するためにあったのかもしれないと、思いかけてやめました。私が住む多摩の上空にも航空機は姿を見せますが、それが自衛隊機か米軍機かは、すぐには判別できずにいます。それが、基地のある街で暮らしてきた宮崎さんと、離れた場所で暮らす私の差であり、だからこそ、この往復書簡ははじまったのかもしれません。

宮崎さんとの手紙のやりとりがまた再開することもあるかもしれないという予感がしています。その予感を残したまま、そろそろ焚き火(宮崎さんという火柱)にあたためてもらう時間も、終わりに近づいていると感じています。私は感謝しきれないくらい、あたたまりました。向こう何年かはだいじょうぶそうです。ありがとうございます。最後に、なんてことのない話で終えられたらと思いますが、どうでしょうか。映画を大事にしている人に気軽にできない質問、してもいいですか。

いちばん好きな映画はなんですか。

タイトルだけでなく、その映画をめぐる宮崎さんの話を聞いてみたいです。

杉田協士


ひかりの歌 公式サイト

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